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間宮林蔵渡樺出航の地

住所 稚内市大字宗谷村字第二清浜

稚内観光協会

稚内の由来は、アイヌ語のヤム・ワッカ・ナイ、「冷たい水の流れる沢」という意味である。
宗谷の由来は、アイヌ語の「シヨウヤ」(海獣の止まる磯の丘)この磯の丘にアイヌコタンがあったことから地名にした。他にも、宗谷岬の北にある弁天島は「ソーヤシュマ」(岩礁の海岸にある島)と呼ばれていた。また、「ソ(ショ)・ヤ」(岩礁の多い海岸)と呼び、これらが「ソーヤ」の由来とされている。現在の宗谷は「ウエン・トマリ」(悪い・入り江)というところで、うっかり舟を入れると岩礁で舟を壊すところだった。
第二清浜の由来は、以前はアイヌ語で「オラムナイ」(両岸が高く川尻が深い川)といわれていた。1941(昭和16)年には宗谷村大字を廃止し、字名と漢字地名に改められた。第一清浜はアイヌ語で「ピリカタイ」「美しい森」。
宗谷岬から国道238号線を稚内方面へ約3kmほど右手。



実は、彼の著書である、東韃(とうだつ)紀行でもただ「宗谷」とあるだけで漠然としていたが、林蔵の墓石が見つかったことや、アイヌの「林蔵祭」伝承などから、現在の場所と分かり碑が建てられた。
間宮林蔵とは、1780(安永9)年〜1844(天保15)年、は江戸時代後期の隠密、探検家である。
農民出身であり、幕府隠密をつとめた役人であった。蝦夷地(北海道)に長く住み、アイヌ語も理解できたようで、23年もの間、北海道を中心として活躍していたそうだ。
伊能忠敬から測量法などをさらに学び、伊能忠敬の大日本沿海輿地全図(だいにっぽんえんかいよちぜんず)の北海道部分を完成させていることも大きな業績の一つである。

1808年(文化5)4月幕府から命を受けた、当時29歳の林蔵は松田伝十郎とともに、第1次樺太探検に出発する。二人は樺太に渡ると白主(江戸時代は樺太の玄関口の場所で勤番所もおかれていた)ここでアイヌの若者を雇い、二手に分かれる。林蔵は、東海岸沿いに北に進み、東岸の和愛湖(当時の樺太大泊郡長浜村に位置する海跡湖)にいたり、更に北へ進む。5月16日敷香(現・サハリン州ポロナイスク市)付近に辿り着く、ここから多来加湾を東に進み、オホーツク海に出たのは21日。シャクコタン(柵丹)まで進み更に北知床岬(現・テルペニア岬)東海岸に出る。更に進もうとするが小さい舟は波浪に翻弄されそこから先には進めなかった。
一度戻り、最狭部である真縫(現・アルセンチエフカ)付近から山越えして西海岸にでて、伝十郎を追って北上する。6月20日にノテト(スメレンクルと呼ばれているニヴフ人の村落)で先行する松田と合流したが、伝十郎はすでに西海岸を踏査し、戻る途中だった。
話を聞いた林蔵は伝十郎にもう一度行こうと言い、伝十郎の「北夷談」には、「迷惑ながらよんどころなく、再度ナッコに渡海してラッカ岬に至り」とある。共に北緯52度付近の樺太最西端の拉喀埼(ラッカ岬)に至り、この岬以北で海峡幅が広がり、樺太が大陸と離れた島であるのを望見。ここに「大日本国国境」の国境標を建てる。
26日、松田と間宮両名は、ノテトをはなれ帰途につく。
7月13日松田と間宮両名は、宗谷に帰着し、奉行所に報告する。その後、松田伝十郎は江戸に報告のため出発し、10月樺太見聞の実測図を幕府に提出した。
宗谷滞在中に報告を聞いた松前奉行の河尻春之は、間宮林蔵が樺太東海岸の踏査を不十分として再調査を命じた?ようで、「樺太と大陸の境をしかと見極めぬずに帰えりしは心残り」と述べ、林蔵はさらに奥地への再検分を申し出る。
このとき、林蔵は世話になった宗谷アイヌの人たちに「私がもし帰らなかったら、これを墓石にしてほしい」といって墓石を預けたという。探検がどれほど過酷なもので、覚悟決めての出航だったかを思わせる。
7月第2次樺太探検のため、当局の許可を得て単身樺太へ戻る。図合船(漁船として使用される100石積み以下の船のこと)に便乗して宗谷を出発。西海岸のトンナイ(旧真岡付近、現・サハリン州ホルムスク)付近に至る。トンナイで冬を越し、1809(文化6)年、5月に樺太を北上、樺太北端のナニオー(現・サハリン州ルポロボ)まで踏査して樺太が島であることを確認し、樺太北部にはアイヌ語が通じないオロッコと呼ばれる民族がいることを発見し、その生活の様子を記録に残している。
さらに一行は、デレンに向かうためこれまでの検分経過を書面にし、随行のアイヌに渡し、自分が帰らない場合はこれを白主の役所に届けるようにと渡す。6月土人7名に林蔵を含めた8名で大陸に向かうためノテトを出発するが、風が悪くラッカ岬まで戻る。7月に再び大陸に向けて舟を進め、カルコエというところで泊まる。そこからキヂー湖へ入り、さらに川を遡りデレンに着く。そこには山丹人の家が20軒ほどあり、満州人も交易に訪れていたという。清国の役人が年2ヶ月ほど滞在し、場所を設け交易をしていた。ここを林蔵は満州仮府と名付けた。林蔵は7日間滞在し帰路についたのは7月17日。8月には河口のヒロケーに着き、海岸沿いに南下しハカルバーから樺太に入り8日にノテトについた。
9月白主に戻る。このとき幕府の役人として樺太を管轄・樺太に赴任していた松田伝十郎が居て、林蔵の労をねぎらい、3日間滞在し、宗谷に帰る。11月松前奉行所に出頭し報告書の作成にあたる。
1811(文化8)年、1月江戸に帰る。4月松前奉行支配調役下役格に昇進する。12月江戸を発ち、蝦夷地に向かうがその後一度江戸に戻っている。
1822(文政5)年、普請役となる。
1828(文政11)年、勘定奉行・幕府の隠密として全国各地を調査した。


案内板
 ロシアの南下政策に驚いた幕府は文化5年4月13日(1808)間宮林蔵と
松田伝十郎を北蝦夷(きたえぞ・カラフト)の調査に向かわせた。
 流氷は去ったものの、なお酷しい寒気と荒波の宗谷海峡をのりこえて人情、
風俗の異なる北蝦夷に渡り、東海岸を調べた。
 この年、林蔵は再び北蝦夷に渡り越冬、翌年文化6年春、西海岸を北上し
北蝦夷は大陸と海峡をへだてた島であることを確認した。夏には大陸交易に
赴くギリヤーク人に同行しアムール下流の満州仮府デレンを訪れ、この地方
の情勢を調査し、「東韃紀行(とうだつきこう)」として報告された。
 後にシーボルトは「間宮の瀬戸」と名付けて世界に紹介した。
稚内市教育委員会


右の石碑に「宗谷アイヌ 柏木ベン」の名で碑文が刻まれている。
此地は吾が祖先の樺太と
逓送を行える地なり
間宮林蔵渡樺を記念し
石標を建て部落のすべてが
毎年の祭を行えり此石
は当時をしのぶ唯一のもの也
  宗谷アイヌ 柏木ベン

この地に住む、宗谷アイヌ最後の文化伝承者だった柏木ベンさんの証言では、集落でこの石を祀り、林蔵祭が毎年行われていたようです。
向って左の小さな石碑。
海峡に大きく
  昇る今日の月
      古竹


歌碑 噫宗谷海峡
東海林義夫
暮色蒼然 俺樺太
幾万同胞 再不帰
茫洋咽頻 悲憤情
一片残光 照海峡

還らざる
友の面影
偲びつヽ
宗谷岬に
一人佇む



1296(永仁4)年、日持上人宗谷より渡樺の伝説がある。この頃和人の勢力が宗谷地方に及ぶ。
1582(天正10)年、松前藩領となる。
1603(慶長8)年、宗谷に役宅を設置し、利尻、礼文、唐太を司る。
1635(寛永12)年、佐藤嘉茂左衛門、蠣崎蔵人、村上掃部左衛門を宗谷珊内より樺太巡察に派遣し、ウッシャム(サハリンの最南端・クリリオン岬(日本統治時代の名称は西能登呂岬付近)に渡る。
1651(慶安4)年、蛎崎伝右衛門主命により樺太を巡視する。
1685(貞享2)年、松前藩が宗谷場所を開設する。樺太は松前藩家臣の知行地として開かれたソウヤ場所に含まれた。
1689(元禄2)年、藩士蛎崎七之丞が宗谷を巡視する。
1706(宝永3)年、村山伝兵衛、宗谷場所を請負う。
1750(寛延3)年、村山伝兵衛、宗谷場所を請負う。
1752(宝暦2)年、ソウヤ場所から樺太場所が分立する。
1756(宝暦6)年、浜屋や近江商人が宗谷場所を請負う。
1761(宝暦11)年、宗谷場所が松前藩の直轄となる。
1765(明和2)年、松前の商人恵比須屋半兵衛が宗谷場所を請負う。
1775(安永4)年、飛騨屋久兵衛が宗谷場所を請負う。
1781(天明元)年、宗谷に厳島神社建立。(現・内市宗谷村宗谷、宗谷歴史公園内)
1782(天明2)年、飛騨屋支配人が厳島神社に鰐口を奉納する。
1785(天明5)年、幕府の樺太探検隊長庵原弥六一行、宗谷で越年するも、翌年3月に病死する。(墓碑現存)
1787(天明7)年、フランスのラ・ペルーズの艦隊が世界周航の途中、宗谷海峡を通過、樺太が島であることを確認。
1789(寛政元)年、最上徳内らが宗谷を巡視。飛騨屋が宗谷場所をやめ、村山伝右兵衛が請負う。
1790(寛政2)年、松前藩は、宗谷に勤番所を設置する。
1796(寛政8)年、村山伝兵衛は宗谷場所を罷免され、小山屋権兵衛が請負う。
1800(寛政12)年、藤原時畝が、宗谷にて弥六の墓碑を建立する。松前藩は宗谷場所を直営。柴屋長太夫が宗谷場所の仕入れを任ぜられる。
1801(亨和元)年、奉行松平忠明、宗谷を巡視し、台場を築く。奉行一行の磯谷則吉が宗谷に滞在する。高橋壮四郎が宗谷場所を管理する。
1806(文化3)年、遠山金四郎、村垣左太夫樺太を巡視して宗谷に滞在。
1807(文化4)年、幕吏近藤重蔵ら宗谷を巡視。宗谷場所幕府直轄領となる。津軽藩宗谷警備に付くが、多くの藩兵が水腫病で亡くなる。
1808(文化5)年、最上徳内、松田伝十郎が宗谷に来る。松田伝十郎は樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の国境標を建てる。間宮林蔵ら、樺太探検のため宗谷を出帆。会津藩が津軽藩と宗谷警備を交代する。宗谷警備中の会津藩士が次々と病死する。
1809(文化6)年、間宮林蔵は樺太が島であることを確認し、呼称を北蝦夷地と正式に定め、宗谷に戻る。松田伝十郎が樺太アイヌ住民の問題解決に貢献し、北蝦夷地詰を命ぜられる。山丹人との貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。
1810(文化7)年、藤原義行鋳造の釣り鐘を宗谷護国寺に奉納する。宗谷の越冬警備を止め、増毛まで退避越冬をする。
1821(文政4)年、全蝦夷地を松前藩に返還し、宗谷場所も松前藩領になる。
1823(文政6)年、厳島神社に藤野家船頭の松本金蔵らが石鳥居、宗谷番人達が石灯篭を奉納する。
1824(文政7)年、宗谷支配人嘉吉らが厳島神社に手洗鉢を奉納する。
1832(天保3)年、藤野喜平衛が厳島神社を改築する。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が声問に立ち寄り、宗谷から樺太に渡る。
1855(安政2)年、宗谷場所、再び天領となる。秋田藩が宗谷警備を行う。
1856(安政3)年、箱館奉行所支配組頭向上源太郎が宗谷場所を引き継ぐ。松浦武四郎ら、樺太調査のため宗谷を出帆。この年クワヘヒル(ストーブ)が役宅につけられる。
1858(安政5)年、松浦武四郎が声問川を遡り踏査。
1859(安政6)年、宗谷、秋田藩の領下となるが、抜海とノシャップは幕府直轄。
1867(慶応3)年、宗谷地方は箱館奉行所の直轄地に編入される。
1869(明治2)年、宗谷、開拓使に属す。金沢藩支配に宗谷・枝幸・礼文を含む。
1870(明治3)年、1月宗谷、金沢藩に属す。6月宗谷は開拓使の直轄とする。8月藤野喜平衛が宗谷場所を返上する。
1871(明治4)年、7月松本十郎が宗谷を調査する。栖原角兵衛が宗谷外四郡の漁場を受け持つ。
1872(明治5)年、宗谷支庁設置、開拓判官大山重が主任となる。
1873(明治6)年、宗谷支庁を廃し、留萌支庁の管轄となる。
1874(明治7)年、開拓使雇技師ライマンが稚内地方を巡視する。
1875(明治8)年、3月宗谷に開拓使出張所を置く。樺太千島交換条約締結。樺太原住民841名を稚内に移住させる。
1876(明治9)年、1月宗谷郵便局を設置。
1879(明治12)年、7月宗谷に郡役所が置かれ宗谷郡となる。宗谷村に戸長役場設置し稚内市の開基となる。
1880(明治13)年、3月宗谷郡役所開庁する。
1885(明治18)年、宗谷村尻臼に灯台設置、日本郵船会社小樽・稚内間に定期航路を開く。
1888(明治21)年、宗谷郵便局を稚内郵便局に改称。郡役所、戸長役場、警察署、郵便局など、その他諸官公庁が稚内に移転する。
1891(明治24)年、宗谷測候所閉鎖となる。9月枝幸村開村となる。
1892(明治25)年、声問神社創建する。
1893(明治26)年、10月杖苫内駅逓所設置する。
1895(明治28)年、更喜苫内に入植者が入る。
1897(明治30)年、郡役所を改め、宗谷支庁を開設。
1900(明治33)年、7月宗谷郡稚内村、抜海村、声問村の区域を稚内村と称し1級町村制施行。宗谷、泊内、猿払三村戸長役場を宗谷コタンバに設置する。12月稚内灯台設置される。
1901(明治34)年、稚内村を稚内町に改める。11月夕来駅逓所を設置する。
1902(明治35)年、散在していた宗谷旧藩士の墓を一か所に祭祀する。宗谷岬に海軍望楼所設置する。7月勇知神社創建される。増幌に市島、福沢農場開設。幕別に大竹農場開設する。12月山下通2に稚内町役場新築落成する。
1903(明治36)年、福沢桃介が福沢農場に牧場を開設する。これにより増幌地区に移住者が増加。
1906(明治39)年、小樽、稚内、樺太定期航路を開設。
1907(明治40)年、宗谷護国寺がウエントマリ川西岸に移築される。
1909(明治42)年、4月宗谷村は二級町村制を施行する。幕別神社創建される。
1911(明治44)年、5月山火が延焼し、稚内町724戸・宗谷村71戸・その他諸官庁、学校、病院等消失する。
1912(大正元)年、秋田木材会社が声問で自家発電を始める。宗谷支庁庁舎新築落成する。樺岡(声問村字樺岡)に宮城県開拓者集団入植する。
1913(大正2)年、秋田木材会社が声問発電所を設置し、稚内にはじめて電灯がともる。勇知に埼玉県団体が入植する。上声問・沼川に開拓者が多数入植する。11月更喜苫内駅逓所設置される。
1917(大正6)年、5月岐阜団体が曲淵・沼川に入植する。6月福島団体が曲淵に入植する。相馬団体が曲淵・沼川に入植する。
1919(大正8)年、川西(声問村川西)に開拓民入植する。8月上声問駅逓所設置される。
1920(大正9)年、川南(声問村川南)に開拓民入植する。曲淵にて水稲試作する。稚内築港工事着手する。
1921(大正10)年、村井北部鉱業所、声問石油鉱場設立。上勇知に開拓民入植する。
1922(大正11)年、曲淵に伊藤農場を開設する。村井石油会社が増幌で採油事業を開始する。稚内運送会社設置する。曲淵・沼川の地名が誕生する。11月鬼志別〜稚内(現在の南稚内)間を延伸開業。宗谷線(天北線)開通。11月宗谷線を宗谷本線に改称。曲淵神社創建する。
1923(大正12)年、稚泊連絡船運行開始。
1924(大正13)年、北見線開通(現・宗谷本線)、稚斗連絡船運航開始。猿払村が宗谷村から分村し村制施行する。沓形村(利尻郡)が一級町村制施行する。
1925(大正14)年、稚内にタクシーが走る。坂の下に中丸牧場を開設する。7月秋田木材会社が稚内に発電所を設置する。10月秋田木材会社の声問発電所を閉鎖する。
1926(大正15・昭和元)年、7月稚内発電所を建設し、秋田木材は稚内から離れる。稚泊連絡船対馬丸ノシャップ沖で座礁。9月天塩線(音威子府〜幌延〜稚内間)全通。
1928(昭和3)年、5月声問岬に浮標灯を設置する。6月宗谷旧藩士の墓を山上に移転する。12月稚内〜稚内港間を延伸開業。稚内港駅開駅(現・稚内駅)。
1930(昭和5)年、4月天塩線を宗谷本線に編入し、音威子府〜浜頓別〜稚内間を分離し、北見線(後の天北線)に改称。
1932(昭和7)年、国費にて声問川河口の築設工事に着手する。7月沼川〜幌延間の拓殖軌道敷設工事を着手し、翌年完成する。8月歌人斎藤茂吉が稚内に来て木谷旅館に投宿する。
1935(昭和10)年、11月声問貝塚・クサンル竪穴郡が北海道史蹟に指定される。12月文部省が宗谷護国寺を史蹟に指定する。9月興浜南線が開通する。
1936(昭和11)年、宗谷港築港工事に着手する。宗谷炭礦汽船会社が天北炭田発掘に着手する。7月興浜北線が開通する。
1937(昭和12)年、1月稚内測候所を設置。
1939(昭和14)年、2月稚内駅を南稚内駅に改称(同時に稚内港駅を稚内駅に改称)。
1941(昭和16)年、9月宗谷村各部落名を改称する。
1942(昭和17)年、10月北海道配電会社、声問火力発電所設置。
1945(昭和20)年、8月樺太居留民引揚船稚内に入港。米軍稚内に進駐。
1949(昭和24)年、4月稚内市制施行、稚内市となる。
1955(昭和30)年、2月宗谷村を編入する。
1956(昭和31)年、9月稚内空港建設工事着手。11月宗谷旧藩士の墓を山上より旧護国寺跡地に移転する。
1957(昭和32)年、稚内測候所気象台に昇格。
1958(昭和33)年、7月間宮林蔵渡樺出航の記念碑を建立する。8月間宮林蔵胸像を建立する。
1959(昭和34)年、2月曲淵稚内炭鉱閉山を宣言。5月稚内空港開港する。8月稚内港中央埠頭起工する。10月東京大学が宗谷村清浜のオンコロマナイ遺跡発掘調査行う。
1960(昭和35)年、7月南極観測樺太犬記念碑建立。10月声問沖灯標設置する。
1961(昭和36)年、4月北見線を天北線に改称。宗谷岬に日本最北の地碑を建立する。10月樺太犬慰霊塔建立する。
1963(昭和38)年、7月幕別の字名を恵北に改称する。8月抜海先住民族遺跡を調査する。氷雪の門、九人の乙女の像建立。
1964(昭和39)年、2月三井沢宗谷炭鉱閉山
1965(昭和40)年、9月稚内新駅舎完成。
1968(昭和43)年、7月宗谷岬の日本最北の地碑を建て直す。ノシャップ寒流水族館開館。
1971(昭和46)年、ノシャップ米軍基地閉鎖発表。
1973(昭和48)年、稚内空港定期便就航。
1974(昭和49)年、利尻礼文サロベツ国定自然公園が利尻礼文サロベツ国立公園となる。青少年科学館完成。
1975(昭和50)年、郷土資料館設置。
1978(昭和53)年、にしん資料館完成。稚内沖海底石油ボーリング開始。
1979(昭和54)年、船員保険保養所「宗谷パレス」完成。
1980(昭和55)年、日ソ友好会館完成。探検家間宮林蔵の立像建立。東洋一を誇る稚内港北防波堤ドーム全面改築工事完成。
1982(昭和57)年、宗谷岬展望台完成。
1983(昭和58)年、大韓航空機撃墜事件発生。宗谷黒牛の生産を開始する。
1984(昭和59)年、2月天北線全線の貨物営業を廃止。
1985(昭和60)年、大韓航空機事故の祈念碑「祈りの塔」完成。
1987(昭和62)年、稚内空港がジェット化。
1988(昭和63)年、世界平和の鐘、子育て平和の鐘が宗谷岬平和公園に設置。「動物ふれあいランド」が空港公園に完成。
1989(平成元)年、5月天北線廃止に伴い、代替輸送バス運行開始。そうや竜ふるさと歴史館完成。
1991(平成3)年、宗谷丘陵展望休憩施設「ゲストハウスアルメリア」完成。
1992(平成4)年、映画「南極物語」で主役の樺太犬を演じた、犬のタロが死亡。声問川大曲遺跡の発掘調査開始。
1994(平成6)年、大沼野鳥観察館完成。
1995(平成7)年、サハリン定期航路就航(稚内港〜コルサコフ(旧大泊)間)。
1998(平成10)年、風力発電施設稼動。「タロ・ジロ里帰り展」開催。
1999(平成11)年、サハリン定期航路再開。
2000(平成12)年、サハリン州考古学者ら15名、丸木舟で宗谷海峡横断。富士見地区の石油天然ガス基礎試錐「チカップ」本格的な掘削開始。
2004(平成16)年、宗谷丘陵の周氷河地形が北海道遺産に認定される。
2005(平成17)年、国内最大規模の風力発電「宗谷岬ウィンドファーム」(57基)が稼動開始。
2007(平成19)年、稚内メガソーラー実証実験施設の起工式挙行。稚内副港市場開業。ラ・ペールズ顕彰記念碑が建立される。
2008(平成20)年、国際・国内フェリーターミナル完成。
稚内市史、稚内市史第二巻参考

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