北海道応援サイト!がんばれ北海道!!

空知監獄署出張所跡

住所 旭川市神居2条6丁目神居交番前

一般社団法人 旭川観光コンベンション協会

旭川の地名の由来は、アイヌ語で忠別川「チュプ・ペッ」(日・川)の意味で、「日」を「旭」に置き換えて「旭川」と意訳した。
道道90号旭川環状線沿いにあり神居交番前に碑がある。
明治初期の北海道は、道南の一部地域を除けば、アイヌ集落が点在するだけの未開の大地であった。
北海道の集治監設置数は人口が少ない割に多かったようで、これは、北海道開拓に際し、囚人を使えという上からのお達しがあったため。
そのような状況下で、道路開削、農地開墾、炭鉱、屯田兵屋の建設等が、囚徒に割り当てられ、インフラ整備や開拓は急がれていた。
開拓は主に、集治監が設置され囚人が道路網・鉄道網を整備した後に、屯田兵や入植者たちが開拓を行うというパターンが多かったとされているが、収容者は基礎の部分を築く重要な役割を担い当初より、大きな成果を上げていた。
各監分担で、現・国道12号線(札幌〜旭川)国道39号線(旭川〜北見)などをわずか4年半の歳月で、道内を横断する「中央道路」を貫通させた。
ちなみに出張所は、ここにあったわけではなく、美瑛川の中洲にあったそうだ。


集治監(しゅうじかん)とは、明治時代に作られた刑務所の前身で、所長は典獄と呼ばれた。
当初の受刑者は、西南戦争などで捕縛された不平士族、思想犯的な傾向を持つ収容者も多く、刑務所というより凶悪犯と政治犯が同居する強制収容所といった趣が強かった。
1881(明治14)年、監獄則改正を行い、徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監を北海道の地に求めた。
北海道では、ロシアの南下政策に対抗する開拓が急務とされ、1881(明治14)年月形町に樺戸集治監、1882(明治15)年三笠市に空知集治監、1885(明治18)年標茶町に釧路集治監、その分監として1890(明治23)年網走囚徒外役所など作られ、受刑者は開拓のための労働に従事した。
北海道に多くの集治監が作られた背景には、出所後も現地に留まらせ、人口の増加につなげる思いもあったそうだが、実際は過酷な労働と厳しい寒さが原因で多くの者が命を落としたり、出所後はに故郷に帰る者が多く、人口の増加に繋がらなかったという。
有名なのは、1891(明治24)年、北見側から釧路集治監網走外役所の囚人を使役し開削工事に着手した中央道路だろう。
囚人が泊まり込みで作業するための小屋が各所の現場に作られ、その小屋に移動しながら開鑿していった。この小屋が「仮監」であり、監獄部屋である。
難工事に動員された囚人は、人跡未踏の原始林や原野を人力のみで切り開き、昼夜兼行で強行された。
逃亡を防ぐため囚人は重罪人と軽犯罪の二人一組とし、その一人には4kgの鉄の重りが足に付けられ鉄の鎖でつながれていた。
わずか1年たらずで、網走から北見峠までの約162.7kmが開通する突貫工事で、工事現場が山中深く移動するにつれ食料運搬がうまく行かなくなり、栄養も十分に取れず水腫性脚気が蔓延、苛酷な労働により相次ぎ亡くなった犠牲者は網走〜上越監で211名、死んだ囚人たちは、現場近くの道端に埋葬され目印に鎖を墓標のそばに置いたことから「鎖塚」と呼ぶようになり、現在は鎖塚供養碑など各地に慰霊碑が建立されている。

中央道路とは、南下政策をとるロシアの脅威から、日本を守るという軍事上の理由から、人を運び物を運ぶための道路を作らなければならなかった。
完成を急いだ政府が突貫工事を指令、これらの工事に使役されたのが当時の集治監の囚人たちで、中央道路開削工事のため1890(明治23)年、1200人もの囚人と看守173名が送り込まれた。
1891(明治24)年、旭川〜網走を結ぶ中央道路の建設を急ぎ、石狩側は忠別太(旭川)からエーカウス(伊香牛)間を空知集治監が開鑿し、10月に完成、死亡者は54名。
伊香牛から上越間は民間の請負だったそうだ。
1891(明治24)年、北見側からも釧路集治監網走外役所の囚人を使役し開削工事に着手した。
囚人が泊まり込みで作業するための小屋が各所の現場に作られ、その小屋に移動しながら開鑿していった。この小屋が「仮監」であり、監獄部屋である。
難工事に動員された囚人は、人跡未踏の原始林や原野を人力のみで切り開き、昼夜兼行で強行された。
逃亡を防ぐため囚人は重罪人と軽犯罪の二人一組とし、その一人には4kgの鉄の重りが足に付けられ鉄の鎖でつながれていた。
わずか1年たらずで、網走から北見峠までの約162.7kmが開通する突貫工事で、工事現場が山中深く移動するにつれ食料運搬がうまく行かなくなり、栄養も十分に取れず水腫性脚気が蔓延、苛酷な労働により相次ぎ亡くなった犠牲者は網走〜上越監で211名、死んだ囚人たちは、現場近くの道端に埋葬され目印に鎖を墓標のそばに置いたことから「鎖塚」と呼ぶようになった。

現在の道路に当てると、網走市から網走湖西岸道道104号線をとおり、端野地区〜北見市街〜留辺蘂地区は国道39号線、留辺蘂地区〜佐呂間町花園間は道道103号線で、丸山峠頂上から100メートルほどに中央道路開削犠牲者慰霊之碑がある。
佐呂間〜生田原町(現・遠軽町生田原)間は共立峠、生田原町(現・遠軽町生田原)〜遠軽町〜丸瀬布町(現・遠軽町丸瀬布)〜白滝村(現・遠軽町白滝)〜北見峠は国道333号線までがほぼ当時の経路となっている。
北見峠からは国道333号線〜上川まで国道273号線、上川〜旭川まで国道39号線の経路と見られる。

道道90号旭川環状線とは、旭川市内を一周する主要道道で、総距離は21.6km。

大きな地図で見る
Copyright (C) がんばれ北海道 All Rights Reserved.
inserted by FC2 system