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大函・小函

住所 上川郡上川町層雲峡

層雲峡観光協会

上川町の由来は、アイヌ語の「ペニ・ウングル・コタン」(川上の人々の集落)を意訳したもので、1921(大正10)年に愛別村から分村する際、石狩川の上流であることから名付けた。
層雲峡の由来は、アイヌ語で「ソウウンベツ」(滝の多い川)と呼ばれていた。これにちなんで大町桂月が1921(大正10)年に層雲峡と命名。
大函は、川の両岸が切り立った断崖に囲まれ、「大きな函の中に閉じ込められたような感じのする」ことから「大函」と呼ばれる。
上川町にある峡谷で、大雪山国立公園に位置し、石狩川を挟み約24kmの断崖絶壁が続く。
この断崖は、約3万年前の大雪山の噴火により堆積した溶結凝灰岩が石狩川によって浸食されたことにより形成されたもので、高さ200m前後の柱状節理の断崖を間近に見ることができる。
国道39号線を層雲峡から北見方面に約6kmほど、以前は観光客も多く、バスも入ってくるほどの観光地だったが、今は落石の危険があるため、ほとんどが通行止めで入れないのである。
写真にあるトンネルは、1974(昭和49)年、新大函トンネルが完成して新道に切り替わるまでこちらが国道39号だった。
現在は大函橋へのアプローチを含めて遊歩道は通行止めだが、昔は小函まで歩いて渡れた。





小函方面へは、大函トンネルを抜けて駐車場に入らないと行けない。
この駐車場から大函方面に行くと、通行止めの柵の手前に尾崎行雄碑がある。
駐車場から小函遊歩道方面へは、徒歩か自転車でしか行けないが途中で通行止めの柵がある。
ここには無名滝やライマン沢がある、ライマン滝は見つけられなかった。



上を見上げると絶壁が聳え、柱状節理がとても綺麗だ。


1854(安政4)年、松田市太郎「イシカリ水源見分書」にて水源調査多数の温泉確認「大川端に温泉数ヶ所有之」と書く。同年、箱館奉行所雇松浦武四郎も水源調査に行き「石狩日記」地図に温泉地残しており、途中武四郎は市太郎に直接会って探検のいきさつなどを聞き、途中で引き返したようだ。
1872(明治5)年、開拓使々掌高畑利宜が石狩川上流探査し、温泉地を見出し「将来ハ温泉場トシテ何人カ之ガ設置スベキナラン」と書き、景観命名第一号「天婦瀧函川」、このとき地図も作成している。
1874(明治7)年、7月米地質学者ライマンが開拓使の命によってアイヌらと石狩川水源に至る、ライマン同行者の秋山美丸が数箇所の温泉を発見し、秋山温泉と名付けた。
1876(明治9)年、開拓使大判官松本十郎は石狩川水源と十勝国を踏破する。6月に秋山温泉付近で数ヶ所の温泉を見出す。
1900(明治33)年、3月塩谷水次郎が温泉を発見して塩谷温泉と名づけられ、当時の湧きだし口は「桂の湯」と呼んでいた。
1913(大正2)年、地獄谷に板橋がかかる。7月国沢喜右衛門がムカ川から石狩国境を越え温泉を発見し、国沢温泉と名づけられ数軒の温泉宿が営業した。
大正4年、塩谷親子湯小屋を建てる(三間×四間十二坪)、しかし未開の地であり経営は困難だった。
1920(大正9)年、上川町日東から双雲別までの殖民道路開削
1921(大正10)年、8月大町桂月が渓谷一帯に「層雲峡」の字をあて名付け親となる。当時は双雲渓だった。塩谷温泉〜黒岳〜白雲岳〜旭岳〜松山温泉(天人峡)と縦走し、このとき無名山だった山にも桂月岳と付けられた。
1922(大正11)年、大雨により塩谷温泉が壊滅的被害を受ける。荒井組創立者荒井初一がその経営権利を譲り受ける。
1923(大正12)年、層雲閣に層雲峡駅逓所認可。蓬莱閣から層雲閣へ改称する。
1924(大正13)年、層雲峡温泉までの道開削。
1927(昭和2)年、層雲閣までの自動車道が完成した。
1931(昭和6)年、流星、銀河の滝までの自動車道造成。
1934(昭和9)年、大雪山国立公園に指定される。
1945(昭和20)年、大函トンネル完工する。
1957(昭和32)年、大雪国道開通(国道39号上川〜留辺蘂間)
1962(昭和37)年、第1回層雲峡峡谷まつり開催。
1967(昭和42)年、層雲峡ロープウェイ開通する。
1970(昭和45)年、黒岳リフト工事竣工(5合目〜7合目)。
1976(昭和51)年、第1回氷瀑まつり開催。
1987(昭和62)年、6月9日早朝、天城岩の一部が崩落を起こし、石狩川を埋め尽くし国道39号線を走っていたトラック2台、サイクリングの集団を直撃し、岩盤の直撃を受けた3名が死亡、重軽傷者が6名という大惨事になった。
1995(平成7)年、銀河トンネル完成する。
1998(平成10)年、黒岳の湯オープン。
2000(平成12)年、層雲峡ビジターセンターオープン。
2003(平成15)年、黒岳石室バイオトイレ完成する。

大雪山国立公園とは、北海道中央部にある日本最大の国立公園で、1934(昭和9)年12月4日指定された。
旭岳、北鎮岳、白雲岳、黒岳などの大雪山系や、十勝岳、トムラウシ山、石狩岳など2000m級の山々が連なる山岳公園。
総面積は22万haにおよび、南北63km、東西59kmと日本一の面積を誇る国立公園である。
1977(昭和52)年、3月15日特別天然記念物の指定を受けた。

層雲峡とは、上川町にある峡谷で、石狩川を挟み約24kmの断崖絶壁が続く。
大雪山国立公園に位置し、大雪山黒岳山麓にある層雲峡温泉は、北海道有数の温泉街である。
この断崖は、約3万年前の大雪山の噴火により堆積した溶結凝灰岩が石狩川によって浸食されたことにより形成されたもので、高さ200m前後の柱状節理の断崖を間近に見ることができる。
かつては国道39号線から銀河の滝や流星の滝を眺めることができたが、1987(昭和62)年6月9日早朝、天城岩の一部が崩落を起こし、石狩川を埋め尽くし国道39号線を走っていたトラック2台、サイクリングの集団を直撃し、岩盤の直撃を受けた3名が死亡、重軽傷者が6名という大惨事になった。
この事故により銀河トンネルが開通してからは旧道に入ると駐車帯があり、ここから滝を眺めるが、大函・小函には通行止めの為行けない。

松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日、江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。
1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。
この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。
1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。

松田市太郎は、函館奉行所石狩在勤の足軽とされている。
松田岳(標高2136m )という山もあり、お鉢平カルデラの外輪山にあり、由来は、江戸時代に未開の地であった大雪山を踏破し、石狩川の水源を発見し「イシカリ水源見分書」を残した松田市太郎の功績により松田岳と命名された。
1857(安政4)年に、美瑛川上流から十勝岳に登頂し、硫黄を持ち帰ったことが「イシカリ川水源見分書」に記録されているそうだ。

大町桂月(おおまちけいげつ)とは、1869(明治2)年3月6日(1月24日)- 1925(大正14)年6月10日、詩人、歌人、随筆家、評論家である。
1869(明治2)年、高知市北門筋(現・高知県高知市永国寺町4-10)に元土佐藩士の息子として生まれる。
1896(明治29)年、東京帝国大学国文科卒業。
1899(明治32)年、島根県で中学教師となる。
1900(明治33)年、博文館に入社し、1906(明治39)年まで在籍する。
終生酒と旅を愛し酒仙と称され、晩年は遠く朝鮮、旧満州(現・中国東北部)まで足を延ばしている。
北海道の層雲峡や羽衣の滝の名付け親でもあり、道内各地を旅行し紀行文で紹介した。ちなみに大雪山系黒岳の近くには、彼の名にちなんだ桂月岳という山がある。
1925(大正14)年、4月に蔦温泉に移り住むが、胃潰瘍のため死去、57歳。

柱状節理とは、岩体に発達した規則性のある割れ目で、マグマ等が冷却固結する際や地殻変動の際に生じ垂直に発達する、断層とは違う。
柱状になった節理は、六角柱状のものが多く、中には四角柱・五角柱・七角形・八角形のものもある。

国道39号とは、旭川市から網走市へ至る一般国道で、総距離は215.2km。

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