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北見神威岬公園

住所 枝幸郡枝幸町目梨泊
入場料無料・駐車場無料

枝幸町観光協会

枝幸(えさし)町の由来は、アイヌ語の「エサウシ」(岬)から。2006(平成18)年3月20日旧枝幸町と旧歌登町が合併し、現在の枝幸町となった。
目梨泊の由来は、アイヌ語の「メナシ・トマリ」(東風の・泊地、入り江」の意。目梨泊港の東岸壁の一部になっている目梨泊崎のことだろう。
神威岬の由来は、「カムイ」(神、または神のような崇高な存在)、の意である。積丹半島にも同じ名の神威岬があり、区別するため旧国名である「北見」を冠した。
国道238号線沿いにあり、浜頓別町市街地の国道275号線との交差点から枝幸町方向に約15.2km。枝幸町北浜町の国道238号線と道道1069号ウエンナイ幌内保線との交差点から浜頓別町方向に約12.7km。

北見神威岬は、枝幸郡浜頓別町斜内と枝幸町目梨泊との境界線上に位置するオホーツク海に突き出た岬で、北オホーツク道立自然公園内にあり、アイヌ語で「ピリカノカ」(美しい形)の意。2010(平成22)年に国の名勝に指定された。
岬の断崖の中腹には縞模様の北見神威岬灯台(構造は塔形・コンクリート造・白地に黒横帯2本塗、光達距離19.0海里、灯塔高は18.0m、標高は49m、1962(昭和37)年12月建造された)がある。
この公園の敷地内には、トイレ、ベンチ、あずま屋があり、トイレには張り紙が貼ってあり「トイレで魚を捌くのは禁止」にビックリした。青い海がなんとも美しくて魅入ってしまうほどだった。
公園からは岬南側の全容が見渡せ、冬期には流氷が接岸する。周辺一体は国有林で、亜高山帯から高山帯の植生で数十種が群生している。1985年(昭和60年)までは斜内山道を国鉄興浜北線が通っていたが1985(昭和60)年7月全線を廃止し、宗谷バスに転換される。
1999(平成11)年に全長1205mの北オホーツクトンネルが岬の下を貫通した。2017(平成29)年頃から岬の先端を回る旧道は「枝幸町側落石の為」国道238号線との合流部で通行止めになっていて開通の見込みは立っていないとのこと。


公園からは海岸線へと降りることが出来る。青く澄んだ海は癒されるほどだ。


ウバトマナイチャシ
北海道教育委員会登録番号 H-05-41
名称 ウバトマナイチャシ
時代 アイヌ文化期
種別 チャシ跡

「チャシ」とは、アイヌ文化の人々が自然の地形をたくみに利用し
てつくった「砦」のことです。名前の「ウバトマナイ」とは、アイヌ
語で「浅い泊にある川」と解釈されていますが、詳しくは不明です。
神威岬を望むこのチャシでは、平成
9年から11年にかけて、北海道開拓
記念館(現・北海道博物館)が発掘
調査を行いました。
 発掘したところ、チャシを守るため
の「濠」が掘られ、その内側には土塁
や柵列が築かれていました。さらに
チャシの中から投石用の石がたくさん
見つかり、本格的な防御施設となって
いたことが分かりました。
 神威岬を望むこの地は、アイヌ文化
の人々にとって、交通や交易の大切な
拠点だったのです。


浜頓別町斜内にも同じ看板があり、旧道は通行止めとなっている。

名勝ピリカノカ 神威岬(カムイエトゥ)
指定年月日 平成二二年二月二二日
 ピリカノカとはアイヌ語で「美しい・形」を意味し、アイヌの物語や伝
承、祈りの場、言語に彩られた優秀な景勝地群を総称するものです。
 浜頓別町と枝幸町との境に位置する神威岬は、江戸時代から交通の難所
として知られてきました。また、幕末にこの地を旅した探検家の松浦武四
郎は、アイヌ民族が「神聖の宿る地」として岬を厚く敬っていたことを記
録しています。岬一帯にはアイヌ語で「神」を意味する「カムイ」を冠し
た地名が点在しており、この岬が古くから神聖な場所として大切にされて
きたことが分かります。この岬は開拓者たちにとっても信仰の対象となっ
ており、「龍神が住まう」との伝承が伝えられてきました。単調な海岸線を
突き破るような神威岬の姿は、見る者を圧するような迫力に満ちており、
私たちに畏敬の念をいだかせます。
 神威岬は「北海道の屋根」とも形容される日高山脈がオホーツク海へと
沈む最北端とされ、多様な高山植物が色とりどりの花を咲かせます。春の
新緑、初夏の花々、秋の紅葉に冬の流氷と、神威岬の見せる四季折々の表
情は私たちを楽しませ、浜頓別町を代表する歴史的な景観となっています。
平成二二年一一月 浜頓別町教育委員会

同文であるため割愛します。
平成二二年一〇月 枝幸町教育委員会

ちなみに、浜頓別の由来はアイヌ語「トー・ウン・ペッ」(湖沼に入る(行く)川)。「頓別川」からできた名前で、当時はトンベツと呼ばれ頓別川に河口に集落があった。1878(明治11)年には枝幸郡に枝幸、頓別、歌登、礼文の4ヶ村が設けら漢字が当てられる。1909(明治42)年に2級町村制施行により頓別、歌登、礼文、枝幸が枝幸村に併合となる。1916(大正5)年枝幸村(現・枝幸町)より分村し、2級町村制施行。頓別村となり役場を設置する。1918(大正7)年8月天北線の中頓別〜浜頓別間を延伸開業。下頓別駅・浜頓別駅を新設。駅名を「浜頓別」にした、以来この一帯を浜頓別と呼ぶようになる。1951(昭和26)年頓別村を浜頓別町と改め町制施行。
斜内の由来は、アイヌ語の「シヨナイ」(滝の川)・「ソーナイ」(岩礁を流れる川)から。古文献にはソウナイ、シヨナイ、シヲナイベなどとも書かれ、漢字でも庄内、塩内などと当て字を書かれた時代もあった。1878(明治11)年以降から斜内と表記されるようになったと思われる。

目梨泊地区は、町の最北端にあり、北は北見神威岬、斜内山を境に浜頓別町と接し、東にはオホーツク海に面している。江戸期にはベラエウシと呼ばれていた。  1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道とし、11国86郡を定め、北見国枝幸郡となる。9月北見国を分領(宗谷・枝幸・礼文は金沢藩領) 10月場所請負人の名目を廃し、漁場持と改める。1870(明治3)年、枝幸郡は金沢藩から開拓使直轄となる。1875(明治8)年には、ヲレタル、ヲチキリ、トヨマキ、ウエントマリ、ノツカの地名が巡回誌という本に載っていた。1878(明治11)年、枝幸郡に枝幸・頓別・歌登・礼文の4村を設置する。1887(明治20)年代頃には定住者が増えていく。1896(明治29)年にはオクンタンベツ(不明・小川とあるだけでどこかわからなかった)に20戸、メナシドマリに浄土寺説教所があり、戸数は10戸、越年者7戸。この頃区画割りの測量が行われる。目梨泊が発展するきっかけとなったのは、1898(明治31)年に発見されたパンケナイ(現・枝幸郡枝幸町歌登パンケナイ)、頓別川の支流ウソタンナイ川上流で新金田(砂金)発見。1899(明治32)年にはペイチャン(中頓別町ペーチャン川)で砂金の優秀鉱を発見しゴールドラッシュとなる。この目梨泊から山越えの道が開削され、当時は70戸もあり、郵便局、寺院、医院も置かれていた。1900(明治33)年には公立の目梨泊簡易教育所が開設されるが、砂金ブームが下火になると児童数は10余人まで減った。1909(明治42)年2級町村制施行により頓別、歌登、礼文、枝幸が枝幸村に併合。
 1916(大正5)年12月には暴風雨に襲われ当地でも大きな被害が出た。1917(大正6)年目梨泊小学校の校舎を新築する。1923(大正12)年4月一級町村制施行する。
 1936(昭和11)年興浜北線開通し、北見枝幸・問牧・目梨泊駅新設する。1944(昭和19)年11月興浜線全レールが撤去される。1945(昭和20)年12月興浜北線復元開通する。1947(昭和22)年10月町制施行し、町内の3大字を再編する。 枝幸村は、本町、栄町、幸町、梅ヶ枝町、目梨泊、問牧、ウスタイベ、ウエンナイ、幌内保。礼文村は、乙忠部、風烈布、音標、上音標。歌登村は、ケモマナイ、下幌別、岡島、徳志別、山臼となる。1954(昭和29)年幌内ダムの幌内川発電所完成により未点灯地域解消される。1962(昭和37)年北見神威岬に燈台点灯する。1964(昭和39)年には目梨泊漁港が着工される。1968(昭和43)年北オホーツク道立自然公園に神威岬及びウスタイベが指定される。ソセツ川と目梨泊市街地の間の段丘上には、1967(昭和42)年〜1973(昭和48)年まで北大北方文化研究施設の手により発掘跡調査が行われた。他にも国道238号線の改良工事に伴う事前調査として目梨泊遺跡の調査も行われた。
 2000(平成12)年目梨泊遺跡の出土品(出土品の総数は約23万点で、指定は319点)が国の重要文化財に指定される。2001(平成13)年目梨泊遺跡で過去最大の土器出土する。
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