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インディギルカ号遭難者慰霊碑

住所 宗谷郡猿払村浜鬼志別214-7

猿払村観光協会

宗谷の由来は、アイヌ語の「シヨウヤ」(海獣の止まる磯の丘)この磯の丘にアイヌコタンがあったことから地名にした。他にも、宗谷岬の北にある弁天島は「ソーヤシュマ」(岩礁の海岸にある島)と呼ばれていた。また、「ソ(ショ)・ヤ」(岩礁の多い海岸)と呼び、これらが「ソーヤ」の由来とされている。現在の宗谷は「ウエン・トマリ」(悪い・入り江)というところで、うっかり舟を入れると岩礁で舟を壊すところだった。
猿払の由来は、アイヌ語の「サロプト」(葦(芦)川口)「サラブツ」(葦(芦)原の河口)から転化した。
浜鬼志別の由来は、「オ・ニ・ウシ・ペツ」(川尻に・木が・生えている・川)、または「オ・ヌ・ウシ・ベツ」(川尻に・豊漁な川)。1924(大正13)年猿払村が宗谷村から分村し村制施行する。2001(平成13)年猿払村全域の字名を廃止し、新たな町名へ変更。
宗谷岬から国道238号線を浜頓別方向へ約31.0kmほど。浜頓別町市街地から国道238号線を宗谷岬方向へ約30.0kmほど。すぐそばに道の駅 さるふつ公園がある。

1939(昭和14)年12月12日の未明、ソ連船「インディギルカ号」(4500t)が浜鬼志別沖合い1km付近で座礁する。1125人を乗せた船は寒さで凄惨を極め救助数は395人。死体収容数は180体となる。イ号の生存者28名。遺骨394個鬼志別駅より小樽へ護送する。船名はシベリア地方のインディギルカ川に由来。
翌日には、稚斗連絡船樺太丸などが水難救済。地元の青年団など、500人体制での救助活動を実施、生存者429名、犠牲者700名以上、犠牲者の中で漂着した遺体が400余と未曾有の海難事故となった。旭川第七師団が軍用毛布100枚、他にも慰問品が届く。
この船は、シベリアのマガダンからウラジオストクを目指している途中、暴風雨に巻き込まれ、視界不良と宗谷岬の位置を見誤ったことから漂流し、浅瀬に座礁した。
事件を知った、当時のソ連政府は日本政府に対して、船体の所有権を放棄。遺体の収容は不要という異例とも言える連絡を行っているのである。その後、救助された乗組員と乗客ら402名は樺太丸にて小樽に向い、当月中に小樽港からウラジオストクへ向け帰国していった。その後生存者28人、遺骨394個を鬼志別駅より小樽へ護送する。
1940(昭和15)年9月イ号の船体処理について審議に入る。
1941(昭和16)年5月イ号の解体・浮揚工事、三菱会社により着手する。
1956(昭和31)年12月ソ連船「インディギルカ号」遭難者慰霊祭挙行。
1971(昭和46)年7月イ号遭難者慰霊碑の建設工事開始。9月札幌ソ連領事館よりソ連国民の浄財が届く。10月インディギルカ号遭難者慰霊碑が完成し除幕式挙行。人々の冥福を祈ると共に、海難防止の願いを込めて建立された。台座の石はソ連から寄贈された花崗岩である。
1986(昭和61)年7月ソ連船インディギルカ号遭難時の生存者ヴァラキン氏が慰霊祭に参列する。
1989(平成元)年7月インディギルカ号遭難50周年記念となり慰霊祭が挙行。
碑は、台座の石は船を、座上の群像は国際親善と海難防止の願いを込めて手を取り合う3人の人。真ん中の球体は人々の強い絆を表している。

碑文
昭和14年12月12日 ソ連船「インディギルカ」号とそれ
に乗合わせていた人々に最後の時がやってきました
 「イ」号は 秋の漁場を切上げて帰る漁夫及びその家族106
4名を乗せて カムチャッカからウラジオストークに向って航海
中 折からの暴風雪に押し流され 乗組員たちの必死の努力も空
しく 進路を失い 12月12日未明浜鬼志別沖1500メート
ルのトド岩に座礁転覆 700余名の犠牲者を出す海難史上稀有
の惨事となった
 身をさくような厳寒の海上で激浪と斗い 肉身の名を叫び続け
ながら力尽きて死んで行った人々のことと その救助に全力を注
いだ先人たちの美しい心情は 人類のある限り忘れてはならない
 この碑は 北海道はもとより国内の数多くの人々 並びにソ連
側の海員 漁夫の善意に基く浄財によって 「イ」号と運命を共
にした人々の冥福を祈るとともに 国際親善ならびに海難防止の
願いをこめて建立されたものであり 台座の石はソビエト社会主
義共和国連邦から寄贈された花崗岩である

浜鬼志別地区は、当時エサンベ(浜鬼志別の東部海岸沿い)と呼ばれ、現在の浜鬼志別と芦野を含んだ地区だった。恵山辺とも書いた。アイヌ語由来で「エサンベ」(岬の意)である。
1882(明治15)年に石川県人の岩本甚右衛門がホタテ漁を開始したのが始まりである。1902(明治35)年に福井県人たちが現在の浜鬼志別地区に入植する。1905(明治38)年には田中新平が漁場を開設している。1908(明治41)年には浜鬼志別神社拝殿が新築落成する。この頃から市街地で飲食店や商店が並び盛況だったようで、1911(明治44)年には多賀牧場が開かれ乳牛飼育が始まっていくのである。年代は不明であるが現在の村営牧場辺りには当時競馬場があり年に一回草競馬が開催されていたようである。
1913(大正2)年には、劇場「ネズミ座」が開設される。1914(大正3)年には民間の三井医院が開業する。1918(大正7)年に曹洞宗説教所(現・沸心寺 宗谷郡猿払村浜鬼志別1663)、浄土宗説教所(現・大浄寺 宗谷郡猿払村字浜鬼志別656)、真宗大谷派説教所などの開設。鍛冶屋が3軒もあり当時は大きな集落であったようである。
しかし、1914(大正3)年には山火事が発生し、市街地まで延焼し大半の家屋が焼失する。1917(大正6)年にも山火事が発生し3日間も燃え続けた。
1933(昭和8)年には浜鬼志別〜鬼志別間の電話回線が開通する。1936(昭和11)年には浜鬼志別漁港3年計画改修工事に着手する。
1951(昭和26)年村営牧場が開設する。1954(昭和29)年頃からニシンやホタテがほとんど獲れなくなり、漁業で栄えたこの地域も一転して活気が無くなった。さらに石炭産業も衰退し猿払村は極貧の状況となったがサンマ漁や毛ガニ漁などでしのいでいた。昭和40年代後半には、ホタテ貝の増養殖・放流事業などに取り組み、村に活気が戻る。
1966(昭和41)年には簡易水道の給水開始する。1971(昭和46)年7月イ号遭難者慰霊碑の建設工事開始。9月札幌ソ連領事館よりソ連国民の浄財が届く。10月インディギルカ号遭難者慰霊碑が完成し除幕式挙行。人々の冥福を祈ると共に、海難防止の願いを込めて建立された。台座の石はソ連から寄贈された花崗岩である。
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