中頓別寿公園住所 枝幸郡中頓別町字寿中頓別町 中頓別の由来は、アイヌ語のトー・ウン・ペッ(湖から出る川)、頓別川の中流に位置するため中頓別となった。 寿の由来は、当時アイヌ語で「モウツナイ」(小さな・肋骨の・川)と呼ばれていた。入植時は原野25線と呼ばれた。36線(中頓別市街地)と共に最も早く開拓が進んだところである。寿になったいきさつはわからなかった。 国道275号線沿いにあり、中頓別市街地の道道399号中頓別停車場線交差点から浜頓別方向に約1.9kmほど左手。 以前はキャンプ場としても使われていたが、現在は閉鎖されパークゴルフ場となっている。 アスレチック・テニスコート・遊具があり花壇なども整備されている公園。 公園に設置してあるSLは、「キューロク」の愛称で親しまれた。野ざらしということもあり若干の痛みもあるが綺麗なほうだろう。 1976(昭和51)年、6月2日SLが当時の中頓別駅に到着したが、暫く駅構内引込線に保管されていた。 その後、町自動車教習所の裏側旧道々用地の側へ設置されることが決まり、1976(昭和51)年8月に設置された。 この公園は、中頓別町寿スキー場と併せたレクリエーション施設として設けられた。1981(昭和56)年からは公園内に、テニスコート、バレーコート、バトミントンコート、パークゴルフ(18ホール)が整備されている。 蒸気機関車49648号の経歴 製造年月日 1909年(大正9)年、9月7日 形式内容 長さ16m563・高さ3m813・幅2m616・総重量95t・水積載量1550t・最大けん引量870馬力・最高速度65km 運転走行キロ 244万905km 廃車年月日 昭和51年3月31日 昭和初期に渡道し、遠軽機関区に配属となった。 その後、同僚機の多くは、昭和15年頃、中国大陸 に渡ったが幸いに大陸行きはまぬがれ本道を走り 続けた。 昭和48年に名寄機関区に配属され国鉄のDL化 ・電化までのつなぎとして、宗谷本線、天北線、 名寄本線にその雄姿を眺めることができた。 昭和50年、追分機関区へ転属になり、駅構内入 れ換えに使用され廃車になった。 ちなみに国鉄が中頓別駅まで開通したのは大正5 年10月であった。 その当時の主役が、このSLと同型のものであり それ以後、我町の発展とともに歩んだのである。 F104型ジェット機 機体 全長16.69m・全幅6.68m・全高4.11m・全備重量12t・自重約6.7t 性能 最大速度2.164(マッハ2.0)km/h・航続距離2500km・上昇限度約20.000m エンジン 名称J79-GE/IHI/IIA・推力7.170kg/h(アフターバーナー使用) 乗員1名 製作国産 この飛行機は自衛隊第2航空団より借受けたものだそうだ。ちょっと景観とかけ離れた気がするが子供には人気みたいである。 ここ寿地区は、1900(明治33)年に頓別原野39線まで植民区画設定し、36線と共に最も早く開拓が進んだところである。1904(明治37)年5月楢原民之助氏が頓別原野36線(現・中頓別市街)に定住し、農耕に従事する。 1907(明治40)年11月徳島県人の佐藤弥作率いる7家族28人が原野25線(現・弥生地区)に12戸、60町歩の貸付を得て入植したが、出発に手間取り10月になった。到着したのは11月の5日ですでに数十センチの雪が積もっていたという。1908(明治41)年には杉野類太が入植する。1909(明治42)年2級町村制施行により頓別、歌登、礼文、枝幸が枝幸村に併合。10月道徳安二氏が枝幸郡第10部(中頓別町区域)の部長となり、この日を中頓別町開拓の日と定めた。12月頓別原野36線(現・中頓別市街地)に頓別第二特別教授場を創立。(寺子屋の始まりとなる)石川伊三郎が入植する。 1910(明治43)年には一野菊蔵が入植する。1911(明治44)年には山形県人の斉藤宥賢一家4人が入植し移住者が増えて行く。佐藤弥作氏はその後中頓別市街で旅館と雑貨商を経営する。村会議員にも選ばれ中頓別に大きく貢献した。 1913(大正2)年には隣接地が増区画地が策定され部落開拓の基礎が固まっていくのである。 |