北海道応援サイト!がんばれ北海道!!上川水稲発祥の地

上川水稲発祥の地

住所 旭川市神居町上雨紛

一般社団法人 旭川観光コンベンション協会

旭川の地名の由来は、アイヌ語で忠別川「チュプ・ペッ」(日・川)の意味で、「日」を「旭」に置き換えて「旭川」と意訳した。
雨紛の由来は、アイヌ語の「ウプン」(吹雪)の意味で、「水源の山から雨雪を吹き飛ばすので名付けられた」という説と、「この沢は曇ると吹雪した時のように奥が見えなくなるので名付けられた」という説がある。
道道90号旭川環状線から道道219号新開旭川線を上雨紛方向に入り、道道937号上雨紛台場線から側道に入った約5.5kmほど。
神栄橋の手前にあるが、橋はわかりずらい。
碑は、雨紛原野で造材夫をしていた青森県津軽の杉沢繁吉氏が、1891(明治24)年、「赤毛」の種もみを取り寄せ、5アール(五畝歩)を開田、27リットル(1斗5升)の収穫をあげたことをもってはじめとするとある。
1970(昭和45)年9月に、旭川市開基80周年にあたり、記念碑を建立。
杉沢繁吉は、1890(明治23)年永山村に屯田兵屋が建設されるときに、その建設用材を供給する木材業者に従って杣夫として雨紛原野に入った。
同年伐採事業は終わり、同輩らは帰郷したりして同地を去ったが、彼だけは一人残り杣小屋を貰い受け永住を決め開墾を始めた。
1891(明治24)年、「赤毛」の種もみを取り寄せ、5アール(五畝歩)を開田、1892(明治25)年には二段歩の水田を開発。1893(明治26)年に水稲を苗植えし成功し、近隣に赤毛の種籾を勧誘した。
同年、雨紛の貸付地で小樽の石橋彦三郎が、水田一町歩を開田、1894(明治27)年には、三町五段歩を開き、一段歩平均約二石の収穫を上げている。


碑文
上川の稲作は明治二十四年青森県人杉沢繁吉氏がこの地に五アールを開田
し約二十三キログラムを収穫したことをもってはじめとする。同氏は明治
二十三年屯田兵村建設にあたり杣夫として雨紛原野に入り用務終了後この
地に居を構えて農耕を志し旺盛な研究心と不屈の精神によって先駆的業績
を成し遂げ上川稲作発展の基礎を築かれたのである。
以来今日まで吾々の父祖はこの先達の精神と業績を支柱としてきびしい試
練とあらゆる困難に打ち克って作付面積六万七千余ヘクタール、総生産量
三十万トンに達する管内稲作の繁栄をもたらしたのである。
ときあたかも旭川市開基八十周年にあたり有志相計り先人が成し遂げた偉
大な功績に対し深く感謝の念を捧げるとともにこれを永く後世に伝えるた
めゆかりのこの地に記念碑を建立した次第である。ねがわくば後継者諸兄
か先達の逞しい開拓者精神を継承して上川農業躍進のために一層努力せ
られんことを念願しこれを撰する
昭和四十五年九月四日
上川支庁長 山本武 撰
旭川市農林課長 高橋武男 書


碑文の裏には副碑があり、五十嵐広三歌碑となっている。
上川の
黄金波うつ
いしづえを
築きし君が
巧たたえん
旭川市長 五十嵐広三


旭川市内には、もう一つの似た発祥の地がある。
永山地区に、上川水田発祥之地があり、永山神社創立百年を記念して 1962(昭和37)年に建立。
1891(明治24)年に、米作りに挑戦したが失敗したが、翌年はわずかながらも収穫を得たとなっている。
いわれ通りだと、上雨紛の方が先だということになるが詳細に関しては不明。
いずれにしろ、上川百万石の礎を作ったわけで、先人の偉業を称えるものである。
ちなみに、この道しるべは道道219号新開旭川線沿いにある。ここから山のほうに向かうと碑があるが途中に看板などは無い。


1807(文化4)年、近藤重蔵 利尻からの帰途上川地方を探検。上川に番屋が置かれる。
1858(安政5)年、松浦武四郎が上川探検し、アイヌ人306人を確認している。
1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称、石狩川筋神居古譚以北を石狩国上川郡とする。
1877(明治10)年、鈴木亀蔵(通称 亀吉)、上川郡初の和人定住者となり、交易雑貨商をを営む。。(上川最初の和人定住者)
1883(明治16)年、樺戸集治監らによる樺戸郡浦臼太〜上川郡までの地理・地形・水利調査を行う。
1885(明治18)年、岩村通俊・永山武四郎一行、上川に入り、近文山より国見をする。
1886(明治19)年、空知太(現・滝川)〜忠別太(現・旭川)まで囚人の労役により、上川仮道路開通する。
1888(明治21)年、上川二等測候所開設する。
1890(明治23)年、上川郡に旭川・神居・永山の三村を置く。笠原喜助によって永山村に笠原酒造店を創業。
1891(明治24)年、永山村(現・旭川市永山)に屯田兵400戸入地する。神居・雨粉で杉沢繁吉が水稲の作付を開始するも失敗。
1892(明治25)年、旭川村(現・東旭川)に屯田兵400戸入地する。笠原酒造店が曙に酒造場を始める。
1897(明治30)年、旭川警察署開庁。上川郡役所を旭川に移転開庁。
1898(明治31)年、上川線空知太(現・滝川)〜旭川間鉄道開通。旭川駅開業。
1899(明治32)年、北海道旧土人保護法公布。
1900(明治33)年、旭川村を旭川町と改称。
1901(明治34)年、第七師団司令部を札幌より移転。
1904(明治37)年、初代旭橋完成。
1906(明治39)年、旭川駅〜師団方面の馬車鉄道開通。
1908(明治41)年、旭川電燈(株)(現・北海道電力)、電力供給開始。
1912(明治45)年、レルヒ中佐が、旭川第七師団に訪れスキーを指導し、北海道のスキー発祥となる。
1922(大正11)年、市制施行。
1929(昭和4)年、第1回慰霊音楽大行進(現・北海道音楽大行進)開催。
1932(昭和7)年、石北線全線開通。現旭橋完成。
1936(昭和11)年、ロータリー完成。
1940(昭和15)年、国策パルプ工業(株)旭川工場操業開始。
1945(昭和20)年、師団通を平和通と改称。
1950(昭和25)年、北海道開発大博覧会開催。
1955(昭和30)年、神居村・江丹別村合併。
1963(昭和38)年、東旭川町合併。
1966(昭和41)年、旭川空港開港、東京便就航。
1967(昭和42)年、旭山動物園開園。小熊秀雄賞創設。
1968(昭和43)年、神楽町合併。第1回小熊秀雄賞授賞式。(毎年実施)
1970(昭和45)年、第1回中原悌二郎賞授賞式。(毎年実施)
1971(昭和46)年、東鷹栖町合併。
1972(昭和47)年、全国初の恒久歩行者天国、平和通買物公園オープン。
1984(昭和59)年、スタルヒン球場オープン。
1993(平成5)年、井上靖記念館開館。大雪クリスタルホール開館。
1994(平成6)年、中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館開館。旭川冬まつりのメイン雪像ギネス認定。
1998(平成10)年、三浦綾子記念文学館開館。
1999(平成11)年、雨紛大橋の開通により、旭川環状線全線開通。
2000(平成12)年、4月中核市に指定指定される。道央道の旭川鷹栖IC - 和寒IC開通。旭川北IC供用開始。
2002(平成14)年、永山新川(牛朱別川分水路)供用開始。
2004(平成16)年、7月、8月旭川市旭山動物園の月間入園者数が日本一を記録する。
2005(平成17)年、旭川市科学館を北彩都あさひかわ地区に新築移転。
2006(平成18)年、旭川市旭山動物園の月間入園者数が4ヶ月連続で日本一を記録する。(6〜9月)
2010(平成22)年、旭川駅新駅舎完成。部分開業。鉄道高架化。
2011(平成23)年、旭川駅新駅舎完全開業。
旭川市史参考

近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)とは、1771(明和8)年 - 1829(文政12)年6月16日(7月16日)、江戸時代後期の幕臣、探検家。
明和8年(1771年)、近藤右膳守知の三男として江戸駒込に生まれ、17歳で私塾「白山義学」を開くなど、当時としてはかなりの学才の持主であった。
1790(寛政2)年、御先手組与力として出仕。火付盗賊改方としても勤務する。
1798(寛政10)年、幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱となる。
4回にわたり蝦夷地(北海道)へ赴き、千島列島・択捉島を探検する。
1807(文化4)年、再び松前奉行出役となり五度目の蝦夷入りを果たす。
その際、利尻島・上川・札幌周辺を探索する。

松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日、江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。
1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。
この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。
1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。

五十嵐広三(いがらしこうぞう)とは、1926(大正15)年3月15日 - 2013(平成25)年5月7日、旭川市出身の政治家で、実業家。
日本社会党所属の衆議院議員として、建設大臣、内閣官房長官を歴任し、政界を引退後は再び実業家として、地元旭川の会社の会長を務めている。
1943(昭和18)年、北海道立旭川商業学校を卒業、その後雑穀商・民芸会社・地方新聞社などを経営する。またアイヌ民族との親交も深いという。
1963(昭和38)年、37歳のとき、当時の社会党から旭川市長に立候補して当選し、全国最年少首長となった。
市長在任中は、日本初の歩行者天国である平和通買物公園や、旭山動物園を開設したことでも有名である。
旭川市長辞職後は、1975年、1979年と北海道知事選挙で立候補するも敗退。
1980(昭和55)年、第36回衆議院議員総選挙に日本社会党より出馬し初当選(旧・北海道2区)する。
1993(平成5)年、細川護熙内閣において建設大臣に就任。
1994(平成6)年、村山富市内閣の内閣官房長官に就任。
1996(平成8)年、政界を引退。
1997(平成9)年、勲一等瑞宝章を受章。

道道90号旭川環状線とは、旭川市内を一周する主要道道で、総距離は21.6km。

道道219号新開旭川線とは、旭川市内を通る一般道道で、総距離は9.5km。

道道937号上雨紛台場線とは、旭川市を通る一般道道で、総距離は12.5km。
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