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旭山

住所 旭川市東旭川町倉沼

一般社団法人 旭川観光コンベンション協会

旭川の地名の由来は、アイヌ語で忠別川「チュプ・ペッ」(日・川)の意味で、「日」を「旭」に置き換えて「旭川」と意訳した。
旭山は最初、屯田兵の射撃の演習場があったことから射的山と呼ばれていた。1903(明治36)年、中腹に稲荷神社を建立。大正末期まで稲荷山と呼ばれていた。
キトウシ山脈の突端、海抜295メートルの旭山、盆地に突出した丘陵地で、眺望に優れている地形から、1912(明治45)年、国有林であった山一帯を買収し公園となったのが始まり。
この公園は、大正時代に入植した屯田兵が1000本の桜を植えたのが始まりだそうで、現在は約2300本のエゾヤマザクラが植えられていて、桜の名所として知られ、春は多くの市民で賑わい、桜の時期はライトアップもされる。
すぐそばには全国的に有名な旭川市旭山動物園がある他、テレビ・FMラジオの送信所が建っている。
他にも旭山 立木大師堂旭山公園、現在は閉園している三浦庭園などがある。
公園前には旭山公園売店があり、ソフトクリームが人気の店がある。

海軍少佐赤石久吉之碑

屯田兵の弟に生まれ、その後、1914(大正3)年、42期生として海軍兵学校も首席で卒業。
航空機の研究にあたり、操縦・エンジンの構造など、全般にわたって、マスターした、ただ一人の技術者で「海軍の至宝」といわれていたそうです。
当時、絹張りの飛行艇で、九州から横須賀まで、11時間半で無着陸飛行を達成し、世間を驚かせた勇士。
海軍少佐となり、エンジントラブルで殉職。
のちに、村民がその偉業を讃え建立したもの。 碑の表面には、東郷元帥の「壮烈」の題額、碑蔭の文は旭川中学校教諭梅村喜一郎の撰、大蔵省勤務平岡一二の書がある。

工藤力夫句碑

この丘や旭は躍りさくら舞ふ
工藤力夫(1898(明治31)年〜 1978(昭和53)年
上磯生まれ、1935(昭和10)年妻の33歳の記念に、桜を333本を、麓から山頂まで植え、現在の桜の名所の基礎を作った人。

藤田旭山句碑

雪虫の夕ぐれ青し旭川
藤田旭山(1903(明治36)年〜1991(平成3)年) 士別市生まれ、1927(昭和2)年「行く春」創刊から参加した歌人。

旭山碑

大正11年7月15日摂政宮(皇太子裕仁親王)の本道行啓にあたり、東旭川屯田兵が上川開発の功労顕著であることが御聴聞に達し、侍従牧野子爵を御差遣されたが、このときも侍従は旭山に登られ、上川平野の開拓のありさまを展望された。これを記念し建立したもので、碑額は侍従牧野貞亮氏の書だそうだ。

塩野谷秋風句碑

花屑にまみれし土をうらがえす
塩野谷秋風(1909(明治42)年〜1986(昭和61)年)
東旭川生まれで、俳人の育成に努められた人とあるくらいで、、1963(昭和38)年に旭川市文化奨励賞受賞する。

新明紫明句碑

冬木の芽仰ぎこころにちから湧く
新明紫明(1928(昭和3)年〜)
室蘭生まれ、本名は美仁。
1958(昭和33)年より旭川に居住。
1963(昭和38)年、「青女」創刊主宰。 1975(昭和50)年に旭川市文化奨励賞受賞する。

宮殿下御台臨記念碑

旭山には、1931(昭和6)年、7月閑院宮戴仁親王、1932(昭和7)年、8月澄宮崇仁親王を迎えた。
1936(昭和11)年、陸軍特別大演習を記念し、11月22日建立した。

開拓功労者顕徳碑

東旭川町では、1929(昭和4)年、米の生産が年間11万石に達した。
1932(昭和7)年、1940(昭和15)年の2回にわたり帝国農会長から表彰を受けた。
この米作の基礎を開き、とくに功労の多かった藤田貞元、末武安次郎、中山久蔵、三名の彰徳の碑を建て後世に伝えるべく、元屯田兵玉井揆一が説いたのがきっかけとなり1956(昭和31)年、村会で議決され同年8月13日三家の遺族や関係者村民多数参列の中除幕された。
台座は、札幌産花崗岩、予算は40万円だったという。
正面に、元田中知事の題字、顕徳碑の3文字を掲げ、下に村上久吉の撰文を旭川神社宮司芦原邦夫書で記した。
碑文
東旭川村ハ明治25年8月 屯田兵ノ入地以来60余年 今ヤ米産年10万石ヲ越エ 実ニ全国町村中第一位
タリ 真ニ盛ナリト謂フヘリ 而シテ之カ水稲開発ニハ次ノ3氏ノ功最モ大ナリ 刻シテ以テ後ニ伝ヘ
村民敬仰ノ誠ヲ致ス
藤田貞元氏 奥州弘前ノ人 此ノ地未ダ水稲作付ノ見込全ク無シトセラレシ26年ヨリ自ラ試作シ 人ニ
モ奨励 上司ニモ説イテ終ニ用水路ヲ掘鑿 遇々偏種ヲ島松ノ篤農中山久蔵ニ得 以テ今日ノ基礎ヲ作
ル 此他産業ノ振興ニ異常ノ熱意アリ 夙ニ上川農会ヲ創設農業ノ改良発達ニ偉功アリ
末武安次郎氏 京都府ノ人 善ク困苦欠乏ニ堪ヘテ開拓ニ従フモ 不幸 晩年病床ニ在ハ10年余 而モ
意気少シモ衰ヘズ 病中水稲直播ノ従ラニ労多ク功ノ挙ガラサルヲ憂ヘテ 之ガ工夫ニ精魂ヲ傾ケ マ
ス子夫人ノ協力ヲ得テ 38年終ニ先人未発ノ利機ヲ完成ス 今日全道ヨリ東北満鮮方面ニマデ普及ノ黒
田式直播機 俗ニタコアシと称スルモノ之ナリ
中山久蔵氏 大阪府ノ人 明治3年渡道石狩ノ島松ノ開墾 6年ヨリ水稲ヲ試作多年苦心 品種ヲ改良シ
ソノ良種ヲ全道ニ分与以テ本道米作促進ニ大功アリ 当時初期ノ種子モミナ其恩恵ニ依ル
碑蔭に
題額 北海道知事 田中敏文
撰文 淡水 村上久兵
碑文揮毫 雪洲 芦原邦夫
設立者 東旭川村長 寒川孝三
石工 東旭川出身 松友福男

などの記念碑が公園内に存在、不明の碑もある。


山頂にはテレビ塔とラジオ放送所があり、昔は夜景の見えるスポットとして賑わっていたが今は木で見えない。


旭山展望台の碑

旭山は最初、屯田兵の射撃の演習場があったことから射的山と呼ばれていた。
1903(明治36)年、中腹に稲荷神社を建立。その後金比羅神社も出来、毎年5月と 10月のお祭りは多くの人で賑わった。
1911(明治44)年に東宮殿下(大正天皇)が中腹の展望台から上川を眺望されたことを記念して、後に「展望臺」の碑を建立。

旭山は、明治から大正にかけ、射的山と呼ばれ、大正末期まで稲荷山と呼ばれ、地域の人たちに親しまれてきた。
現在はその名残だけが残っており、稲荷金比羅神社は中に入ることも出来ず朽ちかけているようにも見えます。


1807(文化4)年、近藤重蔵 利尻からの帰途上川地方を探検。上川に番屋が置かれる。
1858(安政5)年、松浦武四郎が上川探検し、アイヌ人306人を確認している。
1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称、石狩川筋神居古譚以北を石狩国上川郡とする。
1877(明治10)年、鈴木亀蔵(通称 亀吉)、上川郡初の和人定住者となり、交易雑貨商をを営む。。(上川最初の和人定住者)
1883(明治16)年、樺戸集治監らによる樺戸郡浦臼太〜上川郡までの地理・地形・水利調査を行う。
1885(明治18)年、岩村通俊・永山武四郎一行、上川に入り、近文山より国見をする。
1886(明治19)年、空知太(現・滝川)〜忠別太(現・旭川)まで囚人の労役により、上川仮道路開通する。
1888(明治21)年、上川二等測候所開設する。
1890(明治23)年、上川郡に旭川・神居・永山の三村を置く。
1891(明治24)年、永山村(現・旭川市永山)に屯田兵400戸入地する。神居・雨粉で杉沢繁吉が水稲の作付し、1斗5升の収穫をあげた。
1892(明治25)年、8月旭川村(現・東旭川)に屯田兵400戸入地する。(下東旭川兵村 第三大隊第三中隊。200戸。上東旭川兵村 第三大隊第四中隊200戸。)
1893(明治26)年、旭川神社社殿竣功。
1894(明治27)年、クラロマナイ川から延長1200間の灌漑溝を掘る。
1897(明治30)年、上川郡役所を旭川に移転開庁。字ウシシュベツ(東旭川)を永山村に編入。
1898(明治31)年、上川線空知太(現・滝川)〜旭川間鉄道開通。旭川駅開業。9月東旭川村を置く。上ペーパンに福島団体移住する。
1899(明治32)年、北海道旧土人保護法公布。菊田熊之助初めて馬鈴薯澱粉製造に着手する。
1900(明治33)年、旭川村を旭川町と改称。
1902(明治35)年、上灌漑溝完成する。
1903(明治36)年、射的山(現・旭山)に稲荷の祠を祀り稲荷山と呼称した。
1904(明治37)年、屯田兵制度廃止する。5月越中団体10戸、宮城団体数戸移住する。
1907(明治40)年、4月2級町村制施行。
1908(明治41)年、開村記念碑建立する。
1912(大正元)年、国有林字クラロマナイ(現・旭山)、44町歩の払い下げを受ける。
1922(大正11)年、11月石北線旭川〜愛別間開通。新旭川駅・東旭川駅・桜岡駅・当麻駅・愛別駅を新設。
1927(昭和2)年、10月新旭川駅〜上川駅間を石北西線に線名改称。
1929(昭和4)年、旭川追分〜2丁目間に電車開通。
1930(昭和5)年、2丁目〜旭山まで電車開通。
1932(昭和7)年、10月新旭川駅〜野付牛駅間を石北線と線名改称。石北線全通。
1947(昭和22)年、米原に東旭川村役場出張所が置かれる。
1961(昭和36)年、4月新旭川〜網走を石北本線に改称。
1963(昭和38)年、東旭川町と合併し旭川市東旭川となる。
1966(昭和41)年、旭川空港開港、東京便就航。
1967(昭和42)年、旭山動物園開園。小熊秀雄賞創設。
1968(昭和43)年、神楽町合併。第1回小熊秀雄賞授賞式。(毎年実施)
1970(昭和45)年、第1回中原悌二郎賞授賞式。(毎年実施)
1971(昭和46)年、東鷹栖町合併。
1972(昭和47)年、全国初の恒久歩行者天国、平和通買物公園オープン。
1984(昭和59)年、スタルヒン球場オープン。
1993(平成5)年、井上靖記念館開館。大雪クリスタルホール開館。
1994(平成6)年、中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館開館。旭川冬まつりのメイン雪像ギネス認定。
1998(平成10)年、三浦綾子記念文学館開館。
1999(平成11)年、雨紛大橋の開通により、旭川環状線全線開通。
2000(平成12)年、4月中核市に指定指定される。道央道の旭川鷹栖IC - 和寒IC開通。旭川北IC供用開始。
2002(平成14)年、永山新川(牛朱別川分水路)供用開始。
2004(平成16)年、7月、8月旭川市旭山動物園の月間入園者数が日本一を記録する。
2005(平成17)年、旭川市科学館を北彩都あさひかわ地区に新築移転。
2006(平成18)年、旭川市旭山動物園の月間入園者数が4ヶ月連続で日本一を記録する。(6〜9月)
2010(平成22)年、旭川駅新駅舎完成。部分開業。鉄道高架化。
2011(平成23)年、旭川駅新駅舎完全開業。(昭和37年刊行、東旭川町史参考・旭川市史参考)

屯田兵とは、明治時代に北海道の警備と開拓にあたった兵士と部隊の総称。
1870(明治3)年、11月開拓使が提案し、ついで西郷隆盛が1871(明治4)年、士族による北方警備と開拓を主唱する。その後開拓次官の黒田清隆が1873(明治6) 年11月に太政官に屯田制を建議。太政官は黒田の提案に賛成し、1874(明治7)年屯田兵例則を定め、1875(明治8)年5月札幌郊外の琴似兵村への入地で屯田が開始された。
初期の屯田兵募集は原則として士族が対象だったが、後に士族原則が取り払われ平民も屯田兵に志願できるようになる。
兵役は、現役3年、予備役4年、後備役13年の計20年だった。移住後3ヵ月は生兵として、午前訓練・午後開墾を行ったが、その後は訓練・演習は農閑期に行われ、家族にも厳しい規則が強いられていた。
新たな入植は1899(明治32)年上川、士別で終わり、彼らが後備役に入った1904(明治37)年に屯田兵制度は廃止となった。

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