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国見の碑

住所 旭川市江丹別町嵐山

財団法人 旭川市公園緑地協会

一般社団法人 旭川観光コンベンション協会

旭川の地名の由来は、アイヌ語で忠別川「チュプ・ペッ」、または「チュプ」は「日」の、「ペッ」は川の意味で、「日」を「旭」に置き換えて「旭川」と意訳したと両説がある。
江丹別の由来は、アイヌ語の「エタン・ペッ」(漂う川の意)、または「エタンネ・ペッ」(頭の長い川の意)による説がある。
嵐山の由来は、京都の嵐山に似ていることからこの名となり、名付け親は明治・大正期の紀行文学者大町桂月である。
国道12号線(旭川新道)から道道98号旭川多度志線に入り多度志方向に約3.5kmほど嵐山公園の看板があるので右折し、ダートを約1.8kmほど進むと車が数台停められるスペースがある。

旭川市の嵐山公園内にある。
1885(明治18)年8月、後の北海道初代長官岩村通俊と屯田兵本部長永山武四郎らが石狩川奥地調査に来て、長谷部辰連、佐藤秀顕と共に、近文山頂に登り、広大な未開の上川平野を国見し、1886(明治19)年に国見の碑を、吏員の白野夏雲に命じて建立させた。
その豊かな原野を前に上川開発の重要性を認識し、帰途・函館から「尊北京於上川議」(北京を上川におくの議)を内閣に送っている。
1886(明治19)年、北海道庁初代長官に就任した岩村は、この視察をもとに上川原野の開発を推進し、旭川の市街区画、道路開削など、開発の礎を創った。
1966(昭和41)年、上川地方で最古の石碑であり、上川開発の貴重な財産として旭川市文化財の指定を受けている。
この国見の碑にはいくつかのルートがありますが、石狩川岸から登る道は未整備で大変危険です。(嵐山公園までのルート)
山の尾根伝いに横断する道のルートが安全だろう。(そばには2台程度停めれる駐車スペースがある)
国見をした当時、木々は邪魔でなかったのかもだ。現在ははけっこう邪魔で、春か秋以降でないと上川盆地は葉で見えないかも。


大町桂月(おおまちけいげつ)とは、1869(明治2)年3月6日(1月24日)- 1925(大正14)年6月10日、詩人、歌人、随筆家、評論家である。
1869(明治2)年、高知市北門筋(現・高知県高知市永国寺町4-10)に元土佐藩士の息子として生まれる。
1896(明治29)年、東京帝国大学国文科卒業。
1899(明治32)年、島根県で中学教師となる。
1900(明治33)年、博文館に入社し、1906(明治39)年まで在籍する。
終生酒と旅を愛し酒仙と称され、晩年は遠く朝鮮、旧満州(現・中国東北部)まで足を延ばしている。
北海道の層雲峡や羽衣の滝の名付け親でもあり、道内各地を旅行し紀行文で紹介した。ちなみに大雪山系黒岳の近くには、彼の名にちなんだ桂月岳という山がある。
1925(大正14)年、4月に蔦温泉に移り住むが、胃潰瘍のため死去、57歳。

永山武四郎(ながやまたけしろう)とは、1837(天保8)年4月24日(5月28日) - 1904(明治37)年5月27日、日本の陸軍軍人で、明治時代に北海道庁長官、第7師団長、貴族院議員等を歴任する。官位は陸軍中将従二位勲一等男爵。
鹿児島藩士、永山盛広の四男として生まれ、同じ藩士の永山喜八郎の養子となる。
戊辰戦争に従軍し、維新後の1871(明治4)年7月、陸軍大尉・2番大隊付に任命される。
1872(明治5)年、9月から北海道開拓使八等出仕となる。
1877(明治10)年、4月に屯田兵第1大隊長に就任後、西南戦争に従軍する。戦争から帰還し屯田兵大佐となる。
1888(明治21)年、6月から第2代北海道庁長官を兼ねる。
1889(明治22)年、8月屯田兵司令官に就任。
1895(明治28)年、2月臨時第7師団司令官となり、同年12月4日、男爵に叙される。
1896(明治29)年、5月第7師団師団長に正式に就任する。同年10月、陸軍中将に進級し1900(明治33)年、4月まで務めた。
北海道庁長官となった武四郎は、北海道でも特に内陸部の開発に着目していた。
岩村通俊と共に上川原野を視察し、国見を行ったことでも有名で屯田兵村を設置するが、この村は1890(明治23)年、永山村と名前を変える。

岩村通俊(いわむらみちとし)とは、1840(天保11)年6月10日(7月8日) - 1915(大正4)年2月20日、日本の武士で政治家。
明治時代に農商務大臣、宮中顧問官、北海道庁長官を歴任する。
位階勲等は正二位勲一等男爵。貫堂と号し、素水を俳号とする。
通俊の功績を称え旭川市の上川神社に祀られ、旭川市常磐公園・札幌市大通公園・札幌市円山公園に銅像が建立されている。
1869(明治2)年、新政府に登用され、開拓使が置かれ聴訟司判事に任ぜられた。
函館府権判事開拓判官になり、1871(明治4)年、札幌の本府経営(開拓)を命ぜられる。
1873(明治6)年、7月開拓使から佐賀県権令に任ぜられる。
1876(明治9)年、山ロ地方裁判所長に任命された。
1877(明治10)年、西南の役が起きる。通俊はこのとき鹿児島県令(今の県知事)になるところで赴任するところだった。
その後、元老院議官、会計検査院長を歴任。
1882(明治15)年、沖縄県令となった。
1884(明治17)年、司法大輔に昇任した。
1885(明治18)年8月、岩村通俊と屯田兵本部長永山武四郎らが石狩川奥地調査に来て、長谷部辰連・佐藤秀顕と共に、近文山頂に登り、広大な未開の上川平野を国見した。
1886(明治19)年、国見の碑を、吏員の白野夏雲に命じて建立させた。
その豊かな原野を前に上川開発の重要性を認識し、帰途・函館から「尊北京於上川議」(北京を上川におくの議)を内閣に送っている。
1886(明治19)年、北海道庁初代長官に就任した岩村は、この視察をもとに上川原野の開発を推進し、旭川の市街区画、道路開削など、開発の礎を創った。
全くの原野に現在の旭川市街地の設計を命じたのも彼であり、まぎれもなく旭川開基の祖である。

国道12号線とは、札幌市から旭川市へ至る一般国道で、総距離は156.8km。

道道98号旭川多度志線とは、旭川市と深川市多度志を結ぶ主要道道で、総距離は33.1km。
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