上川二等測候所跡住所 旭川市神居1条4丁目4・5仲4丁目側市道植込一般社団法人 旭川観光コンベンション協会 旭川の地名の由来は、アイヌ語で忠別川「チュプ・ペッ」(日・川)の意味で、「日」を「旭」に置き換えて「旭川」と意訳した。 神居とは、1890(明治23)年、上川郡に旭川・神居・永山の三村を置いたことに由来する。 「上川」という名は、アイヌ語の「ペニ・ウングル・コタン」(川上の人々の集落)を訳したものである。 道道90号旭川環状線の神居3条4丁目・神居2条5丁目の交差点から美瑛川河川敷方向に神居ふれあい通りを160m進んだ左手にある。 1869(明治2)年、開拓使判官・松浦武四郎によって名付けられた。 旭川地方気象台の前身として、1888(明治21)年7月1日、上川二等測候所として創設。 内陸開発のため、囚人を使って岩見沢から忠別太(ちゅうべつぶと)まで道路を開削するために、その樺戸監獄署出張所の一室で観測が開始された。 建物は、上川郡農作試験所事務所棟(忠別太駅逓)で、旭川市神居町1条1丁目に上川地方に現存する最古の建物として保存されている。 冬の寒さが極めて厳しい、当時の上川二等測候所は、1902(明治35)年1月25日に-41.0度を観測し記録として残っている。 今は看板だけが住宅地の歩道の植え込みにあるだけ。 近くには、空知監獄署出張所跡もある。 松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日 江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。 蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。 1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。 この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。 1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。 これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。 個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。 道道90号旭川環状線とは、旭川市内を一周する主要道道で、総距離は21.6km。 大きな地図で見る |