カネクロサワ伝説住所 稚内市宗谷村富磯稚内観光協会 稚内の由来は、アイヌ語のヤム・ワッカ・ナイ、「冷たい水の流れる沢」という意味である。 宗谷の由来は、アイヌ語の「シヨウヤ」(海獣の止まる磯の丘)この磯の丘にアイヌコタンがあったことから地名にした。他にも、宗谷岬の北にある弁天島は「ソーヤシュマ」(岩礁の海岸にある島)と呼ばれていた。また、「ソ(ショ)・ヤ」(岩礁の多い海岸)と呼び、これらが「ソーヤ」の由来とされている。現在の宗谷は「ウエン・トマリ」(悪い・入り江)というところで、うっかり舟を入れると岩礁で舟を壊すところだった。 富磯の由来は、アイヌ語の「リヤ・コタン」(越年する・部落)宗谷付近のアイヌの人々が冬になるとここに集まって越冬したことから。利矢古丹と書いたが富磯になったいきさつは分からなかった。 国道238号線沿いにあり、富磯地区の市街地から宗谷方向に約1.0km右手にパーキングがある。宗谷岬から稚内市街方向へ国道238号線を約8.8kmほど左手。 稚内市内から国道238号線を宗谷岬方向へ約22km、富磯地区から少し行った山側に「カネクロサワ伝説」の看板がある。 小さな看板なので見逃しやすい。現在水は土管を通り流れていて、清水の面影は一切無いのが残念である。 寛政年間(1790年頃)江戸時代後期、宗谷のコタンにオキミルクというアイヌの娘(メノコ)がいた、早くに母をなくし眼の不自由な父と弟と暮らしていた。 オキミルクは一家の大黒柱としてくる日も一生懸命に働いた。 しかし一家は貧しく辛い日々を送っていた。 父親が失明し働けなかったからだった。その頃和人が宗谷厳島神社を建立する。 霊験あらたかな話を聞いた娘は、和人もアイヌ人も神様は差別しないだろうと父親の回復を祈願して、宗谷厳島神社にお百度参りをした。 満願を向かえ祈願を終え寝たところ、夢枕に現れた天女のお告げで、「カネクロサワの清水で眼を清めよ」と聞く。 娘は夜が明けるのも待たずこの清水を探しに行ったという。 苦労をして探し当てた娘は竹筒一杯に水を持って帰り、父の眼を洗ったところ不思議なことに一夜にして視力が戻ったそうだ。 後に知るのだが、この時の天女は和人が信仰する弁財天であることを知った親子は、毎日厳島神社を参拝したという。 以来、カネクロサワの清水には眼病をもたらす悪魔を金縛りにする力があると信じられ、アイヌばかりでなく遠くの村々から、たくさんの和人が霊水を求めてこの地に集まったという。 富磯地区は、1896(明治29)年の記録では「戸数40戸、説教所と小売商あり」となっている。 1898(明治31)年利矢古丹本願寺説教所に寺子屋式教育所が開設される。1900(明治33)年には宗谷南尋常小学校と改称する。 1902(明治35)年、利矢古丹郵便局が設置され、1911(明治44)年からは電信も扱った。 大正期は、ニシンノ不漁が続き、1920(大正9)年は大凶漁となった。 1928(昭和3)年、女子青年団が結成され、衛生組合、森林防火組合、青年団と共に地域活動が盛んとなる。 1949(昭和24)年には富磯地区に電燈が点く。 1950(昭和25)年、富磯港船入澗が完成する。 1955(昭和30)年の町村合併により稚内市になった際、富磯の世帯数は109戸、人口は397人。 |