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クローバの丘

住所 枝幸郡浜頓別町安別
浜頓別町観光協会

枝幸(えさし)の由来は、アイヌ語の「エサウシ」(岬)から。
浜頓別の由来はアイヌ語「トー・ウン・ペッ」(湖沼に入る(行く)川)。「頓別川」からできた名前で、当時はトンベツと呼ばれ頓別川に河口に集落があった。1878(明治11)年には枝幸郡に枝幸、頓別、歌登、礼文の4ヶ村が設けら漢字が当てられる。1909(明治42)年に2級町村制施行により頓別、歌登、礼文、枝幸が枝幸村に併合となる。1916(大正5)年枝幸村(現・枝幸町)より分村し、2級町村制施行。頓別村となり役場を設置する。1918(大正7)年8月天北線の中頓別〜浜頓別間を延伸開業。下頓別駅・浜頓別駅を新設。駅名を「浜頓別」にした、以来この一帯を浜頓別と呼ぶようになる。1951(昭和26)年頓別村を浜頓別町と改め町制施行。
安別の由来は、アイヌ語の「ヤ・ウシ・ベツ」(網を使う川)で、入植は昭和に入ってからである。
国道275号線道道84号豊富浜頓別線の中央北・南交差点から豊富・クッチャロ湖方向へ約700mのT字路を左折し、約700mのT字路交差点を豊富町方向へ右折し約6.4kmを右折し道道710号浅茅野台地浜頓別線を約3.2kmの交差点(クローバの丘看板有)を左折し細い側道を約1.6kmほど右手。

クローバの丘へは、浜頓別町市街から84号豊富浜頓別線を経由して、道道710号浅茅野台地浜頓別線に入った方が看板もあり分かりやすいだろう。全面舗装の細い道を進むと頂上付近にクローバの丘がある。標高は60mで、眼下には牧草地とクッチャロ湖と小沼の一部がみえる。小沼は左手の森が邪魔となり全貌は見えないのがちょっと残念ではあるものの絶景が広がる。遠くには北見神威岬や、浜頓別ウインドファームの風力発電風車が見える。
1996(平成8)年11月に建立され、クローバ畑と幸福の鐘があるだけである。浜頓別町の観光パンフには載っているものの観光地化されていないためここを訪れる観光客も少なく、ゆったりと絶景を堪能できることもあり、口コミでひそかに人気のビュースポットとなっている。


後方方向


ここ安別地区は、クッチャロ湖小沼の北西周辺に集落が点在している。入植は昭和に入ってからで、1927(昭和2)年「北海道国有地未開地処分法施行規則」により、大地主の土地解放と一部国有地の自作農移民地解放の開設などによって、1930年(昭和5)年頃から安別地区に入植者が増えた。もとはヤウシベツとオビンウンナイの地区だったが行政上安別とした。
入植当時は、旧天北線の山軽駅まで出るのが難儀だったこともあり、クッチャロ湖を舟で渡るのが一番便利だったようで、食料・生活用品・生産物などの運搬も舟を利用していた。
大正時代冬になると小沼の奥で、造材の筏(いかだ)の流送がみられた。流送は仁達内川付近の小沼に「あば」(丸太を集結し筏を組む所)を設けて2000石(約300tほど)の筏を作って流送した。筏が出来ると潮を見て、クッチャロ湖に入る。このクッチャロ湖は水深が浅いので、岸からロープを設けてそれを手繰って下った。クッチャロ川に出ると天北線の鉄橋を潜るのだがそれが一番の難所だったようである。頓別川の河口まで出るのは当時2日半の行程だった。河口で筏は解体され、別の組により船積みされて各地に売られていった。

安別川の橋付近では、かつて古貝殻の堆積層が見られた。この貝殻の構成はカキ貝が主で、今から約5600年前頃のものでありクッチャロ湖畔竪穴群の貝殻構成貝と構成が同じだという。当時はこの辺りも海だったことを物語っているのだが、現在は護岸工事などで痕跡は見られないという。
1930年(昭和5)年10月には「ヤスベツ特別教授所」(後の浜頓別町立開明小学校 1932(昭和7)年4月開校・1980(昭和55)年3月閉校)が設けられ、1963(昭和38)年には待望の電化となった。1965(昭和40)年からはパイロット事業(水先人の意味で、試験的に先行して行う事)による酪農への経営転換が試みられた。

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