永山新川住所 旭川市永山町13丁目社団法人 旭川観光協会 旭川の地名の由来は、アイヌ語で忠別川「チュプ・ペッ」(日・川)の意味で、「日」を「旭」に置き換えて「旭川」と意訳した。 永山の由来は、1891(明治24)年、屯田兵により拓かれ、上川開拓の祖である永山武四郎の名前が付けられた。 永山市街地から愛別方面に国道39号線を約2kmほど。 旭川市永山地区を流れる人工の河川。石狩川水系牛朱別川が流れる旭川市街地の水害対策として1987(昭和62)年に着工され、2002(平成14)年に供用開始。 ここは建設当時からカモや白鳥の飛来が見られていて、まさかここまで人気になるとは思ってもいませんでした。 今は鳥インフルエンザの恐怖などもあり看板の設置などで注意書きなどもある。(パンなどエサをあげる行為などを禁止している) しかし餌付けしている人が居るのはなぜなんだろう・・・。 全長6キロほどにもなるこの人口の川は、市民の憩いの場にもなっている。 飛来する鳥類 アオサギ、オオハクチョウ、オジロワシ (国の天然記念物)、コガモ、コハクチョウ、ハクセキレイ、マガモ この他にもたくさんの鳥が飛来している。 永山武四郎(ながやまたけしろう)とは、1837(天保8)年4月24日(5月28日) - 1904(明治37)年5月27日、日本の陸軍軍人で、明治時代に北海道庁長官、第7師団長、貴族院議員等を歴任する。官位は陸軍中将従二位勲一等男爵。 鹿児島藩士、永山盛広の四男として生まれ、同じ藩士の永山喜八郎の養子となる。 戊辰戦争に従軍し、維新後の1871(明治4)年7月、陸軍大尉・2番大隊付に任命される。 1872(明治5)年、9月から北海道開拓使八等出仕となる。 1877(明治10)年、4月に屯田兵第1大隊長に就任後、西南戦争に従軍する。戦争から帰還し屯田兵大佐となる。 1888(明治21)年、6月から第2代北海道庁長官を兼ねる。 1889(明治22)年、8月屯田兵司令官に就任。 1895(明治28)年、2月臨時第7師団司令官となり、同年12月4日、男爵に叙される。 1896(明治29)年、5月第7師団師団長に正式に就任する。同年10月、陸軍中将に進級し1900(明治33)年、4月まで務めた。 北海道庁長官となった武四郎は、北海道でも特に内陸部の開発に着目していた。 岩村通俊と共に上川原野を視察し、国見を行ったことでも有名で屯田兵村を設置するが、この村は1890(明治23)年、永山村と名前を変える。 国道39号線とは、旭川市から網走市へ至る一般国道で、総距離は224.4km。 大きな地図で見る |