北海道応援サイト!がんばれ北海道!!

梅の木

住所 旭川市東旭川町米原(旭川第一小学校 校庭)

一般社団法人 旭川観光コンベンション協会

旭川の地名の由来は、アイヌ語で忠別川「チュプ・ペッ」(日・川)の意味で、「日」を「旭」に置き換えて「旭川」と意訳した。
水田が広がる豊田・米原・瑞穂地区は、総称して「ペーパン(米飯)」と呼んでいる。
これはアイヌ語で「ぺ・パン」(水・飲む)と、「ペー・パン・ペッ」( 水・あまい・川)のペッ(pet 川)が略された説の二説がある。もちろんお米づくりが盛んである。昔は「上ペーパン、下ペーパン」と呼んでいたそうだ。上ペーパンのうち20区・21区・23区から成立した。米原になったいきさつは分からなかったが、米飯・豊田・米原・瑞穂は、稲やお米にちなんだ地名になっている。
旭山動物園の入り口手前のY字分岐を旭川21世紀の森方面へ、道道295号瑞穂旭川停車場線を約10km。

1905(明治38)年頃、東旭川村立第一簡易教育所(現在の旭川市立旭川第一小学校)の校長・八島武平が同教育所の前身であった上米飯(ペーパン)簡易教育所の初代教員岡崎正明の退職を記念して、札幌から苗木を取り寄せて植えたといわれている。
2本の梅があったが紅梅は、2000(平成12)年夏に老齢による枯死が確認され現在は白梅のみ現存。2001(平成13)年には紅梅を新たに植え、順調に育っている。
白梅は、白加賀という品種と推定されていて、推定樹齢は100年を超えており、毎年桜とともに5月初め頃に開花する。
梅は旭川市内でも見ることができ、北限の梅としても知られており、旭川市文化財(天然記念物)となっている。

案内板
旭川市指定文化財
 この梅の木は、1905(明治38)年頃、東旭川村立旭川第一簡易教育所
(現在の旭川市立旭川第一小学校)の校長 八島武平 が同教育所の前身で
あった上ペーパン簡易教育所の初代教員 岡崎正明 の退職を記念して、
札幌から苗木を取り寄せ植えたといわれている。また、福島団体開拓記念
誌によると、岡崎正明が移住の際、故郷の福島県太田村(現保原町)より
苗木を持ってきて自分の屋敷地に植えてあったものを、同氏が教職を去っ
て亡くなった後八島武平の指示により1911(明治44)年に現在地に移
し替えられたものであるともいう。
 2本の梅のうち、右側が紅梅で、豊後という品種、左側は白梅で、白加
賀という品種と推定されている。
 1966(昭和41)年1月15日、北限地帯に生息する梅としての標本的
価値、約70年と推定される樹齢(指定当時)、巨木な点において上川地方
では稀なものであることから、旭川市の文化財に指定している。
旭川市教育委員会

追記
 紅梅は、2000(平成12)年夏に老齢による枯死が確認されました。
現在の紅梅は2001(平成13)年春に新たに植えられたものです。

米飯は1898(明治31)年福島県からの入植者により開拓され、戦時中の物資の無い時代には、農村の女性達が冬の手仕事にしていたのが織物で、家で飼っている羊の毛を刈り、糸を紡ぎ、草木で染め、手で織った「ペーパン織り」があり現在も継承されている。

米原は、1937(昭和12)年〜1963(昭和38)年までの行政字名。豊田・米原・瑞穂地区は、総称して「ペーパン(米飯)」と呼んでいる。これはアイヌ語で「ぺ・パン」(水・飲む)と、「ペー・パン・ペッ」( 水・あまい・川)のペッ(pet 川)が略された説の二説がある。もちろんお米づくりが盛んである。昔は「上ペーパン、下ペーパン」と呼んでいたそうだ。上ペーパンのうち20区・21区・23区から成立した。岐登牛山はアイヌ語の「キト・ウシ・イ」(ギョウジャニンニク・群生する・所の意)に由来する。。1959(昭和34)年からは東旭川町の行政字。1963(昭和38)年からは、旭川市と東旭川町が合併し旭川市東旭川町米原となる。
 1869(明治2)年蝦夷地を北海道と改称、石狩川筋神居古譚以北を石狩国上川郡とする。1877(明治10)年鈴木亀蔵(通称 亀吉)、上川郡初の和人定住者となり、交易雑貨商をを営む(上川最初の和人定住者)。1886(明治19)年空知太(現・滝川)〜忠別太(現・旭川)まで囚人の労役により上川仮道路開通する。1890(明治23)年上川郡に旭川・神居・永山の三村を置く。1891(明治24)年永山村(現・旭川市永山)に屯田兵第三大隊第3・第4中隊400戸入地する。これにより開拓が本格化する。1892(明治25)年8月旭川村(現・東旭川)に屯田兵400戸入地する(下東旭川兵村 第三大隊第三中隊200戸。上東旭川兵村 第三大隊第四中隊200戸入地)。1894(明治27)年クラロマナイ川から延長1200間の灌漑溝を掘る。1897(明治30)年上川郡役所を旭川に移転開庁。字ウシシュベツ(東旭川)を永山村に編入。1898(明治31)年9月永山村から独立し東旭川村を置く。上ペーパンに福島県伊達郡大田村(現・伊達市保原町)の三代目村長菊田熊之助を団体長とし、近隣村を含めた128戸が入植したのが始まり。伊達郡は、江戸時代を通じて養蚕業が発展していたこともあり、1909(明治42)年入植者は養蚕農家独特の家をつくった。1899(明治32)年東旭川村上米飯簡易教育所として創立(12坪の教室だった)1900(明治33)年旭川村を旭川町と改称。1903(明治36)年射的山(現・旭山)に稲荷の祠を祀り稲荷山と呼称した。1904(明治37)年屯田兵制度廃止する。5月越中団体10戸、宮城団体数戸移住する。1905(明治38)年東旭川村第一簡易教育所と改称する。1907(明治40)年4月二級町村制施行。1908(明治41)年旭川第一尋常小学校として開校する。1909(明治42)年一級町村制施行する。1910(明治43)年120坪の校舎新築する。
 1912(大正元)年国有林字クラロマナイ(現・旭山)、44町歩の払い下げを受ける。1915(大正4)年一部を当麻村に編入する。1917(大正6)年旭川第一尋常高等小学校と改称し、高等科分教所独立する。1922(大正11)年11月石北線(後の石北本線)旭川〜愛別間開通。新旭川駅・東旭川駅・桜岡駅・当麻駅・愛別駅を新設。分教所を旭川第六小学校と改称する。
 1928(昭和3)年東旭川第一家政女学校を設置する。1929(昭和4)年水神宮の小堂建立する。旭川市から郊外へ電車が開通して大通りが中心街として発展していく。1937(昭和12)年下兵村・朝日・千代田・愛宕・共栄・旭正・上兵村・本町・忠別・日ノ出・倉沼・桜岡・東桜岡・豊田・米原・瑞穂の16字を編成する。米原の世帯数は159戸。1947(昭和22)年米原に東旭川村役場出張所が置かれる。東旭川村立旭川第一小学校と改称する。1959(昭和34)年町役場が新築移転する。村制時の15字を継承する。東旭川町立旭川第一小学校と改称。1963(昭和38)年東旭川町と合併し旭川市東旭川町米原となる。旭川市立旭川第一小学校と改称。町制時の15字を東旭川町を冠する。旭山風致公園として供用開始する。1966(昭和41)年「梅の木」旭川市天然記念物に指定。1967(昭和42)年旭山動物園開園。昭和43年から昭和47年にかけてペーパンダムの調査が行われる。1973(昭和48)年養蚕民家を旭川市文化財に指定。1974(昭和49)年からペーパンダムの工事に着手する。1983(昭和58)年旭川第六小学校休校。1984(昭和59)年旭川第六小学校と統合する。1985(昭和60)年「梅」3本植樹する。1987(昭和62)年3月旭川第六小学校閉校。
 養蚕民家を長く保存するため、1990(平成2)年から1年かけ解体・復元を行い、萱もそのときに葺き替えられた。1992(平成4)年「梅の木」保存作業開始。1997(平成9)年ペーパンダム竣工する。2000(平成12)年紅梅枯死する。


1807(文化4)年、近藤重蔵 利尻からの帰途上川地方を探検。上川に番屋が置かれる。
1858(安政5)年、松浦武四郎が上川探検し、アイヌ人306人を確認している。
1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称、石狩川筋神居古譚以北を石狩国上川郡とする。
1877(明治10)年、鈴木亀蔵(通称 亀吉)、上川郡初の和人定住者となり、交易雑貨商をを営む。
1883(明治16)年、樺戸集治監らによる樺戸郡浦臼太〜上川郡までの地理・地形・水利調査を行う。
1885(明治18)年、岩村通俊永山武四郎一行が上川に入り、近文山より国見をする。
1886(明治19)年、空知太(現・滝川)〜忠別太(現・旭川)まで囚人の労役により、上川仮道路開通する。
1888(明治21)年、上川二等測候所開設する。
1890(明治23)年、上川郡に旭川・神居・永山の三村を置く。笠原喜助(新潟県の出身で笠原喜助・喜八郎兄弟と鈴木亀蔵と共に笠原酒造店を興した旭川の功労者。)によって永山村に笠原酒造店を創業。
1891(明治24)年、永山村(現・旭川市永山)に屯田兵400戸入地する。神居・雨粉で杉沢繁吉が水稲の作付し、1斗5升の収穫をあげた。
1892(明治25)年、8月旭川村(現・東旭川)に屯田兵400戸(下東旭川兵村 第三大隊第三中隊200戸。上東旭川兵村 第三大隊第四中隊200戸)入地する。笠原酒造店が曙に酒造場を始める。
1893(明治26)年、旭川神社社殿竣功。
1894(明治27)年、クラロマナイ川から延長1200間の灌漑溝を掘る。
1897(明治30)年、上川郡役所を旭川に移転開庁。字ウシシュベツ(東旭川)を永山村に編入。旭川警察署開庁。
1898(明治31)年、上川線(後の函館本線)空知太(現・滝川)〜旭川間鉄道開通。旭川駅開業。9月東旭川村を置く。上ペーパンに福島団体移住する。
1899(明治32)年、北海道旧土人保護法公布。菊田熊之助初めて馬鈴薯澱粉製造に着手する。
1900(明治33)年、旭川村を旭川町と改称。
1901(明治34)年、第七師団司令部を札幌より移転。
1902(明治35)年、東旭川に上灌漑溝完成する。
1903(明治36)年、射的山(現・旭山)に稲荷の祠を祀り稲荷山と呼称した。
1904(明治37)年、屯田兵制度廃止する。5月越中団体10戸、宮城団体数戸移住する。初代旭橋完成。
1906(明治39)年、旭川駅〜師団方面の馬車鉄道開通。
1907(明治40)年、4月2級町村制施行。
1908(明治41)年、開村記念碑建立する。旭川電燈(株)(現・北海道電力)が電力供給開始。
1912(明治45)年、レルヒ中佐が、旭川第七師団に訪れスキーを指導し、北海道のスキー発祥となる。
1922(大正11)年、旭川が市制施行。
1929(昭和4)年、第1回慰霊音楽大行進(現・北海道音楽大行進)開催。
1932(昭和7)年、石北線全線開通。現旭橋完成。
1936(昭和11)年、ロータリー完成。
1940(昭和15)年、国策パルプ工業(株)旭川工場操業開始。
1945(昭和20)年、師団通を平和通と改称。
1950(昭和25)年、北海道開発大博覧会開催。
1955(昭和30)年、神居村・江丹別村合併。
1963(昭和38)年、東旭川町合併。
1966(昭和41)年、旭川空港開港、東京便就航。
1967(昭和42)年、旭山動物園開園。小熊秀雄賞創設。
1968(昭和43)年、神楽町合併。第1回小熊秀雄賞授賞式。(毎年実施)
1970(昭和45)年、第1回中原悌二郎賞授賞式。(毎年実施)
1971(昭和46)年、東鷹栖町合併。
1972(昭和47)年、全国初の恒久歩行者天国、平和通買物公園オープン。
1984(昭和59)年、スタルヒン球場オープン。
1993(平成5)年、井上靖記念館開館。大雪クリスタルホール開館。
1994(平成6)年、中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館開館。旭川冬まつりのメイン雪像ギネス認定。
1998(平成10)年、三浦綾子記念文学館開館。
1999(平成11)年、雨紛大橋の開通により、旭川環状線全線開通。
2000(平成12)年、4月中核市に指定指定される。道央道の旭川鷹栖IC - 和寒IC開通。旭川北IC供用開始。
2002(平成14)年、永山新川(牛朱別川分水路)供用開始。
2004(平成16)年、7月・8月旭川市旭山動物園の月間入園者数が日本一を記録する。
2005(平成17)年、旭川市科学館を北彩都あさひかわ地区に新築移転。
2006(平成18)年、旭川市旭山動物園の月間入園者数が4ヶ月連続で日本一を記録する。(6〜9月)
2010(平成22)年、旭川駅新駅舎完成。部分開業。鉄道高架化。
2011(平成23)年、旭川駅新駅舎完全開業。
東旭川町史・旭川市史参考
Copyright (C) がんばれ北海道 All Rights Reserved.
inserted by FC2 system