北海道応援サイト!がんばれ北海道!!

電気通信ゆかりの地

住所 宗谷郡猿払村浜猿払(浜猿払港手前の海王食品の道路向い)

猿払村観光協会

宗谷の由来は、アイヌ語の「シヨウヤ」(海獣の止まる磯の丘)この磯の丘にアイヌコタンがあったことから地名にした。他にも、宗谷岬の北にある弁天島は「ソーヤシュマ」(岩礁の海岸にある島)と呼ばれていた。また、「ソ(ショ)・ヤ」(岩礁の多い海岸)と呼び、これらが「ソーヤ」の由来とされている。現在の宗谷は「ウエン・トマリ」(悪い・入り江)というところで、うっかり舟を入れると岩礁で舟を壊すところだった。
猿払の由来は、アイヌ語の「サロプト」(葦(芦)川口)「サラブツ」(葦(芦)原の河口)から転化した。
国道238号線沿いの浜猿払市街地近くの道道584号猿払停車場線交差点から浜猿払市街へ約250mのT字交差点を右折し、約280mほど左手。

樺太との電気通信ゆかりの地の碑と、碑の傍らのマンホールには海底ケーブルが埋設されている。
本州と北海道〜旧樺太間の電話通信は、1905(明治38)年に日本の領有地となり、1907(明治40)年3月樺太庁が発足し、4月コルサコフ(大泊)・ウラジミロフカ(豊原)・マウカ(真岡)の3支庁が設置されてから樺太島民の長年の要望であった。逓信省と樺太庁の間で綿密な調査と協議により海底ケーブルの架設計画が決定したのは1933(昭和8)年7月だった。
当初の設計では、ケーブルの陸揚げ予定地は樺太の大泊の隣にあった女麗と宗谷村の峰岡だった。しかし後日予備調査により、潮流、水深、海底状態などから峰岡よりも浜猿払が適当であるとの判断から変更された。
端局の設備は、猿払・女麗中継所の中継器と、端局の組み合わせ、特殊1号搬送電話装置各1組、旭川局CS形搬送電話中継装置1組、札幌・豊原局CS型1号搬送電話端局装置各1組。
当時の総工事費は118万7000円であった。電話の開通式は1934(昭和9)年12月で、東京・札幌・豊原の三ヶ所で同時に行われ、当時の最新技術で造られたパラガッタ(中心の導体を絶縁物(パラガッタ(南米の樹木から採取したパラダから樹脂類を除き、ゴムの蛋白質を取り除いたものと、特殊なワックスを混合したもの)で包み外側を外装し保護したもの)海底ケーブルが旧樺太間との連絡を可能とした。
1943(昭和18)年11月には4芯入りの電話用2号、1芯入りの電話用1号を増設したが終戦となった。
1945(昭和20)年8月20日、樺太真岡へのソ連軍侵攻の為、郵便電信局で連絡業務のため残留していた電話交換手の女性12人のうちの、10名が局内で自決を図り、9人が青酸カリなどを用い自決した。当日勤務に就いていなかった職員らも、ソ連兵による爆殺、射殺による死者が出て、真岡局の殉職者は19人にものぼるそうだ。 この時、それに彼女たちが残した最後の言葉「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら・・・」の最後のメッセージを、この猿払電話中継所で受信していた歴史もあるのだ。稚内市には九人の乙女の像があり霊を慰めている。
終戦後は、樺太との通話が皆無となった。その後無線電信や電話の発達により業務内容は変わり、1964(昭和39)年9月末で廃所となった(一部の建物は浜猿払中学校の校舎とした)。10月浜頓別町に電報電話局が開局して必要性が無くなったからである。
1973(昭和48)年秋に当時の電電公社(現・NTTグループ)の総裁だった米沢滋氏は、技師時代当時に宗谷海峡で伝播試験を行ったことがあった。総裁として浜猿払を訪れた米沢氏は、電話中継所とケーブル線の果たしてきた役割を聞き深く感動し帰る。
1974(昭和49)年に碑の建立に発展した。2006(平成18)年猿払ライオンズクラブが碑を横に建立して顕彰している。

 宗谷海峡に布設された海底ケーブルの詳細
ケーブル番号 ケーブル名      線種       線長(海里) 布設年月日
1     宗谷海峡 話2号   4心平等装荷(GP)  94.174    1943年11月
2     宗谷海峡 電信1号  1心電信ケーブル  105.895   1937年10月
3     宗谷海峡 信2号   1心平等装荷(GP) 99.751    1945年6月
4     宗谷海峡 信1号   1心平等装荷(GP) 95.820    1943年11月
      宗谷海峡 話1号   同心型パラガッタ  87.882   1934年 9月


樺太との電気通信ゆかりの地の碑の裏に碑文もある。
 昭和9年9月、猿払、女麗間(約90海里)に同心型パラガッタ海底ケーブルが布
設され、同年12月に3チャンネル搬送電話方式が開通し、さらに電話1条、電信3
線のケーブルが布設されて、昭和20年8月まで本土ー樺太間(現在の北海道ー
ソ連サハリン間)の電気通信はすべてこのルートを通して行われていた。
 これを永く記念するため昭和48年夏、日本電信電話公社米沢総裁の
当地視察を機にケーブルの陸揚地跡に保存施設を設け、この碑を建立する。
昭和49年7月3日
北海道電気通信局


猿払電話中継所跡
 昭和9年(1934)12月11日、北海道
と樺太を海底ケーブルで結ぶ東京ー札幌ー豊
原間の長距離電話回線が完成し、初めて樺太
と電話が通じるようになりました。
 猿払電話中継所は、この海底ケーブル揚陸
地の重要中継地として、同年11月1日この
地に設置され、以来30年間大きな役割を果
たしてきましたが、終戦後樺太との通話がな
くなり、また札幌ー稚内間マイクロ回線の開
通により、その必要性がなくなり、昭和39
年(1964)9月30日廃所されたもので
あります。


碑文
皆さん これが最後です。
さようなら さようなら
昭和二十年八月十五日終戦。それから五日後の昭和二十年八月二十日
ソ連軍が樺太(サハリン)真岡上陸を開始しようとした。
その時突如日本軍との間に戦いが始まった。
この日の電話交換手である九人の乙女達は窓越に見る砲弾のさく裂、
戦火と化した真岡の街、刻々と迫る身の危険、もうこれまでと決断、死
の交換台に向い、「皆さん これが最後です さようなら さようなら」
の言葉を残し夢多き若き尊い花の命を絶ち職に殉じた。この思いを繋い
だのが当時電気通信の拠点として重要な役割を果たしていた「猿払電話
中継所」なのです。

 私達は猿払ライオンズクラブ設立二十周年記念にあたり、殉職した
九人の乙女の霊を慰め、また電気通信ゆかりの地に電気通信の功績を
顕彰すると共に世界の恒久平和を祈り、この碑を建立する。
平成十八年十二月十日
猿払ライオンズクラブ二十一代会長 鳥谷部 徹雄
寄贈 猿払ライオンズクラブ

ちなみに、この碑から浜頓別方面に南下すると、「エサヌカ線」となる。

浜猿払地区は、国道より海岸側に位置し、1894(明治27)年8月猿払村の渡し場(猿払川・ヲニシベツ川・チライベツ川・ナイウトロ川)が官設場となる。1900(明治33)年には足達長四郎が浜猿払地区に入地し翌年に商店を開いており、この頃すでに多くの漁民がこの地区に入り込んでいたようである。1904(明治37)年藤山要吉が浜猿払にて本格的な漁業を営む。浜猿払神社を創建する。1905(明治38)年には七田他十郎がホタテ貝漁に従事する。明治期後半は石川県や秋田県などから多くの漁民が入り、ホタテ・ニシンで栄え、山では造材の集積地として流送夫なども沢山居た。1908(明治41)年6月浜猿払特別教育所を開設する。1909(明治42)年石川忠司が浜猿払から上猿払まで川運を行う。
 1914(大正3)年10月には猿払村伝染病隔離病舎を浜猿払に設置する。1918(大正7)年この頃浜猿払に鍛冶屋3軒あった。1919(大正8)年11月宗谷線(天北線)の浜頓別〜浅茅野間を延伸開業し、山軽駅・浅茅野駅を新設する。1920(大正9)年11月浅茅野〜鬼志別間を延伸開業し、猿払駅・芦野駅・鬼志別駅を新設する。1924(大正13)年1月宗谷村から分村、2級町村制を施行する。村内を10地区に分ける。
 1934(昭和9)年11月浜猿払に北海道と樺太を結ぶ海底電話中継所が設置される。この頃の繁華街では旅館3軒、料亭が2軒あり、芸者を35人前後も抱えていたという。1947(昭和22)年鬼志別中学校浜猿払分校の設置。1950(昭和25)年6月には浜猿払の郵便局から出火し、30戸全焼する。1952(昭和27)年3月に浜猿払エサヌカ間道路が村道に指定される。1974(昭和49)年7月浜猿払に「電気通信ゆかりの地」碑建立される。1978(昭和53)年浜猿払漁港が第一種漁港に指定される。
 2001(平成13)年には風力発電機が設置され発電を開始する。


1296(永仁4)年、日持上人宗谷より渡樺の伝説がある。この頃和人の勢力が宗谷地方に及ぶ。
1582(天正10)年、松前藩領となる。
1603(慶長8)年、宗谷に役宅を設置し、利尻、礼文、唐太を司る。
1635(寛永12)年、佐藤嘉茂左衛門、蠣崎蔵人、村上掃部左衛門を宗谷珊内より樺太巡察に派遣し、ウッシャム(サハリンの最南端・クリリオン岬(日本統治時代の名称は西能登呂岬付近)に渡る。
1651(慶安4)年、蛎崎伝右衛門主命により樺太を巡視する。
1669(寛文9)年、6月シャクシャインの乱が起こり、宗谷地方にも影響が及ぶ。
1685(貞享2)年、松前藩が宗谷場所を開設する。樺太は松前藩家臣の知行地として開かれたソウヤ場所に含まれた。
1689(元禄2)年、藩士蛎崎七之丞が宗谷を巡視する。
1706(宝永3)年、村山伝兵衛、宗谷場所を請負う。
1750(寛延3)年、村山伝兵衛、宗谷場所を請負う。
1752(宝暦2)年、ソウヤ場所から樺太場所が分立する。
1756(宝暦6)年、浜屋や近江商人が宗谷場所を請負う。
1761(宝暦11)年、宗谷場所が松前藩の直轄となる。
1765(明和2)年、松前の商人恵比須屋半兵衛が宗谷場所を請負う。
1775(安永4)年、飛騨屋久兵衛が宗谷場所を請負う。
1781(天明元)年、宗谷に厳島神社建立。(現・内市宗谷村宗谷、宗谷歴史公園内)
1785(天明5)年、幕府の樺太探検隊長庵原弥六一行、宗谷で越年するも、翌年3月に病死する。(墓碑現存)
1787(天明7)年、フランスのラ・ペルーズの艦隊が世界周航の途中、宗谷海峡を通過、樺太が島であることを確認。
1789(寛政元)年、最上徳内らが宗谷を巡視。飛騨屋が宗谷場所をやめ、村山伝右兵衛が請負う。
1790(寛政2)年、松前藩は、宗谷に勤番所を設置する。
1796(寛政8)年、村山伝兵衛は宗谷場所を罷免され、小山屋権兵衛が請負う。
1800(寛政12)年、藤原時畝が、宗谷にて弥六の墓碑を建立する。松前藩は宗谷場所を直営。柴屋長太夫が宗谷場所の仕入れを任ぜられる。
1801(亨和元)年、奉行松平忠明、宗谷を巡視し、台場を築く。奉行一行の磯谷則吉が宗谷に滞在する。高橋壮四郎が宗谷場所を管理する。
1806(文化3)年、遠山金四郎、村垣左太夫樺太を巡視して宗谷に滞在。
1807(文化4)年、幕吏近藤重蔵ら宗谷を巡視。宗谷場所幕府直轄領となる。津軽藩宗谷警備に付くが、多くの藩兵が水腫病で亡くなる。
1808(文化5)年、最上徳内、松田伝十郎が宗谷に来る。松田伝十郎は樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の国境標を建てる。間宮林蔵ら、樺太探検のため宗谷を出帆。会津藩が津軽藩と宗谷警備を交代する。宗谷警備中の会津藩士が次々と病死する。
1809(文化6)年、間宮林蔵は樺太が島であることを確認し、呼称を北蝦夷地と正式に定め、宗谷に戻る。松田伝十郎が樺太アイヌ住民の問題解決に貢献し、北蝦夷地詰を命ぜられる。山丹人との貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。
1810(文化7)年、藤原義行鋳造の釣り鐘を宗谷護国寺に奉納する。宗谷の越冬警備を止め、増毛まで退避越冬をする。
1821(文政4)年、全蝦夷地を松前藩に返還し、宗谷場所も松前藩領になる。松田伝十郎が宗谷詰となり着任する。
1823(文政6)年、3月厳島神社に藤野家船頭の松本金蔵らが石鳥居、宗谷番人達が石灯篭を奉納する。
1824(文政7)年、宗谷支配人嘉吉らが厳島神社に手洗鉢を奉納する。
1832(天保3)年、藤野喜平衛が厳島神社を改築する。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が声問に立ち寄り、宗谷から樺太に渡る。
1855(安政2)年、3月宗谷場所、再び天領となる。秋田藩が宗谷警備を行う。
1856(安政3)年、箱館奉行所支配組頭向上源太郎が宗谷場所を引き継ぐ。7月佐倉藩士窪田子蔵(「協和私役」として残す)が猿払で一泊する。松浦武四郎ら、樺太調査のため宗谷を出帆。12月クワヘヒル(ストーブ)が役宅につけられる。
1859(安政6)年、宗谷は、秋田藩の領下となるが抜海とノシャップは幕府直轄。その後珊内以北を幕府直轄にする。
1867(慶応3)年、宗谷地方は箱館奉行所の直轄地に編入される。
1869(明治2)年、宗谷・猿払地方は開拓使に属す。金沢藩支配に宗谷・枝幸・礼文を含む。
1870(明治3)年、1月宗谷、金沢藩に属す。6月宗谷は開拓使の直轄とする。8月藤野喜平衛が宗谷場所を返上する。
1871(明治4)年、7月松本十郎が宗谷を調査しサルフツで一泊するする。栖原角兵衛が宗谷外四郡の漁場を受け持つ。
1872(明治5)年、宗谷支庁設置、開拓判官大山重が主任となる。10月佐藤正克が猿払で一泊する。
1873(明治6)年、宗谷支庁を廃し、留萌支庁の管轄となる。
1874(明治7)年、開拓使雇技師ライマンが稚内地方を巡視し、猿払で一泊する。
1875(明治8)年、3月宗谷に開拓使出張所を置く。樺太千島交換条約締結。樺太原住民841名を稚内に移住させる。
1876(明治9)年、1月宗谷郵便局を設置。
1878(明治11)年、10月宗谷郡6村設定が公示され、アイヌ語地名「サラ・プツ」に「猿払」の字が当てられ村の誕生となる。
1879(明治12)年、宗谷外3郡役所、6村戸長役場の支配下に置かれる。
1880(明治13)年、3月宗谷郡役所開庁する。
1889(明治22)年、藤山要吉が猿払で漁業を営む。
1890(明治23)年、猿払に人馬継立所を開設し金イ印が経営する。
1891(明治24)年、宗谷測候所閉鎖となる。9月枝幸村開村となる。道庁石川技手石炭別踏査し、猿払炭田を発見する。
1893(明治26)年、10月杖苫内駅逓所設置する。
1894(明治27)年、8月猿払村の渡し場(猿払川・ヲニシベツ川・チライベツ川・ナイウトロ川)が官設場となる。和人の越冬者が現る。
1895(明治28)年、猿払・山軽(猿払村)が官設駅逓所となる。高木某が猿払で旅館を経営する。
1896(明治29)年、猿払より杖苫内(現・東浦)まで藤山要吉鰊場等4ヶ所、漁舎6棟経営する。
1897(明治30)年、郡役所を改め、宗谷支庁を開設。
1900(明治33)年、宗谷、泊内、猿払三村戸長役場を宗谷コタンバに設置する。藤山漁場で鮭の定置網を操業する。猿骨に石川県人5戸が入植する。苗太呂知来別原野貸付区画設定する。藤山漁場の石戸谷友吉が牧場を経営する。
1901(明治34)年、知来別で石川県内灘(現・石川県河北郡内灘町)の漁業者が海扇(ホタテ)漁業を始める。
1902(明治35)年、福井県人の某が浜鬼志別に入植する。
1903(明治36)年、富山県人の某が知来別に入植する。この頃の猿払の越冬者は7戸となる。
1904(明治37)年、三井物産会社、小樽木材会社が猿払にて本格的に造材事業を始める。森安太郎が猿払に入植する。藤山要吉が浜猿払にて本格的な漁業を営む。浜猿払神社を創建する。
1905(明治38)年、田中新平らが浜鬼志別に漁場をおく。知来別が泊内(宗谷村)から離れ独立部落となる。9月知来別特別教育所を開設する。
1907(明治40)年、6月知来別特別教育所尋常小学校となる。前川某が浜猿払に大衆浴場を開業する。浅羽靖が猿払村の土地を取得する。
1908(明治41)年、6月浜猿払特別教育所を開設する。9月浜鬼志別神社の拝殿を新築する。
1909(明治42)年、上猿払地域を北海道拓殖計画地に指定する。石川忠司が浜猿払から上猿払まで川運を行う。三菱鉱業会社小石地区に試掘鉱区を設定し、炭層調査を行う。9月浜鬼志別特別教育所を開設する。
1911(明治44)年、5月連日の大火で村内が恐怖する。知来別で4戸焼失する。本間泰治が猿払牧場を開設する。
1912(大正元)年、秋田木材が猿払村での伐木の減少により事業を縮小する。秋田木材会社が声問で自家発電を始める。宗谷支庁庁舎新築落成する。
1913(大正2)年、浅茅野部落の開拓がはじまる。浅羽靖氏が浅茅野地区に組合牧場を開設する。浜鬼志別に劇場ネズミ座を開設する。10月秋田木材の製材力半減する。山口京松が浅茅野地域の道路を開削する。
1915(大正4)年、岩崎男爵が浅茅野地区に道路を開削する。9月浅茅野地区に小作人9戸入植する。
1916(大正5)年、4月山軽(猿払村)駅逓所廃止となる。12月藤田炭礦会社が小石付近に6鉱区取得する。
1917(大正6)年、中鬼志別(現・鬼志別)神社を祭祀する。
1918(大正7)年、浅茅野神社を祭祀する。
1919(大正8)年、8月上猿払駅逓所設置される。11月宗谷線(天北線)の浜頓別〜浅茅野間を延伸開業し、山軽駅・浅茅野駅を新設する。上猿払特別教授所を開設する。キモマ沼でコイ・ヒメマスの養殖をする。
1920(大正9)年、11月浅茅野〜鬼志別間を延伸開業し、猿払駅・芦野駅・鬼志別駅を新設する。村の中心地の鬼志別まで鉄道が敷設される。
1921(大正10)年、5月鬼志別小学校開校する。7月旭川歩兵第28連隊が知来別に入る。浅茅野の組合牧場が東山農場と改称する。9月熊野神社(鬼志別神社)を現在地に遷宮する。
1922(大正11)年、4月中村卯太郎が経営する猿払工場が操業する。11月鬼志別〜稚内(現在の南稚内)間を延伸開業し、小石駅・曲淵駅・沼川駅・樺岡駅・幕別駅・声問駅・稚内駅を新設する。稚内機関庫鬼志別分庫設置。宗谷線(天北線)開通。11月宗谷線を宗谷本線に改称。
1924(大正13)年、1月宗谷村から分村、2級町村制を施行する。村内を10地区に分ける。5月役場庁舎の建設に取り掛かる。7月秋田木材の事務所が樺太に移る。10月浅茅野駅舎全焼する。
1925(大正14)年、12月役場庁舎落成する。
1926(大正15・昭和元)年、2月役場庁舎完成し開庁式挙行。3月三菱会社東山農場を王子製紙会社に譲渡する。9月天塩線(音威子府〜幌延〜稚内間)全通。
1927(昭和2)年、7月鬼志別宗谷無煙炭鉱採炭事業を開始する。
1928(昭和3)年、9月鬼志別自動車運輸合資会社を設立する。
1930(昭和5)年、4月天塩線を宗谷本線に編入し、音威子府〜浜頓別〜稚内間を分離し、北見線に改称。
1932(昭和7)年、8月鬼志別平島牛乳搾取場開業する。中村卯太郎氏が猿骨所有地を富士製紙会社に譲渡する。
1933(昭和8)年、6月知来別船入澗工事に着手する。9月キモマ沼に糸状緑藻マリモ発見する。10月猿払電灯会社を設立し送電を開始する。
1934(昭和9)年、11月浜猿払に北海道と樺太を結ぶ海底電話中継所が設置される。
1935(昭和10)年、7月鬼志別コーライト工場製造販売中止。狩別の石炭露頭採炭事業は放置される。10月宗谷漁業協同組合は石川県人の猿払村でのホタテ漁を禁ずる。
1936(昭和11)年、宗谷港築港工事に着手する。宗谷炭礦汽船会社が天北炭田発掘に着手する。7月興浜北線が開通する。10月村内拓殖道路開削工事に着手する。
1937(昭和12)年、1月稚内測候所を設置。2月猿払村の産業気象観測を開始する。7月猿払木工所を中村卯太郎三井物産会社に譲渡する。10月松尾経営の小石炭鉱に石炭輸送の索道を敷設する。11月鬼志別神社社殿建築上棟式挙行。猿払電灯会社が日高電灯会社と合併する。
1938(昭和13)年、1月小石炭鉱採炭運搬の為約1kmの線路を敷設する。10月鬼志別コーライト半成コークス製造宝炭鉱業所設置する。
1939(昭和14)年、12月12日ソ連船「インディギルカ号」が浜鬼志別沖合いで座礁する。寒さで凄惨を極め救助数は395人。死体収容数は180体となる。イ号の生存者28名。遺骨394個鬼志別駅より小樽へ護送する。
1940(昭和15)年、11月小石愛国炭鉱小石駅に鉄道専用線を敷設する。北見鉱業会社浅茅野地区鉱区権を取得する。
1941(昭和16)年、5月イ号の解体・浮揚工事、三菱会社により着手する。北見鉱業株式会社浅茅野炭鉱を開坑する。
1942(昭和17)年、3月北見枝幸測候所を設置する。11月徴用朝鮮人労働者約120人浅茅野に入る。12月浅茅野陸軍飛行場造設工事に着手する。
1943(昭和18)年、4月政令により村内の石炭鉱山の採炭を中止する。村内三箇所に防空監視場を設ける。6月小石愛国炭鉱は閉山式を挙行。労務者は浅茅野炭鉱に引き継がれる。11月宗谷地方に海軍防備基地建設計画が進む。
1944(昭和19)年、9月浅茅野陸軍飛行場の土地を陸軍省で買収する。10月日本通運会社浅茅野猿払小石営業所を設置する。12月浜鬼志別飛行場造成の土地を陸軍省が買収する。
1945(昭和20)年、5月宗谷海峡方面地区の防衛を強化するため千島防衛中の第42師団主力に移動命令がでる。8月知来別・浅茅野・小石の各炭鉱は戦争遂行のため採炭を中止する。樺太居留民引揚船稚内に入港。米軍稚内に進駐。
1946(昭和21)年、2月戦災疎開外地引揚者172世帯565人となる。4月浅茅野陸軍飛行場跡地を牧場造成するために申請する。小石炭鉱は小規模の採炭を再開する。11月上猿払地区に8戸入植する。12月浅茅野台地に4戸入植する。シネシンコ(現・浜鬼志別シネシンコ)に7戸入植する。
1947(昭和22)年、7月シネシンコ地区に17戸・上猿払地区に1戸入植する。8月浅茅野台地地区に29戸入植する。10月枝幸村町制施行。北海道炭鉱拓殖株式会社小石鉱業所発足する。
1948(昭和23)年、1月宗谷炭鉱株式会社が宗谷猿払炭鉱の採炭が本格的になる。4月浅茅野鉱業所北見鉱業所のあとを継いで採炭を始める。
1949(昭和24)年、7月三井物産会社猿払木工場は猿払製材会社経営となる。猿払第一地区に16戸・豊里団地に9戸入植する。10月浜鬼志別の旧陸軍用地を農林省より払い下げ。11月中頓別村町制施行。
1950(昭和25)年、5月奥村鉱業会社鬼志別炭鉱休山する。6月小石劇場を建設する。9月山形県から5戸入植する。11月猿骨団地に9戸・芦野団地に12戸入植する。
1951(昭和26)年、11月浜頓別村町制施行。12月浜鬼志別に村営の牧場を開設する。
1952(昭和27)年、5月猿払製材会社株式会社が岩倉組の経営となる。6月マス流し網漁業を試す。7月猿払第2地区狩別に40戸入植する。8月知来別漁港第一種漁港に指定される。
1953(昭和28)年、浅茅野炭鉱経営困難となる。
1954(昭和29)年、10月風力発電が猿骨団地に建設。
1955(昭和30)年、8月小石地区に2戸入植する。
1956(昭和31)年、12月ソ連船「インディギルカ号」遭難者慰霊祭挙行。
1958(昭和33)年、12月小石小田部炭鉱開鉱する。
1959(昭和34)年、3月浅茅野双見炭鉱開鉱する。
1960(昭和35)年、3月陸上自衛隊名寄駐屯部隊鬼志別演習場を買収した。12月芦野地区6戸過剰入植し、一部の人がブラジルに移住する。猿払地区に簡易水道完成し給水開始する。
1961(昭和36)年、4月北見線を天北線に改称。
1963(昭和38)年、8月役場新庁舎落成し、村制施行40周年記念式典挙行。12月浅茅野台地に電気導入する。旧陸軍飛行場跡地浅茅野浜鬼志別を国より払い下げ村有地に移管する。
1964(昭和39)年、10月高谷木材会社浅茅野でチップ工場を設置する。11月小石小田部炭鉱休山となる。
1965(昭和40)年、2月浜鬼志別地区に簡易水道完成し給水開始する。3月北オホーツク道立自然公園指定運動を展開する。10月新猿払炭鉱開鉱する。道北炭鉱開鉱する。日吉炭鉱開鉱する。11月狩別芦野地区に電気導入する。12月知来別地区簡易水道完成し給水開始する。芦野地区開墾建設工事で上水道布設する。
1966(昭和41)年、3月北拓小石炭鉱閉山宣言。5月浜鬼志別地区に簡易水道完成し給水開始する。10月豊里地区の上水道開墾建設工事完成する。11月豊里地区に電気導入する。12月新猿払炭鉱休止となる。
1967(昭和42)年、3月藤田石炭礦業会社小石炭鉱閉山となる。5月藤田炭鉱で使用していたSL8001型機関車廃車となる。北連猿払農協猿払集乳所開設する。6月新狩別炭鉱開鉱する。7月北工小石炭鉱開鉱する。9月芦野地区簡易水道完成し給水開始する。11月小石地区簡易上水道完成し給水開始する。
1968(昭和43)年、4月猿払村観光協会設立する。5月オホーツク海に沿って位置する猿払村、浜頓別町、枝幸町の2町1村に所在する総面積3927haの自然公園が北オホーツク道立自然公園に指定される。10月北大大場利夫教授一行が浜猿払の先住民族遺跡を調査する。猿払初出炭鉱開鉱する。12月狩別地区に簡易上水道完成し給水開始する。
1969(昭和44)年、6月第一回あやめ祭り川魚大会をポロ湖湖畔河川にて開催する。7月浜鬼志別村営牧場内(現・道の駅さるふつ公園敷地内)に「乳牛感謝の碑」が建立される。
1970(昭和45)年、12月浅茅野地区に簡易水道完成し給水開始する。エサヌカ原生花園など村内5ヶ所の文化財地区に指定する。
1971(昭和46)年、4月新狩別炭鉱休山する。5月小石芦野地区から湧出する鉱泉を専門家が踏査する。7月イ号遭難者慰霊碑の建設工事開始。9月札幌ソ連領事館よりソ連国民の浄財が届く。10月インディギルカ号遭難者慰霊碑が完成し除幕式挙行。鬼志別炭鉱休山する。
1972(昭和47)年、5月北工小石炭鉱休山する。6月小石水島炭鉱開鉱する。8月管内初めての村営バスを運行する。11月浜鬼志別(現・道の駅さるふつ公園敷地内)に「日ソ友好記念館」が建設される。上猿払が無人部落となる。浜鬼志別に生活館建設する。小石に鮭鱒孵化場を建設する。
1973(昭和48)年、6月小石鮭鱒孵化場の稚魚160万尾をキモマ沼鬼志別川から放流する。
1974(昭和49)年、1月猿払初出炭鉱休山する。7月浜猿払に「電気通信ゆかりの地」碑建立される。
1975(昭和50)年、11月浜鬼志別海岸に灯台が設置される。
1976(昭和51)年、10月猿払村漁業事務所を併設したホタテ貝畜養施設が完成する。この年猿払村漁業が村民へ獲れたての帆立を無料配布する。ホタテ景気で知来別で新築ラッシュとなる。
1978(昭和53)年、5月小石旧炭鉱跡地で地中火災が発生する。自衛隊に出動要請しヘリにて消火する。
1981(昭和56)年、10月中国残留邦人の仲野繁郎一家が浅茅野に永住帰国する。11月ホタテ漁業造成事業10周年記念式、「いさりの碑」除幕式が挙行される。
1984(昭和59)年、2月天北線全線の貨物営業を廃止。6月生乳生産2万tを記念して「風雪の塔」「農業資料館」がオープンする。
1986(昭和61)年、7月ソ連船インディギルカ号遭難時の生存者ヴァラキン氏が慰霊祭に参列する。
1989(平成元)年、5月天北線廃止に伴い代替輸送バス運行開始。12月猿払村営スキー場オープン。
1990(平成2)年、3月鬼志別バスターミナルが完成する。
1991(平成3)年、7月旧天北線のレールを文鎮にして全世帯に配布する。
1992(平成4)年、6月乳肉加工施設「牛乳と肉の館」が完成し、乳製品が製造開始される。
1993(平成5)年、2月旧役場の閉庁式挙行する。新役場庁舎で開庁式を挙行する。
1994(平成6)年、10月旧天北線跡地を活用した猿払〜浜頓別間に自転車道路「北オホーツクサイクリングロード」が開通する。
1995(平成7)年、6月さるふつ公園パークゴルフ場が完成する。
1997(平成9)年、7月前年から開始した掘削中のボーリングから温泉が湧出する。
1998(平成10)年、5月キモマ沼でマリモ(本州型タテヤママリモ)を発見する。6月道の駅「さるふつ公園」がオープンする。7月王子製紙の浅茅野所有地に「王子の森猿払」オープンする。10月「さるふつ温泉」がオープンする。
2000(平成12)年、12月「さるふつ公園イベント広場」・「キャンプ場」が完成する。
2001(平成13)年、2月字名・字界改となり字名が16から15に変更となった。8月さるふつ公園キャンプ場が開設される。
2006(平成18)年、8月19〜25日浅茅野飛行場犠牲者遺骨発掘が行なわれる。
2008(平成20)年、4月道の駅さるふつ公園管理棟横に新店舗を設置する。10月旧天北線跡地である道道猿払鬼志別線が全面開通する。
2009(平成21)年、2月源泉枯渇により「さるふつ温泉」の供給停止する。12月樺太との電信通信ゆかりの地の記念碑周辺の環境を整備する。
2010(平成22)年、4月「さるふつ温泉」(猿払村公衆浴場)は水道水を使用した入浴施設となっていたが閉鎖。
2015(平成27)年、4月ホテルさるふつ大浴場(銭湯)としてリニューアルオープン。
猿払村史・猿払村史第二巻参考

Copyright (C) がんばれ北海道 All Rights Reserved.
inserted by FC2 system