北海道応援サイト!がんばれ北海道!!旭川兵村記念館

旭川兵村記念館

住所 旭川市東旭川南1条6丁目3-26
TEL 0166-36-2323
開館・公開時期 4月29日〜10月下旬
開館時間 9時30分〜17時
入館料 大人500円  高校・大学生400円  小中学生200円

旭川兵村記念館

旭川観光コンベンション協会


旭川の地名の由来は、アイヌ語で忠別川「チュプ・ペッ」(日・川)の意味で、「日」を「旭」に置き換えて「旭川」と意訳した。
道道140号愛別当麻旭川線の東旭川南1条6丁目と東旭川北1条6丁目の鳥居がある交差点の鳥居をくぐり約220m。
1962(昭和37)年、開村70周年に神社事業として、屯田兵をはじめ一般開拓の資料を境内旧社殿に展示していたが、1978(昭和53)年より新築事業を進め、1980(昭和55)年には財団を設立、1982(昭和57)年4月開館した。
現在千数百点を展示していて、展示資料の内、屯田兵第三中隊記録・屯田兵絵物語原画綴りは旭川市指定文化財となっている。
収蔵品は、屯田兵屋・家具調度品・農機具・屯田兵による「屯田絵巻」・文書記録など

ここ旭川への入植は、1890(明治23)年に旭川、永山、神居の3村が設置された。
1892(明治25)年、8月旭川村(現・東旭川)に屯田兵400戸入地する。(下東旭川兵村 第三大隊第三中隊。200戸。上東旭川兵村 第三大隊第四中隊200戸。)
屯田兵の生活は、日常の生活用具や農・工具などの官給品、兵屋、1万5千坪(約5ヘクタール)の土地が支給された。
兵役は、現役3年、予備役4年、後備役13年の計20年だった。移住後3ヵ月は生兵として、午前訓練、午後開墾を行ったが、その後は訓練・演習は農閑期に行われたそうですが、家族にも厳しい規則が強いられていたそうです。
兵屋の周囲から樹木を伐採し、熊笹、雑草を刈って焼き、耕した。当時は一帯は昼間も暗い大森林が広がっていた。
大きなものは直径1.5から1.8mもあったという。開墾がある程度進むと大雪山が見えるようになり大きな山々に驚いたと言う話も聞けました。
10年〜20年で木株など1つも見られない耕地になったそうで、作った作物は、麦、粟、稗、豆類、とうもろこし、馬鈴薯や、桑、麻、水稲。
水稲に関しては、かなり苦労したようで、藤田貞元という津軽藩士が青森から取り寄せた、種籾で水稲の試作を行っているそうだ。
このころ、水田開発は遅れをとっており、作るものは居なかったそうですが、貞元は「小豆のできるところは必ず米ができる」という強い信念で、同士と共に水田開発を説く。

1894(明治27)年には、倉沼川から5丁目まで灌漑溝開墾まで成し遂げ、上川100万石の礎を築いたのである。
近くには、水田開発を記念して拓源の碑がある。
1904(明治37)年、屯田兵制は廃止になった。

今回、館長さんに会え、1時間ほどの貴重な時間を割いて頂き、屯田兵の生活、当時の開拓の苦労、屯田兵の家族の絆の強さなど興味深い話を聞けました。
ここは内部の撮影なども制限無く、今ある北海道の原形に触れるいいきっかけになればと思います。
自分の実家にも似たような物が沢山あったことを、思い出し懐かしさに触れた2時間でした。


特別展示コーナー


1807(文化4)年、近藤重蔵 利尻からの帰途上川地方を探検。上川に番屋が置かれる。
1858(安政5)年、松浦武四郎が上川探検し、アイヌ人306人を確認している。
1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称、石狩川筋神居古譚以北を石狩国上川郡とする。
1877(明治10)年、鈴木亀蔵(通称 亀吉)、上川郡初の和人定住者となり、交易雑貨商をを営む。。(上川最初の和人定住者)
1883(明治16)年、樺戸集治監らによる樺戸郡浦臼太〜上川郡までの地理・地形・水利調査を行う。
1885(明治18)年、岩村通俊・永山武四郎一行、上川に入り、近文山より国見をする。
1886(明治19)年、空知太(現・滝川)〜忠別太(現・旭川)まで囚人の労役により、上川仮道路開通する。
1888(明治21)年、上川二等測候所開設する。
1890(明治23)年、上川郡に旭川・神居・永山の三村を置く。
1891(明治24)年、永山村(現・旭川市永山)に屯田兵400戸入地する。神居・雨粉で杉沢繁吉が水稲の作付し、1斗5升の収穫をあげた。
1892(明治25)年、8月旭川村(現・東旭川)に屯田兵400戸入地する。(下東旭川兵村 第三大隊第三中隊。200戸。上東旭川兵村 第三大隊第四中隊200戸。)
1893(明治26)年、旭川神社社殿竣功。
1894(明治27)年、クラロマナイ川から延長1200間の灌漑溝を掘る。
1897(明治30)年、上川郡役所を旭川に移転開庁。字ウシシュベツ(東旭川)を永山村に編入。
1898(明治31)年、上川線空知太(現・滝川)〜旭川間鉄道開通。旭川駅開業。9月東旭川村を置く。上ペーパンに福島団体移住する。
1899(明治32)年、北海道旧土人保護法公布。菊田熊之助初めて馬鈴薯澱粉製造に着手する。
1900(明治33)年、旭川村を旭川町と改称。
1902(明治35)年、上灌漑溝完成する。
1903(明治36)年、射的山(現・旭山)に稲荷の祠を祀り稲荷山と呼称した。
1904(明治37)年、屯田兵制度廃止する。5月越中団体10戸、宮城団体数戸移住する。
1907(明治40)年、4月2級町村制施行。
1908(明治41)年、開村記念碑建立する。
1912(大正元)年、国有林字クラロマナイ(現・旭山)、44町歩の払い下げを受ける。
1922(大正11)年、11月石北線旭川〜愛別間開通。新旭川駅・東旭川駅・桜岡駅・当麻駅・愛別駅を新設。
1927(昭和2)年、10月新旭川駅〜上川駅間を石北西線に線名改称。
1929(昭和4)年、旭川追分〜2丁目間に電車開通。
1930(昭和5)年、2丁目〜旭山まで電車開通。
1932(昭和7)年、10月新旭川駅〜野付牛駅間を石北線と線名改称。石北線全通。
1947(昭和22)年、米原に東旭川村役場出張所が置かれる。
1961(昭和36)年、4月新旭川〜網走を石北本線に改称。
1963(昭和38)年、東旭川町と合併し旭川市東旭川となる。
1966(昭和41)年、旭川空港開港、東京便就航。
1967(昭和42)年、旭山動物園開園。小熊秀雄賞創設。
1968(昭和43)年、神楽町合併。第1回小熊秀雄賞授賞式。(毎年実施)
1970(昭和45)年、第1回中原悌二郎賞授賞式。(毎年実施)
1971(昭和46)年、東鷹栖町合併。
1972(昭和47)年、全国初の恒久歩行者天国、平和通買物公園オープン。
1984(昭和59)年、スタルヒン球場オープン。
1993(平成5)年、井上靖記念館開館。大雪クリスタルホール開館。
1994(平成6)年、中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館開館。旭川冬まつりのメイン雪像ギネス認定。
1998(平成10)年、三浦綾子記念文学館開館。
1999(平成11)年、雨紛大橋の開通により、旭川環状線全線開通。
2000(平成12)年、4月中核市に指定指定される。道央道の旭川鷹栖IC - 和寒IC開通。旭川北IC供用開始。
2002(平成14)年、永山新川(牛朱別川分水路)供用開始。
2004(平成16)年、7月、8月旭川市旭山動物園の月間入園者数が日本一を記録する。
2005(平成17)年、旭川市科学館を北彩都あさひかわ地区に新築移転。
2006(平成18)年、旭川市旭山動物園の月間入園者数が4ヶ月連続で日本一を記録する。(6〜9月)
2010(平成22)年、旭川駅新駅舎完成。部分開業。鉄道高架化。
2011(平成23)年、旭川駅新駅舎完全開業。(昭和37年刊行、東旭川町史参考・旭川市史参考)

近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)とは、1771(明和8)年 - 1829(文政12)年6月16日(7月16日)、江戸時代後期の幕臣、探検家。
明和8年(1771年)、近藤右膳守知の三男として江戸駒込に生まれ、17歳で私塾「白山義学」を開くなど、当時としてはかなりの学才の持主であった。
1790(寛政2)年、御先手組与力として出仕。火付盗賊改方としても勤務する。
1798(寛政10)年、幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱となる。
4回にわたり蝦夷地(北海道)へ赴き、千島列島・択捉島を探検する。
1807(文化4)年、再び松前奉行出役となり五度目の蝦夷入りを果たす。
その際、利尻島・上川・札幌周辺を探索する。

松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日没
江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。
1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。
この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。
1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。

鈴木亀蔵とは、1872(明治5)年頃、和人・鈴木亀蔵がこの未開の原野に入り込んで上川アイヌと物々交換の交易(獣皮・鹿角・干鮭など)を始める。
1877(明治10)年、アイヌを妻として定住を始め忠別太(現・旭川市亀吉)に定住しているのである。

屯田兵とは、明治時代に北海道の警備と開拓にあたった兵士と部隊の総称。
1870(明治3)年、11月開拓使が提案し、ついで西郷隆盛が1871(明治4)年、士族による北方警備と開拓を主唱する。その後開拓次官の黒田清隆が1873(明治6) 年11月に太政官に屯田制を建議。太政官は黒田の提案に賛成し、1874(明治7)年屯田兵例則を定め、1875(明治8)年5月札幌郊外の琴似兵村への入地で屯田が開始された。
初期の屯田兵募集は原則として士族が対象だったが、後に士族原則が取り払われ平民も屯田兵に志願できるようになる。
兵役は、現役3年、予備役4年、後備役13年の計20年だった。移住後3ヵ月は生兵として、午前訓練・午後開墾を行ったが、その後は訓練・演習は農閑期に行われ、家族にも厳しい規則が強いられていた。
新たな入植は1899(明治32)年上川、士別で終わり、彼らが後備役に入った1904(明治37)年に屯田兵制度は廃止となった。

石北本線とは、旭川市の新旭川駅から北見市の北見駅、網走市の網走駅を結ぶ北海道旅客鉄道の鉄道路線。
1932(昭和7)年、に北見峠を越える石北線が全通し、旭川から北見・網走方面を結ぶ最短経路の鉄道が開通した。
1911(明治44)年、9月網走線の淕別駅〜野付牛駅間開業。
1912(大正元)年、11月湧別軽便線の野付牛駅〜留辺蘂駅間が開業。10月網走線の野付牛駅〜網走駅間が延伸開業し、池田駅〜網走駅間が全通。11月池田駅〜野付牛駅〜網走駅間を網走本線に改称する。
1914(大正3)年、10月野付牛駅〜留辺蘂駅間を留辺蘂軽便線と改称する。湧別軽便線の留辺蘂駅〜下生田原駅間が開業し、常紋信号所ほかを新設。
1922(大正11)年、9月軽便鉄道法廃止により湧別線に線名改称する。10月遠軽駅〜野付牛駅間を区間分離し石北線に編入する。11月石北線として新旭川駅〜愛別駅間が開業。
1927(昭和2)年、10月新旭川駅〜上川駅間を石北西線に線名改称する。遠軽駅〜丸瀬布駅間が石北東線として開業。
1932(昭和7)年、10月中越駅〜白滝駅間が延伸開業。湧別線の遠軽駅〜野付牛駅間を編入し、新旭川駅〜野付牛駅間を石北線と線名改称する。
1961(昭和36)年、4月網走本線として北見〜網走間を分離、石北線と統合して新旭川〜網走を石北本線に改称する。
1987(昭和62)年、4月国鉄分割民営化によりJR北海道に継承される。
1992(平成4)年、3月全線で普通列車のワンマン運転開始。

道道140号愛別当麻旭川線とは、愛別町と旭川市を結ぶ主要道道で、総距離は24.5km。

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