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デスモスの里

住所 枝幸郡枝幸町歌登上徳志別(寿橋たもと)

枝幸町観光協会

枝幸(えさし)の由来は、アイヌ語の「エサウシ」(岬)から。2006(平成18)年3月20日旧枝幸町と旧歌登町が合併し、現在の枝幸町となった。
歌登の由来は、アイヌ語「ウタヌプリ」「オタヌプリ」(砂の山)の意。幌別川河口地域に海岸砂丘がありそれが大字歌登村の語源となっていて、枝幸村から分村する際に村の名称とした。
徳志別の由来は、アイヌ語の「トクシベツ」(アメマスのいる川)、「トプシュベツ」(笹の多い川)後者の方ではないかと思われる。
道道120号美深中頓別線沿いにあり、歌登市街地の道道12号枝幸音威子府線道道120号美深中頓別線の交差点から美深方向に約20.1km右手。徳志別川寿橋手前。

徳志別川に架かる寿橋のすぐそばにデスモスの里という案内板がある。最初に発見されたのは1971(昭和46)年3月美幸線の上徳志別〜大曲トンベル間のトンネル工事現場にて約2000万年前の海獣デスモスチルスの下アゴの骨が発見される。
1977(昭和52)年9月には上徳志別で発見されたデスモスチルスの化石を、発掘するべく地質調査所の山口昇一博士らが徳志別川の川底を調査していた。このあたりはタチカラウシナイ層(約1400万年前(中期中新生)の浅い海の底で堆積した貝化石や木片、亜炭層を含む地層)と呼ばれ、北大理学部の教授一行によりほぼ完全体で発掘される。第二次発掘は1978(昭和53)年7月に行われた。発掘地点周辺からはハマグリの仲間、カガミガイの仲間などの貝化石が沢山見つかったそうだ。この石碑から程近くの上流にはタチカラウシナイ層が露出している場所もある。
タチカラウシナイは上徳志別から乙忠部に方面へ行く道道1023号上徳志別乙忠部線沿いにある地名で、歌登豊沃、タチカラウシナイ川が流れている。アイヌ語由来で「タツカルウシユナイ」(樺の皮を採る沢)とも呼ばれていた。
以前は、うたのぼり健康回復村内に歌登ふるさと館があり展示されていたが閉鎖し、オホーツクミュージアムえさしに展示物は移転されている。
オホーツクミュージアムえさしでは、デスモスチルスの全身骨格化石を再現しているので時間があれば寄って見るといい。ちなみに中川町エコミュージアムセンターでも恐竜の化石を展示しており、1973(昭和48)年と1991(平成3)年に2体のクビナガリュウの化石がまとまって発見されており、クビナガリュウの復元骨格が展示されている。他にもアンモナイトやサメ、イルカなど様々な化石を世界中の標本と比較しながら展示公開している。興味があるなら併せて見てみたいですよね?

碑文
デスモスチルスの化石発掘跡
デスモスチルス〈Desmostylus〉
 束柱目の哺乳動物。北太平洋をとりまく地域(北緯55°以北)の後期漸新生から中期鮮
新生の海成層から産出する化石として知られ、この時代の示準化石でもある。
 体長2.4m体高1.2m位の大きさで、頑丈な四肢骨をもつ、水陸両生の植物食の海獣で、
1.900〜600万年前の中新生に最も繁栄したが、その分類上の位置や系統関係については不
明な点が多い。
 名の由来は、Desmos=束とStylus=柱の合成で、柱を束ねたような臼歯をもっており、
その歯は象などの歯のように水平にぬけ変る水平交換であった。
 発達した、吻と小さな耳、大きな目をもって、アザラシのような毛皮をつけ、指の間には多
少とも水かきのような膜をもって水中生活をし、時には陸上歩行もしたものと推定される。
 全身骨格化石の産出は世界で4体のみであるが、3体は日本で、その1つは旧日本領の
樺太(気屯)であり、現在の国内産は2体(岐阜と歌登)のみである。
 歌登町上徳志別はその産出数が、部分化石未発表分も含めて11体と、おどろくばかりの
多さであり、特に        (不明) されたものは、完全に近い全身骨格で
世界の注目をあびているとともに学術上、非常に貴重な存在でもある。
 (不明)って、どのような動物であったかは、わが国の学者のみが研究しうるところである。

上徳志別は、1909(明治42)年上徳志別原野280町歩の地積をもって大恵農場が開設され、徳島県人の大恵仲三郎が入地することに始まる。2級町村制施行により頓別、歌登、礼文、枝幸が枝幸村に併合。1912(明治45・大正元)年大恵農場に2戸(正木和之介、横山伊助)入地する。この頃現地へ入るには川を遡行していった。大恵氏が入植した当時は道路などは無く、日用品を買うには浜徳志別へは4里、上幌別6線には3里。どちらも鬱蒼たる笹薮の中を歩き熊が出る場所を歩かなければならなかったことから、浜徳志別まででて枝幸市街まで行き調達するのが良かったようだが、往復4日もかかったという。
 1913(大正2)年渡辺四郎が大恵農場に入地する。その後入植者が増えて行く。志美宇丹方面への造材事業が本格化し、ペンケナイを経て刈分け道路を開削する。これにより奥地への入植者が増えて行く。大曲の一部も大恵農場の一部だったが、1914(大正3)年に34町歩を分割売渡しとなった。1916(大正5)年4月枝幸村(現・枝幸町)より頓別村(現・浜頓別町・中頓別町)を分村。志美宇丹・上徳・オフンを合わせた志美宇丹部落が組織される。1922(大正11)年志美宇丹、オフンタルマナイ、上徳志別の三字一円で一部落だったが、上徳志別が独立した。
 1927(昭和2)年上徳志別〜大曲にかけての道路が開通する。1937(昭和12)年上徳志別分教所が700m下流側の現在地に新校舎を建てて移転する。1938(昭和13)年大曲部落が上徳志別部落から独立する。大恵農場三十周年記念の記念碑を建立する。1939(昭和14)年9月歌登村として枝幸村より分村する。1942(昭和17)年大恵農場解放され、10戸が自作農となった。1947(昭和22)年上徳志別からタチカラウシ(豊沃)にかけて緊急開拓事業として団地が形成され、地元から3戸入植する。1948(昭和23)年に1戸入植する。1949(昭和24)年には3戸入植する。1950(昭和25)年上徳志別とタチカラシナイに地元5戸入植する。1951(昭和26)年福島県から4戸入植する。
1955(昭和30)年にかけて地元の二男三男等の5戸の入植があった。1957(昭和32)年上徳志別小学校は校舎と住宅共にその向きを変えて改築される。1959(昭和34)年上徳志別にてマンガン鉱を開発するが、秋には休止した。上徳志別が電化となる。1968(昭和43)年上徳志別に砂利会社が設立され、徳志別川の玉石を使い砂利生産を開始する。1971(昭和46)年3月美幸線の上徳志別〜大曲トンベル間のトンネル工事現場にて約2000万年前の海獣デスモスチルスの下アゴの骨が発見される。1977(昭和52)年9月上徳志別で発見されたデスモスチルスの化石を北大理学部の教授一行によりほぼ完全体で発掘される。大曲〜美深を結ぶ林道が開通する。1981(昭和56)年6月枝幸郡歌登町大字歌登字〇〇だったが字名を廃した。1982(昭和57)年3月上徳志別小学校は廃校となる。

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