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ハルニレの木

住所 天塩郡豊富町豊富温泉

豊富町観光協会

天塩の由来は天塩川、アイヌ語の「テシ・オ」「テシュオ」(梁(やな)・ある)から。
豊富の由来は、初めは川の名称をとって、エベコロベツ(現・下エベコロベツ川流域)又は旧村名である沙流と二つの地名をよんでいたが、1908(明治41)年、エコロベツ住民会で村名を豊富と決定する。エベコロベツはアイヌ語で(魚(食物)を持つ川・なんでも豊富にある川(場所))という意味で「豊富」と称するようになった。
豊富市街地の国道40号線道道84号豊富浜頓別線の大通り10丁目交差点を浜頓別方面にから約6kmほど交差点を右折し約200mほど左手。

豊富温泉は、1926(大正15)年、石油の試掘を行っていた時に、地下約800〜900mの地点から「天然ガス」と「温泉」が噴出したのが始まり。
それ以降、日本最北の温泉郷として親しまれたが、1978(昭和53)年、稚内温泉が開業し最北ではなくなった。しかし今も年間約25万人が訪れる温泉街として親しまれている。
豊富温泉街にある旧豊富温泉小学校、2008(平成20)年閉校したグランドにあるハルニレの木。
ハルニレ ニレ科ニレ属和名:春楡、別名エルム、アイヌ名チキサニ
樹齢推定 300年、標高18m、胸高直径3.95m
隣にあるオンコと桜の一体化した木は撮るのを忘れていました。またいつか行って写真に収めてきます。


この辺りの開拓は、1902(明治35)年奈良県人で天塩在住の嘉納久三郎が豊富において農場を経営する計画が上がり、許可を得て1906(明治39)年の秋にエベコロベツ川を遡り、東豊富東一線の川辺に掘立小屋を建て、代理人を仮住まいさせたのが始まりである。
1907(明治40)年には、寺沢豊、菅原藤五郎、小林権蔵、下山徳一らが入植し開拓する。1909(明治42)年には農場主の移住し自ら経営をした。
入植当初は、天塩村戸長役場の管轄下で、戸籍事務などの一切は1泊も2泊もかかって通った。1909(明治42)年4月に幌延村戸長役場が設置され、不便だったのも解消された。学校も豊富市街にできたが、約2里(約8km弱)の遠距離だったこともあり通学は容易ではなく欠席が目立ったという。
当時の入植者の生活は、エベコロベツ川の岸に拝み小屋(三角小屋)を建て草で屋根を葺き草で壁を作った小屋で、これを開墾の拠点とした。しかし赤ダモやナラの大木が鬱蒼と生え、熊笹が一面を覆う原生林の中で、歩くのも困難で周囲を見渡すこともできなかったという。しかしエベコロベツ川やその支流での川魚は豊富で、イトウ、マス、ウグイ、ヤマベなど沢山の魚が獲れた。これが開墾者の重要な食料となったのは言うまでもない。冬に備えてどの家庭でも塩蔵や焼いて保存して生活し海の魚を食べることはしばらくなかったという。

開墾は、まず熊笹を刈り、大木を伐り倒し焼き払うところから始まった。開墾された土地に島田鍬で条を作り、馬鈴薯、麦、豆類を条播し、菜種や燕麦は散播した。当時は土地肥沃にて気候も良かったから収量も多かった。1910(明治43)年頃からは天塩から雑穀の仲買人が来て取引するようになった。
豊富市街から下沼まで馬車で移動し、そこから長門船で天塩川を下り天塩の市街地で取引される状態は大正の初期まで続いたようである。
 道路は、入植当時全く無く、川辺に沿って入地したが、1907(明治40)年に幅3尺(約0.9m)ほどの刈り分け道路ができた。しかし竹の根が多く夜間の歩行は容易ではなく、足の傷が絶えなかった。当時物資の輸送は背負って行われたようだ。1910(明治43)年には現在の道道84号豊富浜頓別線の前身となる道路が出来たが、これには近隣住民の大変な苦労があった。

終戦の前後、天然ガスを使った製塩工場、煉瓦工場、硝子工場、製飴工場、魚粕乾燥工場など建設され、一時期とはいえ工業が盛んだった時期もあったが、ガス発電所が建設されガスの使用料金が高値となり、採算が取れなくなりこれらの工場は次々と閉鎖していった。

温泉地区は、1927(昭和2)年ごろから菊池直次郎、松尾幸太郎、川島末吉が入地した。その後道北地域唯一の温泉で、天然ガスの暖房が人気を呼び、入浴客、湯治客が増え、入地者も増えた。この当時の旅館は松尾、松井、川島、森、渋谷、井上、吉田屋、岩手屋だった。飲食店は3軒、商店は5軒あった。
しかし、温泉地区ではガスの不始末から幾度となく火事が起こり旅館の消失などが起きた。1935(昭和10)年の3月に起きた火災後には各個のガス井は埋められ、温泉から一本のガスとして供給されるようになり火災は減ったが、1943(昭和18)年9月火災が発生し、浴場、湯元館、温泉ホテル、宝寿館などが焼失した。1947(昭和22)年12月には、温泉会社住宅から出火し、旅館3軒と温泉会社社員合宿所が全焼した。1950(昭和25)年3月には永井旅館から出火し、旅館と飲食店などを焼失している。その後、町が1958(昭和33)年に温泉の一切を買収し、町営元湯館の経営をする。


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