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遠別町 水稲発祥の地碑

住所 天塩郡遠別町共栄

遠別町

天塩の由来は天塩川、アイヌ語の「テシ・オ」「テシュオ」(梁(やな)・ある)から。
遠別町の由来は、アイヌ語の「ウェンペッ」(悪い川)からと言われているが、実際は「ウイベチ」(相語る川)からだそうだ。
他にも、「ウイエベツ」(さわがしい川)、という意味もあるそうだが、いずれにしても稲作の実る肥沃な地を造りだす川だけに後者であって欲しいと願う。
道道688号線を内陸に約14kmほど入ったとこにある。

日本最北の稲作地帯でもある遠別町の共栄地区には水田を背に「水稲発祥之碑」が建てられている。
遠別町に初めて入植したのは、越前福井の武生(現・福井県越前市府中)の団体で、共栄部落も越前団体の入植で、中央部落と共に遠別町開拓の発祥地とも言える部落である。
遠別町での稲作の発祥は、1897(明治30)年試作をした中村亀吉氏が起源となっている。
1901(明治34)年南山仁太郎が、遠別川の水を引いて田を作り、旭川産の種子(におい早生)を撒き収穫に成功したことが稲作発展の契機となった。
南山氏は最初、23号の青木氏所有の土地に、福井県から取り寄せた種子で3反歩ほど作付けし、用水は自宅前の小川を利用したが気候が合わずに失敗した。
翌年も、本州から種子を取り寄せたが、失敗するのであるが、気候的に寒さに耐えるものなら育つという可能性を確信することになる。この時、上川の屯田兵の官舎建設に従事していた親戚の南山金蔵から上川産の耐寒性の良いことを聞き、送ってもらい試作したところ、1903(明治36)年に成功を収めるに至った。
初期の稲作は、内地の方法を採用していたが、大正に入ってからは直播法が伝えられ、機械撒きは大正末期頃に導入された。
1907(明治40)年〜1912(明治45)年にかけて、塚原八兵衛、大西重左衛門、山下粂治、橋本助衛門らが20線〜24線あたりに造田する。
1921(大正10)年、南山氏が七反歩の耕作相当の収穫を見たことから、造田熱が高まり、小林次郎松、林栄吉、木下藤右衛門、大西丈太郎らが主唱者となり、土功組合の設立し、幸和より24号に至るで灌がい工事が進み、1923(大正12)年に灌漑溝が完成し、水稲栽培が本格的に行われるようになる。
1924(大正13)年の作付けは170町歩、収穫高は805石。1927(昭和2)年には450町歩にまで造田された。
1955(昭和30)年代後半からは米の生産過剰で水田利用再編対策が取られ、660haが転作しもち米に転換した。
1983(昭和58)年、もち米生産団地に指定され、日本最北の稲作地帯は今も健在しているのである。
ちなみに、遠別は稲作の北限と言う事だが、世界的に見ると遠別町より北部の地域でも稲作は行われている、しかしその殆どが陸稲なのである。
水稲としては世界最北の地、云うならば「水稲稲作の最北地」と表現してもいいだろう。
開拓から遠別の農業は、馬鈴薯・麦・豆といった畑作が中心だったが、越前団体は入植後すぐに水稲栽培を試みており、試行錯誤のすえ国土の最北地に稲作を実らせた。


碑は1957(昭和32)年、遠別町稲作経営研究会が創立20周年の記念に、遠別の稲作の礎を築いた南山仁太郎氏の功績をたたえて建立したもの。

共栄部落は、越前団体・福井県南条郡神山村字池の上・広瀬(現・福井県越前市池ノ上町)部落より組織された団体で、46戸分230町歩が与えれた。開墾に着手したのは、1897(明治30)年4月で団体長は水上嘉蔵だった。当時の道路は人が歩ける程度の刈り分け道路しかなく交通の便は悪かったが、1904(明治37)には土地全ての付与を受けた。
入植当時は、木材の搬出が多かったが、遠別町市街地でもまだ人口が少なく、当時は十貫目(約37.5kg)30銭程度だったこともあり、あまり儲からなかったようである。
共栄部落は、入植後、口島、奥島、中島の三区画に分れていたこともあり、三社の地神の創立を見た。口島では春日大明神、奥島では天照大神、中島では天満天宮を祀っていた。1918(大正7)年口島に合祀し、その後1935(昭和10)年7月に中央校下三部落神社合祀となり23号の青木氏付近の山の下に祀り、現在に至る。
22号には、山本祖明氏が曹洞宗説教所を設置し、寺号を遠別正法寺と称した。学校は1899(明治32)年に22号の吉江由松氏の住宅を仮教場とし、村井某を教師として二年間務めた。その後山本祖明氏が寺子屋式の教授をした。1903(明治36)年3月には第三簡易教育所を22号に設立する。


約3000年前、先住民族天塩川河口に竪穴住居を営み始める。
1596(慶長元)〜1614(慶長19)年、この頃テシホ場所設置される。
1669(寛文9)年、シャクシャインの乱が起こり、天塩地方にも影響が及ぶ。
1685(貞享2)年、宗谷場所が開設される。(場所は、対アイヌ交易のため和人が訪れる所定の場所)
1689(元禄2)年、松前藩士蛎崎七之丞が藩命で西蝦夷地である留萠、天塩海岸を調査する。
1690(元禄3)年、松前藩が藩士と工夫を羽幌地区に派遣し、砂金を採取する。
1700(元禄13)年、2月松前藩は全島地図「松前郷帳」(小川養甫作成)を幕府に提出する。同地図に「ウイベツ」の地名が初めて載る。
1719(享保4)年、飛騨屋久兵衛が、石狩、天塩国の蝦夷松を伐採し、用材を本州に出す。
1750(寛延3)年、村山伝兵衛、ソウヤ場所を請負う。
1756(宝暦6)年、浜屋与三右衛門ら3人が、ソウヤ場所を請負う。
1775(安永4)年、ソウヤ場所を飛騨屋久兵衛が請負う(村山伝兵衛が8年間下請けする)
1782(天明2)年、飛騨屋久兵衛が宗谷斜里場所を請け負う。
1786(天明6)年、場所請負制が始まり、紀伊国商人の栖原屋角兵衛を請負人とする。
1790(寛政2)年、ソウヤ場所からカラフト場所独立する。
1798(寛政10)年、松平忠明が東西蝦夷地を巡視し、天塩を経て宗谷に達する。
1801(享和元)年、4月松平忠明が再び天塩を経て宗谷に達する。
1806(文化3)年、 遠山金四郎、村垣左太夫樺太を巡視して宗谷に滞在。「遠山村垣西蝦夷日記」を著し、5月7日フレベツ(現・初山別村豊岬)より陸路で・・・・ヲタコシベツ、ウエベツ川幅30間余蝦夷家2軒有之候、ウツ川、ヲホケマウシ、キヒリレタンナイの地名記す。
1804(文化元)〜1818(文政元)年、この頃間宮林蔵この沿岸を測量(伊能忠敬の全島沿岸実測図として完成)
1807(文化4)年、西蝦夷地が松前藩領から天領(幕府直轄領)になる。幕吏近藤重蔵ら、宗谷を巡視。津軽藩宗谷警備に付くが、多くの藩兵が水腫病で亡くなる。
1808(文化5)年、間宮林蔵ら、樺太探検のため宗谷を出帆。
1821(文政4)年、幕府、蝦夷地を松前藩に返還する。松田伝十郎「北夷談」にテシオ出立してフウレベツへ着く。山の上の平地に家一軒建、番人二名、夷人の家も一軒有(現・遠別川河口付近)。
1840(天保11)年、マシケ以北の出稼許可され、江差・福山・南部・津軽地方の漁民この地方に姿を見せはじめる。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が天塩に訪れる。「再航蝦夷日誌」に同年5月15日フウレベツから馬にて出立、ヲタコンベツには夷人小屋1軒有、ウエベツへ2里3丁、ウエベツよりキヒトタンナイまで2里10丁さらにテシホへと踏査した。
1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。天塩が秋田藩領になる。
1856(安政3)年、松浦武四郎が天塩内陸踏査のため再び訪れる。
1857(安政4)年、6月6日松浦武四郎が天塩川河口からさかのぼり、源流近くまでを探検する。
1859(安政6)年、天塩、苫前、留萠、天売、焼尻が庄内藩領になる。
1869(明治2)年、8月天塩地方は水戸藩領となる。
1870(明治3)年、留萠郡は山口藩の支配となる。天塩郡など一帯の場所持だった栖原屋は権利を失うが出稼ぎという名目で事業は継続される。
1871(明治4)年、各藩の分轄統治が廃され、天塩地方は水戸藩支配から開拓使の管轄となる。12月栖原屋角兵衛は、天塩国一円、焼尻、天売地区の漁場持を開拓使より許可される。
1872(明治5)年、9月開拓使宗谷支庁がおかれ、天塩国、北見国の宗谷、枝幸、利尻、礼文がその管轄下となる。宗谷支庁の中主典佐藤正克天塩川を遡り、沿岸の地勢や現地人の事情を調査する。10月天塩所在の会所が駅逓扱所となる。
1873(明治6)年、2月開拓使宗谷支庁が留萠に移され留萠支庁となる。
1874(明治7)年、ライマン技師が天塩を出発し、馬にて遠別町を通過し、地質調査を行いながらフーレベツ(初山別村)に一泊し苫前に向かう。
1875(明治8)年、3月開拓使留萠支庁が廃され、開拓使札幌本庁の管轄下となる。出張所を置く。
1878(明治11)年、7月郡区町村編成法により、天塩郡の天塩・幌延・遠別・沙流の村名が創設される。
1879(明治12)年、7月留萠に留萠、増毛、苫前、天塩、中川、上川の郡役所を置く。
1880(明治13)年、天塩村に天塩、中川、上川三郡を管轄する戸長役場が設置された。
1882(明治15)年、4月天塩村に天塩・中川・上川三郡を管轄する戸長役場が設置された。
1886(明治19)年、4月天塩村の戸長役場が苫前に移される。天塩には派出所が置かれる。天塩地方は道庁札幌管内に属する。
1888(明治21)年、単独移住者として、富山県人の吉田五郎左衛門が遠別原野基線(現・幸和地区)に入植する。道庁技師内田瀞氏が天塩川流域を植民地として選定し、測量のため各地に入り調査する。
1896(明治29)年、4月手塩村に天塩郡、中川郡、上川郡の戸長役場を置く。10月恩田駅逓を市街地に設置する。取扱人は恩田章昌となる。
1897(明治30)年、4月水上嘉蔵を団体長として越前団体46戸が共栄地区に入植する。水野嘉六を団体長として愛知団体19戸が中央地区に入植する。尾張団体が啓明地区に、秋田県人の須藤善一郎が丸松に須藤農場を開設する。5月中村亀吉が久光にて水稲の試作をする。11月天塩村の戸長役場管轄から中川上川両郡を分離。郡役所廃止に伴い増毛支庁を設置する。苫前村から羽幌村が分離する。野村三四郎が燐寸の軸木工場を始める。この年を遠別町の開基とする。
1898(明治31)年、3月岩根水梓を団体長として千葉団体が歌越共成地区に入植する。4月桑原礼三郎を団体長として熊本団体が入植する。9月垣内重兵衛が本町最初の商店を開業する。郵便受取所が市街地2丁目92番地に置かれる。富山県人の泊勝太郎が移住する際に持参した神宮太麻古木に祀る(遠別神社の前身)。
1899(明治32)年、5月増毛支庁管内の天塩国上川郡を上川支庁に移管する。9月遠別郵便局が設置される。真宗説教所教師仲西裕諦が寺子屋授業を開始する(遠別小学校の前身)。 1900(明治33)年、4月歌越別簡易教育所(現・初山別村)開校する。5月第一簡易教育所(現・遠別小学校)開校する。9月第二簡易教育所(久光小学校)開校する。村医として松永某を招き診療所を開く。河村鉄蔵が初めて馬を導入する。天塩〜遠別間の道路工事着工する。
1901(明治34)年、5月基線24号にて南山仁太郎が水稲の試作をするも失敗する。3年後に上川から種子を取り寄せ収穫を見る。稲作起源となる。12月天塩〜名寄間、天塩〜苫前間の仮定県道の全線開通する。
1903(明治36)年、4月遠別村分立し、遠別戸長役場を設置する。5月戸長役場焼失する。
1907(明治40)年、幸和、北浜地区に花田牧場設置する。 1909(明治42)年、11月遠別〜雄信内間の道路が開通する。
1910(明治43)年、11月山形団体が久光に入植する。泉源〜清川間の山道が開鑿される。
1913(大正2)年、12月清川〜雄信内間の道路開通する。
1914(大正3)年、9月留萌支庁の管下に入る。
1915(大正4)年、7月大阪久原鉱業株式会社がモオタコシュベツ(現・旭)で油田試掘をする。
1919(大正8)年、4月遠別と幌延に二級町村制施行。歌越別郵便局が開設される。12月天塩〜遠別間の道路開通する。
1923(大正12)年、国鉄羽幌線建設工事着工。
1924(大正13)年、遠別〜天塩間の沿岸バス開通する。
1925(大正14)年、3月役場庁舎が火事で焼失する。
1927(昭和2)年、4月羽幌〜遠別間にバス開通する。
1931(昭和6)年、9月遠別電気株式会社創立し、遠別市街に電気が点く(火力発電)。
1932(昭和7)年、12月幌延〜遠別間に鉄道敷設起工式挙行。
1934(昭和9)年、9月遠別郵便局で電話業務開始される。
1936(昭和11)年、10月天塩線(羽幌線)の天塩〜遠別駅間が延伸開業し、更岸駅・丸松駅・遠別駅を新設する。
1938(昭和13)年、10月遠別神社社殿竣工し遷座する。
1939(昭和14)年、8月字名改正する。
1941(昭和16)年、5月帝国石油(株)が丸松にて石油ボーリングを行うも戦時下の為中止する。8月天塩海岸に津波襲来、番屋十数戸流出、8人死亡する。12月国有鉄道羽幌線羽幌〜築別間延伸開業する。東留萠信号場を廃止。12月羽幌炭礦鉄道線開業する。
1948(昭和23)年、4月富士見部落電化となる。5月幸和部落電化となる。12月旭にて浅野春一氏が帝石の委託業務により天然ガス利用で自家製塩を作り、1953(昭和28)年まで行う。
1949(昭和24)年、4月町制を施行する。7月開拓記念碑を役場前に建立する。
1953(昭和28)年、10月遠別漁港が着工される。
1954(昭和29)年、9月歌越にて帝国石油(株)が石油試掘するも失敗する。
1955(昭和30)年、11月遠羽線(後の羽幌線)工事遠別側から着工する。
1958(昭和33)年、10月初山別〜遠別間を延伸開業し、天塩線と遠羽線を羽幌線に編入し、羽幌線が全通する。豊岬駅・天塩大沢駅・共成駅・歌越駅・天塩金浦駅を新設する。
1960(昭和35)年、7月雪印乳業丸松集乳工場が落成する。9月本町と歌越の集乳所を雪印乳業丸松集乳工場に集約する。
1964(昭和39)年、1月丸松第一・第二部落が合併する。8月旭地区に天然ガス1号井戸試掘する(252m)。9月中央川北と丸松地区に電気が点く。
1965(昭和40)年、8月旭地区で天然ガス2号井戸試掘する(278m)。11月北里、浜啓明、大成地区に電気が点く。
1968(昭和43)年、9月開道100年記念事業として富士見ヶ丘公園を造成する。10月正修部落が解散する。11月ホクレン丸松クーラーステーションが開設される。
1973(昭和48)年、8月啓明地区で石油ボーリング実施される。
1974(昭和49)年、9月産業開発道路名寄・遠別線を遠別側(正修)から着工する。
1979(昭和54)年、9月本町坂川照雄氏所有地より擦文土器が発見される。10月幸和スキー場山小屋が完成する。
1984(昭和59)年、6月国鉄羽幌線廃止承認される。9月遠別町郷土資料館オープンする(旧丸松小学校)。
1987(昭和62)年、3月30日羽幌線の廃線に伴い廃止となる。沿岸バスにバス転換。8月役場庁舎新築の為仮庁舎に移転する。11月旧国鉄駅跡にバス待合所設置する。
1988(昭和63)年、1月幸和スキー場にリフト、夜間照明、駐車場等を設置しオープンする。11月役場新庁舎落成式を挙行。
1992(平成4)年、8月レストラン・物産館「とんがりかん」オープンする。
1993(平成5)年、4月道の駅富士見が開設される。7月パークゴルフ場オープンする。8月擦文文化期と見られる先住民族のカマド付き住居跡が発見される。
1995(平成7)年、5月遠別川河川公園オープンする。12月「樹遠太鼓」保存会が発足する。
1996(平成8)年、8月生涯学習センター竣工。10月生涯学習センター「マナビィ・21」オープンする。
1997(平成9)年、10月遠別町開基100年記念式典挙行。
遠別町史・遠別町史第二巻参考

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