中千島方面戦没者慰霊碑住所 稚内市宗谷村宗谷(宗谷公園)稚内観光協会 稚内の由来は、アイヌ語のヤム・ワッカ・ナイ、「冷たい水の流れる沢」という意味である。 宗谷の由来は、アイヌ語の「シヨウヤ」(海獣の止まる磯の丘)この磯の丘にアイヌコタンがあったことから地名にした。他にも、宗谷岬の北にある弁天島は「ソーヤシュマ」(岩礁の海岸にある島)と呼ばれていた。また、「ソ(ショ)・ヤ」(岩礁の多い海岸)と呼び、これらが「ソーヤ」の由来とされている。現在の宗谷は「ウエン・トマリ」(悪い・入り江)というところで、うっかり舟を入れると岩礁で舟を壊すところだった。 国道238号線の宗谷岬から稚内市街方向へ約7.1kmを左折し、約300mほど左手。 1945(昭和20)年、8月14日大日本帝国は連合国に対してポツダム宣言受諾を表明(第二次世界大戦が終結)した。 戦時中、千島列島も米軍機の攻撃を受けていたが、ポツダム宣言受諾の了解をもって止み、日本軍も武装解除を行った。 1945(昭和20)年、8月11日、北緯50度線国境を侵犯してソ連の赤軍・第一極東軍が南樺太に侵攻する。 その後、8月18日にはカムチャツカ半島のロパトカ岬から砲撃が開始され、同時に、ペトロパブロフスク・カムチャツキーから出撃した赤軍・第二極東軍が占守島に上陸、日本軍と交戦している。 この千島列島は日本軍により、北千島・中千島・南千島の3地区に分けてそれぞれに守備隊を置き、戦争末期には、北千島(占守島と幌筵島)は第91歩兵師団を中心に約2万3千名が守備についており、このうち占守島には第73旅団と戦車第11連隊、第1砲兵隊を基幹とした海軍部隊を含む約13000名が配置されていた。 8月21日に停戦したが、4日間の戦闘でソ連側資料によると、ソ連側が1567名、日本側が1018名の死傷者。日本側資料ではソ連側が約3000名、日本側が約600〜700名の死傷者を出したとされている。 その後もソ連軍の南下は続き、8月28日には択捉島、9月1日には色丹島、5日には水晶島が占領され停戦した。 これら千島を防衛した日本軍と成人男子の民間人は、シベリアへその後強制連行され(現・マガダン、ロシア連邦の都市でマガダン州の州都)最も過酷なコルィマ鉱山採掘労働・木材の伐採等に従事させられその殆どが無念の死を迎え、再び祖国の地を踏む事が無かった。 よく沖縄戦を国内最期の地上戦と記したものもあるがそれは誤りで、占守島をはじめとする千島列島、樺太の戦いが敗戦後にソ連の侵攻で戦われており、これが最後の地上戦となる。千島列島(北方領土)は未だに返還される事無く現在に至っている。 ちなみにこの慰霊碑は、1945(昭和20)年中千島に展開中の第四二師団が宗谷地区に転進してきた。司令部を稚内市に置き、宗谷要塞の砲台が火力を発揮するべく、第一ニ九連隊が円山・珊内方面に、第一三〇連隊は東浦から宗谷方面に配置されたことに由来するものであろう。 |