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旭川市博物館

住所 旭川市神楽3条7丁目 旭川市大雪クリスタルホール内
開館時間 9時〜17時まで(入館は16時30分まで)
休館日 毎月第2及び第4月曜日
入館料 大人300円・高校生200円・中学生以下無料

社団法人 旭川観光協会

旭川市博物館

旭川の地名の由来は、アイヌ語で忠別川「チュプ・ペッ」(日・川)の意味で、「日」を「旭」に置き換えて「旭川」と意訳した。
国道237号線沿いの道の駅 あさひかわから約200mほど。
大雪クリスタルホールの中に併設された市立博物館で、1993(平成5)年より現在の場所で運営されている。
1968(昭和43)年から1992(平成4)年までは「旭川市郷土博物館」の名で旧偕行社(現・中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館)にあった。


旭川の歴史、アイヌ文化、大雪山の生態系など、旭川のことを楽しく学べる。
館内は、順路にしたがって歩けば過去から現代に北海道や旭川の歴史が移り変わって行くように展示されている。
上層階には、アイヌの人々やそれ以前の古代の人々(竪穴式住居・チセ)や屯田兵が入植してきた住居を復元移築してある(屯田兵屋)。
当時の生活用品などの資料を展示していて、アイヌの人の暮らしなども学ぶこともでき、古い縄文土器から矢じりまで多岐に渡り収蔵されている。


下層階では「北国の自然と人間のかかわり」をテーマにした資料を展示しており、旭川とその周辺の地質、地形、気候、生態系及びその形成過程を詳細に知ることができる。
中央には、大雪山の生態系や岩石の数々も展示されており、いろいろ分野のことを総合的に知ることができる。

歴史マニアならずとも、旭山動物園のお供に是非見学してみてください。

1807(文化4)年、近藤重蔵 利尻からの帰途上川地方を探検。上川に番屋が置かれる。
1858(安政5)年、松浦武四郎が上川探検し、アイヌ人306人を確認している。
1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称、石狩川筋神居古譚以北を石狩国上川郡とする。
1877(明治10)年、鈴木亀蔵(通称 亀吉)、上川郡初の和人定住者となり、交易雑貨商をを営む。(上川最初の和人定住者)
1883(明治16)年、樺戸集治監らによる樺戸郡浦臼太〜上川郡までの地理・地形・水利調査を行う。
1885(明治18)年、岩村通俊・永山武四郎一行、上川に入り、近文山より国見をする。
1886(明治19)年、空知太(現・滝川)〜忠別太(現・旭川)まで囚人の労役により、上川仮道路開通する。
1888(明治21)年、上川二等測候所開設する。
1890(明治23)年、上川郡に旭川・神居・永山の三村を置く。
1891(明治24)年、永山村(現・旭川市永山)に屯田兵400戸入地する。神居・雨粉で杉沢繁吉が水稲の作付を開始するも失敗。
1892(明治25)年、旭川村(現・東旭川)に屯田兵400戸入地する。
1897(明治30)年、旭川警察署開庁。上川郡役所を旭川に移転開庁。
1898(明治31)年、上川線空知太(現・滝川)〜旭川間鉄道開通。旭川駅開業。
1899(明治32)年、北海道旧土人保護法公布。
1900(明治33)年、旭川村を旭川町と改称。
1901(明治34)年、第七師団司令部を札幌より移転。
1904(明治37)年、初代旭橋完成。
1906(明治39)年、旭川駅〜師団方面の馬車鉄道開通。
1908(明治41)年、旭川電燈(株)(現・北海道電力)、電力供給開始。
1912(明治45)年、レルヒ中佐が、旭川第七師団に訪れスキーを指導し、北海道のスキー発祥となる。
1922(大正11)年、市制施行。
1929(昭和4)年、第1回慰霊音楽大行進(現・北海道音楽大行進)開催。
1932(昭和7)年、石北線全線開通。現・旭橋完成。
1936(昭和11)年、ロータリー完成。
1940(昭和15)年、国策パルプ工業(株)旭川工場操業開始。
1945(昭和20)年、師団通を平和通と改称。
1950(昭和25)年、北海道開発大博覧会開催。
1955(昭和30)年、神居村・江丹別村合併。
1963(昭和38)年、東旭川町合併。
1966(昭和41)年、旭川空港開港、東京便就航。
1967(昭和42)年、旭山動物園開園。小熊秀雄賞創設。
1968(昭和43)年、神楽町合併。第1回小熊秀雄賞授賞式。(毎年実施)
1970(昭和45)年、第1回中原悌二郎賞授賞式。(毎年実施)
1971(昭和46)年、東鷹栖町合併。
1972(昭和47)年、全国初の恒久歩行者天国、平和通買物公園オープン。
1984(昭和59)年、スタルヒン球場オープン。
1993(平成5)年、井上靖記念館開館。大雪クリスタルホール開館。
1994(平成6)年、中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館開館。旭川冬まつりのメイン雪像ギネス認定。
1998(平成10)年、三浦綾子記念文学館開館。
1999(平成11)年、雨紛大橋の開通により、旭川環状線全線開通。
2000(平成12)年、4月中核市に指定指定される。道央道の旭川鷹栖IC - 和寒IC開通。旭川北IC供用開始。
2002(平成14)年、永山新川(牛朱別川分水路)供用開始。
2004(平成16)年、7月、8月旭川市旭山動物園の月間入園者数が日本一を記録する。
2005(平成17)年、旭川市科学館を北彩都あさひかわ地区に新築移転。
2006(平成18)年、旭川市旭山動物園の月間入園者数が4ヶ月連続で日本一を記録する。(6〜9月)
2010(平成22)年、旭川駅新駅舎完成。部分開業。鉄道高架化。
2011(平成23)年、旭川駅新駅舎完全開業。

近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)とは、1771(明和8)年 - 1829(文政12)年6月16日(7月16日)、江戸時代後期の幕臣、探検家。
明和8年(1771年)、近藤右膳守知の三男として江戸駒込に生まれ、17歳で私塾「白山義学」を開くなど、当時としてはかなりの学才の持主であった。
1790(寛政2)年、御先手組与力として出仕。火付盗賊改方としても勤務する。
1798(寛政10)年、幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱となる。
4回にわたり蝦夷地(北海道)へ赴き、千島列島・択捉島を探検する。
1807(文化4)年、再び松前奉行出役となり五度目の蝦夷入りを果たす。
その際、利尻島・上川・札幌周辺を探索する。

松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日、江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。
1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。
この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。
1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。

岩村通俊(いわむらみちとし)とは、1840(天保11)年6月10日(7月8日) - 1915(大正4)年2月20日、日本の武士で政治家。
明治時代に農商務大臣、宮中顧問官、北海道庁長官を歴任する。
位階勲等は正二位勲一等男爵。貫堂と号し、素水を俳号とする。
通俊の功績を称え旭川市の上川神社に祀られ、旭川市常磐公園・札幌市大通公園・札幌市円山公園に銅像が建立されている。

永山武四郎(ながやまたけしろう)とは、1837(天保8)年4月24日(5月28日) - 1904(明治37)年5月27日、日本の陸軍軍人で、明治時代に北海道庁長官、第7師団長、貴族院議員等を歴任する。官位は陸軍中将従二位勲一等男爵。
鹿児島藩士、永山盛広の四男として生まれ、同じ藩士の永山喜八郎の養子となる。
戊辰戦争に従軍し、維新後の1871(明治4)年7月、陸軍大尉・2番大隊付に任命される。
1872(明治5)年、9月から北海道開拓使八等出仕となる。
1877(明治10)年、4月に屯田兵第1大隊長に就任後、西南戦争に従軍する。戦争から帰還し屯田兵大佐となる。
1888(明治21)年、6月から第2代北海道庁長官を兼ねる。
1889(明治22)年、8月屯田兵司令官に就任。
1895(明治28)年、2月臨時第7師団司令官となり、同年12月4日、男爵に叙される。
1896(明治29)年、5月第7師団師団長に正式に就任する。同年10月、陸軍中将に進級し1900(明治33)年、4月まで務めた。
北海道庁長官となった武四郎は、北海道でも特に内陸部の開発に着目していた。
岩村通俊と共に上川原野を視察し、国見を行ったことでも有名で屯田兵村を設置するが、この村は1890(明治23)年、永山村と名前を変える。

国道237号線とは、旭川市から浦河郡浦河町に至る一般国道で、総距離は259.6km。

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