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宗谷 旧藩士の墓

住所 稚内市宗谷村宗谷(宗谷公園)

稚内観光協会

稚内の由来は、アイヌ語のヤム・ワッカ・ナイ、「冷たい水の流れる沢」という意味である。
宗谷の由来は、アイヌ語の「シヨウヤ」(海獣の止まる磯の丘)この磯の丘にアイヌコタンがあったことから地名にした。他にも、宗谷岬の北にある弁天島は「ソーヤシュマ」(岩礁の海岸にある島)と呼ばれていた。また、「ソ(ショ)・ヤ」(岩礁の多い海岸)と呼び、これらが「ソーヤ」の由来とされている。現在の宗谷は「ウエン・トマリ」(悪い・入り江)というところで、うっかり舟を入れると岩礁で舟を壊すところだった。
国道238号線宗谷岬から稚内市街方向へ約7.1kmを左折し、約300mほど左手。

宗谷の歴史は古く、1582(天正10)年松前藩領となり、1685(貞享2)年松前藩が宗谷場所を開設している。
宗谷村のはじまりは、1879(明治12)年7月1日に戸長役場が設置されたことによる。当時、宗谷は宗谷村・泊内村・猿払村・稚内村・声問村・抜海村の中心地で、戸長役場と共に宗谷・枝幸・利尻・礼文郡の宗谷外三郡役所も置かれていた。
宗谷は、北方の要衝として栄え、重要視されてきた地域であったが、遠浅で岩礁の多い宗谷海岸が敬遠されたことと、当時唯一の交通機関であった船舶の大型化・蒸気船化などもあり、対岸の稚内村に賑わいが移りつつあった。
1888(明治21)年9月に戸長役場・郡役所・警察署・郵便局が稚内に移り、1955(昭和30)年2月1日宗谷村を編入し、今日に至っている。


1806(文化3)年〜1807(文化7)年にかけて、ロシア通商使節のニコライ・レザノフの部下・フヴォストフは独断で水兵を率い、ロシア皇帝の許しなく樺太や北海道の漁村で略奪を行ったり、番屋が襲われて放火されたりという事件が頻発していた。
そのため幕府は襲撃に備えるよう、1807(文化4)年宗谷郡域は天領とされ、江戸幕府は仙台・会津・南部・秋田・庄内の各藩に蝦夷地警備と出兵を命じた。
会津藩の北方警備は、1807(文化4)年〜1809(文化6)年にかけて、総勢1558名が宗谷岬や利尻島、樺太に駐留し、会津藩の樺太出兵とも呼ばれる。
1807(文化4)年津軽藩は宗谷・斜里・樺太の守備を命じられるが交替出兵となった。
1809(文化6)年以降は、津軽藩がソウヤに出張陣屋を築き警備に当たったが、宗谷の気象条件が厳しく、冬期間の寒気により相当数の死者を出しており、宗谷の越年を増毛に変更し勤番陣屋を築造している。
1821(文政4)年宗谷場所は松前藩領になるが、1855(安政2)年宗谷場所は再び天領となり、秋田藩が出張陣屋を築き宗谷警備を行う。
この北方警備は、ただ単に寒さに強いはずという理由で、本州最北端の津軽藩士が宗谷に派遣されたが、厳冬のため多数の死者を出した。
寒さと野菜不足により、一冬で50名が水腫病などで死亡したと記録されている。
この時、犠牲になった藩士の墓を1902(明治35)年当時は近くの海岸に点在していた墓を一か所(護国寺の隣接地)に祭祀する。1907(明治40)年宗谷護国寺がウエントマリ川西岸に移築される。宗谷公園内宗谷護国寺跡横に13基あり1928(昭和3)年6月宗谷旧藩士の墓を山上に移転する。1956(昭和31)年11月宗谷旧藩士の墓を山上より旧護国寺跡地に移転する。
 墓は、分かっているだけで会津藩士は3名、秋田藩士2名、残りは幕府関係者のものとみられており、判明しているのは秋田藩士・後藤伊左衛門、吉成彦内、同心・大塚良輔の子供2人、平沢勝次郎の妻、墓の後ろに記されている文字も古く、薄くなったり解読するのが容易ではなくなっている。もうひとつ文字の刻まれていないものもあるが、これは何らかの理由で未工になったものと思われる。
秋田藩士・後藤伊左衛門の墓は3面に渡り、漢文がびっしりと書かれた碑文があり、中でも一番立派な墓である。
他にも、幕吏胴金助光忠の墓碑もあり、幕吏にも犠牲者があったことを示すものだが、幕吏近藤重蔵らと共に宗谷を巡視した一人である。碑文の欠損が激しく明確にわかるものはないが、樺太に渡り病魔に冒され宗谷に戻って亡くなったようである。

ちなみに、北海道の鍛造ストーブ第一号が、景蔵という鍛冶ができるアイヌ人によって大塚良輔の役宅に据付けられたストーブだそうだ。(鋳造ストーブは函館)この帰属アイヌである景蔵は、松前藩時代、秋田藩時代と同藩の鉄砲の修理などを請負っており、他なんでもできる手先の器用な人だった。この景蔵にクワヘヒル(ストーブ)を教えたのが梨本弥五郎で、箱館にいた時入港していたイギリス船を奉行雇の蘭学者武田斐三郎と共に訪れ、クワへヒルを見て、写生図を取り設計したもので、新任地の宗谷に着任早々、景蔵にストーブを製造させた。かなり大掛かりな作りで、弥五郎が模型を作り、鍛造し作り上げた。そして出来たストーブを秋田藩士同心・大塚良輔の役宅へ備え付けた(ここで生まれた子供は亡くなっている)。これが蝦夷地では最初のストーブとなったのである。
その後も、弥五郎が十基を宗谷で作ることを決め、奉行にこの旨を願い出た。そして翌年には網走・斜里の陣屋に宗谷からストーブが2器到着したと記録がある。

旧藩士の墓
 ここに安置されている墓は、ロシアの南下
政策に対する警備に従事するため、文化四年
に津軽藩士二百三十名、文化五年に会津藩士
五百七十七名、さらには安政二年〜慶応二年
まで秋田藩の宗谷に派遣された藩士のもので
ある。
 現在墓碑は、宗谷護国寺過去帳により判明
している者を含め、合計一三基であるが、明
治四十四年に此の海岸に点在していたものを
一ヶ所に集め、その後昭和三年には宗谷青年
団によって現在地に移遷された。
 以来、遠く故郷を離れた此の地で淋しく散
っていった旧藩士の冥福を心から祈りつつ、
毎年九月十六日には盛大な慰霊祭が現在に引
き継がれ、催されている。
稚内市教育委員会

以来、地元では毎年慰霊祭をとり行い、この地で果てた旧藩士の冥福を祈っている。
そばには、地元の俳人「岡崎古艸」(こそう)の句『 たんぼぽや会津藩士の墓はここ 』の句碑がある。


宗谷地区は、1879(明治12)年和人41名にて開村したのが始まりである。このとき宗谷郡役所と宗谷警察署も設けられた。この頃にはすでに官舎が建ち、商店などもできてきていた。この頃の人口はアイヌも含め、総戸数52戸、269人だった。和人だけだと戸数7戸、41名だった。
1884(明治17)年村岡竹蔵が入植し、1887(明治20)年に宗谷駅逓所が置かれた。取扱人は井上栄七で、官馬5頭、私有馬十数頭を備えていた。井上氏は郵便継立も経営し、1893(明治26)年には宗谷村の総代に抜擢され、1895(明治28)年に学務委員を拝命する。この年山内永吉、黒滝弟次郎、山田半七、松沢友治らが移住してくる。
しかし、この頃の宗谷港は、英国軍艦・樺太からのマス積船などが座礁、破船するなど遠浅で岩礁の多い危険と隣り合わせの港湾であった。このため砂底で破船の危険性が少ないコエトイ沖(現・声問地区)やヤムワッカナイ(現・港地区)の沖合を停泊地とする船が多かった。陸路として通過点だった稚内地区は、海上面の比較的安全な地域として重視されることになる。1888(明治21)年には、郡役所、戸長役場、警察署、郵便局などその他諸官公庁が稚内に移転する。それに前後してヤムワッカナイ(稚内)地区に移住者が増えた。1892(明治25)年には、稚内簡易小学校宗谷分校が開校する。1900(明治33)年に宗谷尋常小学校となる。1900(明治33)年7月宗谷郡稚内村、抜海村、声問村の区域を稚内村と称し1級町村制施行。宗谷、泊内、猿払三村戸長役場を宗谷コタンバに設置する。1902(明治35)年散在していた宗谷旧藩士の墓を一か所(護国寺の隣接地)に祭祀する。その後1928(昭和3)年6月宗谷旧藩士の墓を山上に移転する。1956(昭和31)年11月宗谷旧藩士の墓を山上より旧護国寺跡地に移転する。1903(明治36)年宗谷郵便局が設置され、郵便と電信を扱う。宗谷村に村医である浜田医師が務める。1907(明治40)年宗谷護国寺がウエントマリ川西岸に移築される。宗谷漁業組合が設置され、ホタテ・ナマコ・ホッキなどの漁業権を設定しながら操業した。1909(明治42)年4月宗谷村は二級町村制を施行し、初代村長は森井清氏が就任した。
 1924(大正13)年猿払村が宗谷村から分村し村制施行する。翌年の国税調査では総戸数544戸、人口は2903人だった。
 1933(昭和8)年には宗谷役場が改修し完成する。1941(昭和16)年9月宗谷村各部落名を改称し、アイヌ語地名を改めた。1948(昭和23)年に宗谷地区の一部に電灯が灯る。1955(昭和30)年2月稚内市が宗谷村を編入する。1956(昭和31)年11月宗谷旧藩士の墓を山上より旧護国寺跡地に移転する。 1970(昭和45)年宗谷厳島神社が稚内市の指定文化財となる。この頃から東浦漁民が主体となり、ホタテの養殖を始める。1984(昭和59)年宗谷300年祭・宗谷厳島神社200年祭を挙行。
   1994(平成6)年復元したサンタン船を渡樺の地に浮かべ第一回林蔵まつりを第二清川にて開催する。
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