北海道応援サイト!がんばれ北海道!!

ゴメ島

住所 枝幸郡枝幸町音標ゴメ島

枝幸町観光協会

枝幸(えさし)町の由来は、アイヌ語の「エサウシ」(岬)から。2006(平成18)年3月20日旧枝幸町と旧歌登町が合併し、現在の枝幸町となった。
音標の由来は、アイヌ語の「オチウシベ」(川口に立岩のある川)から転訛したもの。
ゴメの由来は、北海道では一般にカモメ類を称してゴメと云うことからだろうか。名のとおりウミネコやオオセグロカモメの繁殖地となっている。明治期の地図には「ポンモシリ」(小さい島)、松浦武四郎の地図には「チユシキシ」とある。島を神聖視していたようだが意味はわからない。
国道238号線からも見ることが出来る。特に駐車帯などはないので注意してほしい。

島は無人島で、音標(おとしべ)の海岸から約500mの沖合に位置し、オホーツク海の音標港沖合約700mに浮かぶ周囲約1km。安山岩で形成され、島の標高(海抜)8〜9m程度。島の沿岸である北西から北東にかけては風や波の浸食で複雑に湾入し、北東側沿岸では柱状節理が多く見られる。南西側の沿岸は切り立った崖になっている小さな島だ。
海烏繁殖地として1971(昭和46)年3月に町指定文化財の天然記念物となっている。また音標ゴメ島遺跡が存在する。遺跡は島の平坦面のほぼ全域にわたり、2008(平成20)年には「H-05-70 音標ゴメ島遺跡」の名称で埋蔵文化財包蔵地として登録された。遺跡は続縄文時代オホーツク文化期にかけての遺跡である。
遺跡の調査期間は、2007(平成19)年8月5日〜8月11日まで。この時の調査で、数年前まで島に繁茂していた植物類はほぼ無くなっており、土壌が剥き出しの状態になっているという。
写真は国道側から撮ったもの。

写真は音標岬の方向から撮ったものです。

音標地区には、他にも縄文時代から擦文時代にかけての遺跡が点在している。
音標遺跡は、音標川河口の右岸段丘上に位置し、音標小学校裏手から音標神社にかけて擦文時代の竪穴群が残されている。音標岬遺跡は、音標川河口の南東約700mほど。音標岬の基部段丘上に位置し、1962(昭和37)年10月に試掘調査が行われ、オホーツク式土器が出土している。トイナイ遺跡は、ゴメ島遺跡の対岸に位置する。他にもトイナイ川と支流ゴメ川との合流点付近では、1981(昭和56)年に北海道教育委員会による調査で4軒の竪穴式住居跡が確認された。

音標地区は、宗谷地方の最南東端。オホーツク海沿岸にあり、北はレブンノツ岬、南はトイナイ川に挟まれた海岸段丘。古くからヲチシベの名がみえ、ソウヤ場所とモンベツ場所との境界は、ヲチシベの南にあったトンナイウシ(トイナイ川付近で、現在の北幌内と音標の境界付近の川)だった。1790(寛政2)年頃にはヲチシベ・ヲチシベツの名前が見られる。ヲチシベ川やトイナイ川、ヲチシベモシリ(ゴメ島)などの記録も現れてくる。天保郷帳(江戸幕府の命で天保年間に作成されたもので、北は松前から南は琉球にいたる郡別の村々の生産高が記載されている。原本は「重要文化財」に指定されている)には、「ソウヤ持場之内、ヲチシベ」とある。1846(弘化3)年松浦武四郎が樺太探険の帰途、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。このときの「再航蝦夷日誌」には「ヲチシベ、川有。巾六間。夷人小屋有・・・・トエナイ、川巾六間・・・・昔は此処ニモ鮭、鱒等の漁事有シカ、川向ニ其小屋架ノ跡有。越テ、トンナイウシ、小休所有。此処ソウヤ、モンベツノ境目ニシ而標柱ヲ立テタリ」と記述がある。安政年間には渡し守の家が1軒あった。当時の当地は、漁場としては重要な場所ではなかったが、モンベツ場所との境目ということで知られていた。
 1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道とし、11国86郡を定め、北見国枝幸郡となる。9月北見国を分領(宗谷・枝幸・礼文は金沢藩領) 10月場所請負人の名目を廃し、漁場持と改める。1870(明治3)年、枝幸郡は金沢藩から開拓使直轄となる。1875(明治8)年には、ヲレタル、ヲチキリ、トヨマキ、ウエントマリ、ノツカの地名が巡回誌という本に載っていた。1878(明治11)年、枝幸郡に枝幸・頓別・歌登・礼文の4村を設置する。1896(明治29)年トンナイウシに漁舎の他2戸有りとありこれが初めての定住者となる。1900(明治33)年には加賀出身の僧侶亀井千代丸が七名の児童を集め私塾を開く(後に公立学校となる)。1901(明治34)年オチシュベツ原野(現・音標)道路開鑿する。この頃から定住者が増えて行く。1906(明治39)年上音標に山田権太郎・山田鍋吉らが入植する。1909(明治42)年2級町村制施行により頓別、歌登、礼文、枝幸が枝幸村に併合。
 1916(大正5)年には5戸、22人の農業従事者が入植する。1918(大正7)年には音標郵便局開局する。1921(大正10)年には木工場が営業開始する。1923(大正12)年、4月一級町村制施行する。
  1944(昭和19)年11月興浜線全レールが撤去される。1945(昭和20)年12月興浜北線復元開通する。1947(昭和22)年10月町制施行し、町内の3大字を再編する。 枝幸村は、本町、栄町、幸町、梅ヶ枝町、目梨泊、問牧、ウスタイベ、ウエンナイ、幌内保。礼文村は、乙忠部、風烈布、音標、上音標。歌登村は、ケモマナイ、下幌別、岡島、徳志別、山臼となる。1952(昭和27)年雄武と共同で幌内ダムを建設する。1954(昭和29)年幌内ダムの幌内川発電所完成により未点灯地域解消される。1963(昭和38)年音標漁港竣工する。1966(昭和41)年興浜線(後の興浜南線の音標〜雄武間起工する。1977(昭和52)年雄武〜北見枝幸間の工事は中止となる。
Copyright (C) がんばれ北海道 All Rights Reserved.
inserted by FC2 system