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史蹟 松田駅逓跡

住所 枝幸郡枝幸町歌登大曲
TEL 
枝幸町観光協会

枝幸(えさし)の由来は、アイヌ語の「エサウシ」(岬)から。2006(平成18)年3月20日旧枝幸町と旧歌登町が合併し、現在の枝幸町となった。
歌登の由来は、アイヌ語「ウタヌプリ」「オタヌプリ」(砂の山)の意。幌別川河口地域に海岸砂丘がありそれが大字歌登村の語源となっていて、枝幸村から分村する際に村の名称とした。
大曲の由来は分からなかったが、当初は上徳志別の一部であり、徳志別の由来は、アイヌ語の「トクシベツ」(アメマスのいる川)、「トプシュベツ」(笹の多い川)後者の方ではないかと思われる。
道道120号美深中頓別線沿いにあり、歌登市街地の道道12号枝幸音威子府線道道120号美深中頓別線の交差点から美深方向に約25.1kmの交差点を右手の旧道に入り(加須美峠方向)約1.7kの交差点に碑がある。

松田駅逓跡の碑は歌登再奥の駅逓であり、仁宇布へ向かう旧道と美深に向かう加須美峠へ向かう分岐にあり交通の難所だったが「天の川トンネル」の開通でルートが変わり、旧道は橋より奥は廃道となっているが峠方向へは進むことが出来る(ダートが続く)。
この大曲地区は奥地と言うこともあり開拓も遅かった。当時は大恵農場の一部だったが、1914(大正3)年に34町歩を分割売渡しとなり開拓が進んでいく。1916(大正5)年春に鎌田源治、山内彌八、山内鶴吉、大野沢吉の4戸が大曲に入植する。この時はオフン(大奮)から堅いを利して山を越えて入地した。
1935(昭和10)年2月松田駅逓所が設置される。取扱人は松田鹿蔵である。しかしあまりにも奥地にあったため利用者は稀だったという。
1942(昭和17)年松田駅逓廃止となる。現在は周りに民家などは一切ない。当時の面影は皆無となっている。写真は歌登方向を見ています。
昭和五十九年十月開基八十八年記念受彰者一同 建立

大曲地区は当時上徳志別の一部だった。1909(明治42)年上徳志別原野280町歩の地積をもって大恵農場が開設され、徳島県人の大恵仲三郎が入地することに始まる。2級町村制施行により頓別、歌登、礼文、枝幸が枝幸村に併合。1912(明治45・大正元)年大恵農場に2戸(正木和之介、横山伊助)入地する。この頃現地へ入るには川を遡行していった。大恵氏が入植した当時は道路などは無く、日用品を買うには浜徳志別へは4里、上幌別6線には3里。どちらも鬱蒼たる笹薮の中を歩き熊が出る場所を歩かなければならなかったことから、浜徳志別まででて枝幸市街まで行き調達するのが良かったようだが、往復4日もかかったという。
 1913(大正2)年渡辺四郎が大恵農場に入地する。その後入植者が増えて行く。志美宇丹方面への造材事業が本格化し、ペンケナイを経て刈分け道路を開削する。これにより奥地への入植者が増えて行く。大曲の一部も大恵農場の一部だったが、1914(大正3)年に34町歩を分割売渡しとなった。1916(大正5)年4月枝幸村(現・枝幸町)より頓別村(現・浜頓別町・中頓別町)を分村。志美宇丹・上徳・オフンを合わせた志美宇丹部落が組織される。この年の春に鎌田源治、山内彌八、山内鶴吉、大野沢吉の4戸が入植する。この時はオフン(大奮)から堅いを利して山を越えて入地した。1922(大正11)年志美宇丹、オフンタルマナイ、上徳志別の三字一円で一部落だったが、上徳志別が独立した。1925(大正14)年大曲に私設教授所を設置する。児童数は9名。1926(大正15・昭和元)年2月私設教授所は農家の一室を使って授業をしていたが仮校舎を建設する。
 1927(昭和2)年上徳志別〜大曲にかけての上徳志別原野線道路が開通する。この頃の大曲の農産物は薄荷が唯一の作物だったが道路が開通することにより馬鈴薯、麦類なども耕作可能となった。樋口の沢には早くから数戸の農家が入植していたが、道路は無く、人が通れるだけの刈分け道しか無かった。それでも澱粉工場もあった。1935(昭和10)年2月松田駅逓所が設置される。1937(昭和12)年上徳志別分教所が700m下流側の現在地に新校舎を建てて移転する。大曲に特定地が設けられ数戸が入植する。1938(昭和13)年大曲部落が上徳志別部落から独立する。1939(昭和14)年9月歌登村として枝幸村より分村する。1942(昭和17)年8月小学校を新築する。松田駅逓廃止となる。
1945(昭和20)年復員軍人があいさつ回りの途中に熊に襲われ死亡する。1951(昭和26)年6月に大曲小学校を廃校し、8月旧校舎跡に分校から独立して大曲小学校となった。1952(昭和27)年7月志美宇丹の分校として大曲中学校が新設される。1953(昭和28)年小中学校老朽化の為新築する。1954(昭和29)年大曲中学校が独立する。1960(昭和35)年大曲農道一号として農道が新設されるまで道らしい道が無かった。1971(昭和46)年には林道樋口の沢線が開通し、大奮と樋口の沢を結んだ。1961(昭和36)年大曲地区が電化となる。上徳志別原野道路は併用林道に認定され、旭川営林署が多額の資金を投入して改良工事を行う。1963(昭和38)年本庫鉱山の開発以来、徳志別川でサケ・マスの大量死が問題となっていて、専門家の調査が行われる。美深・音標へ抜ける大曲山道が開通する。
1968(昭和43)年3月町道上徳志別原野線は道道志美宇丹美深線に昇格する。1971(昭和46)年3月美幸線の上徳志別〜大曲トンネル間のトンネル工事現場にて約2000万年前の海獣デスモスチルスの下アゴの骨が発見される。1973(昭和48)年7月美幸線の第二大曲トンネルが貫通する。1974(昭和49)年大曲にヤマベ増殖施設を建設する。1976(昭和51)年3月大曲小中学校は児童数減少の為閉校する。1977(昭和52)年9月上徳志別で発見されたデスモスチルスの化石を、北大理学部の教授一行によりほぼ完全体で発掘される。9月大曲〜美深を結ぶ林道が開通する。1989(昭和64・平成元)年国鉄美幸線跡の大曲トンネルを活用し、「新牽牛橋」が竣工する。
 1990(平成2)年、天の川トンネル着工する。大曲にも国鉄美幸線「北見大曲駅」が出来る予定であった。路盤はほぼ完成し橋やトンネルなども出来ていたが、1985(昭和60)年廃止され、美深〜仁宇布間以外は未成のまま全て廃止となった。そこで第2大曲トンネルを再利用するため拡幅し、トンネルの両側には牽牛橋、織姫橋があることから天の川トンネルとして蘇った。


1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道とし、11国86郡を定め、北見国枝幸郡となる。9月北見国を分領(宗谷・枝幸・礼文は金沢藩領)。
1870(明治3)年、枝幸郡は金沢藩から開拓使直轄となる。
1871(明治4)年、開拓使判官・松本十郎が枝幸を視察する。栖原半七・伊達林右衛門の両名枝幸郡の漁場持となる。
1872(明治5)年、北海道開拓使宗谷支庁設置する。枝幸出張所が開設される。
1875(明治8)年、白坂藤吉が枝幸で鮭漁を営む。
1876(明治9)年、漁場持の制度を廃止し、大小区制度施行。枝幸は28大区1小区となる 。
1878(明治11)年、枝幸郡に枝幸・頓別・歌登・礼文の4村を設置する。
1882(明治15)年、開拓使を廃止し三県が置かれ、枝幸は札幌県に属する。
1886(明治19)年、1月3県を廃して北海道庁設置、函舘・根室に支庁をおく。
1891(明治24)年、宗谷・枝幸両郡の戸長役場より分離・枝幸外3ヶ村戸長役場を設置する。
1894(明治27)年、枝幸〜旭川の道路開設調査を行う。礼文村オレタンラップ(現・枝幸郡枝幸町乙忠部モオレタラップ川付近)に駅逓所建築する。
1896(明治29)年、石川要三がフーレップ川(枝幸郡枝幸町風烈布)で砂金採集を行う。
1897(明治30)年、4月下幌別原野植民地区画測量(1318町歩)する。5月上幌別原野(1288町歩)の区画測量する。7月上幌別原野5線〜9線に至る170町歩の貸付決定する。桧垣農場が開設される。農場管理人と雇人3名が4月に入地し、これが歌登の開基となる。砂金発見される。産金数は100貫・1万8000余人の採集者が集まり集まり賑わう。郡役所を改め、宗谷支庁を開設。
1898(明治31)年、堀川泰宗らパンケナイ川(現・枝幸郡枝幸町歌登パンケナイ)、頓別川の支流ウソタンナイ川上流で新金田発見しゴールドラッシュとなる。上幌別に桧垣農場認可され石川県人15戸入植する。
1899(明治32)年、桧垣農場に10戸が入地する。ペイチャン(中頓別町ペーチャン川)で砂金の優秀鉱を発見する。この頃農場は一時閉鎖するほど砂金に夢中になったと言われている。
1901(明治34)年、6月桧垣農場の一室を教室にして、簡易教育所設置する。児童は7名。上幌別10線〜14線に至る地積で片岡農場を開設する。
1902(明治35)年、この年農作物の稔豊にて農村では活況を見る。上幌別8線の幌別川に渡船場が開設される。
1903(明治36)年、上幌別原野0線〜27線までの区画測量が行われる。
1904(明治37)年、上幌別原野27線〜37線、ポールン別の19線〜22線、ペンケナイの南7号〜7線まで測量する。上幌別15線に駅逓所開設し渡辺駅逓と称した(現・枝幸町歌登中央)。
1905(明治38)年、桧垣農場に天塩方面から15戸入地する。他にも10戸が入地する。
1906(明治39)年、4月上幌別21線〜29線の間に三重県人5戸が入地した。6月に同地に2戸入地し本幌別方面の開拓が本格化する。ペンケナイに児玉農場開設する。上幌別6線に当地方最初の「北見屋支店」という商店が開業する。
1907(明治40)年、枝幸港から咲来に通ずる仮定県道工事はじまる。
1908(明治41)年、上幌別6線に旅館が開業する。上幌別32線に駅逓が設置され、大友駅逓と称した。
1909(明治42)年、上幌別6線に曹洞宗説教所が開設される。上徳志別に大恵農場が開設される。1戸入地する。オフンタルマナイに1戸入植する。2級町村制施行により頓別、歌登、礼文、枝幸が枝幸村に併合。
1910(明治43)年、八幡神社を建立し、桧垣農場認可の日を記念して7月に祭日となった。志美宇丹に堀農場が開設され1戸入地する。
1911(明治44)年、3月ポールン別に1戸入植する。上幌別6線の幌別川に渡船場開設する。上幌別15線に住んでいた漢方医を枝幸村医に任命し、6線において一般診療を開始する。
1912(明治45・大正元)年、大恵農場に2戸入地する。
1913(大正2)年、澱粉製造が試みられ、歌登の主作物は馬鈴薯となり澱粉が歌登の農家経済を左右していく。志美宇丹方面への造材事業が本格化し、ペンケナイを経て刈分け道路を開削する。これにより奥地への入植者が増えて行く。タチカラシナイ(豊沃)に2戸入植する。堀農場に3戸入地する。
1914(大正3)年、上毛登別に5戸の農家が入植する。ペンケナイに天理教の団体移住があった。
1915(大正4)年、本幌別の支流の沢に青森県人10戸が入植する。本幌別に澱粉工場ができる。
1916(大正5)年、4月枝幸村(現・枝幸町)より頓別村(現・浜頓別町・中頓別町)を分村。上毛登別は19戸となり仮神社を設けた。この年亜麻が栽培され日本製麻の倉庫が建てられる。この頃青森・秋田・山梨・茨城・東京などから多くの入植者がやってくる。大曲地区に4戸入植する。志美宇丹・上徳・オフンを合わせた志美宇丹部落が組織される。ペンケナイの児玉農場が小川農場に変わり、10戸入地する。
1917(大正6)年、パンケナイの上流側に秋田団体10戸入植する。東中央地区に石川県加賀団体11戸が入植する。この年上幌別6線付近には戸数が集まり市街地を形成していく。6月大谷派布教所設置する。野村木工場(後の東洋マッチ工場)開設する。大曲地区で薄荷栽培が始まる。四線の沢(四線川付近と思われる)沿岡農場だったが解放され14戸が入植する。
1918(大正7)年、本幌別の奥地二また(二股)に山形団体20戸が入植した。飲食店「双六」が開業する。志美宇丹に伊豫団体10戸入植する。
1919(大正8)年、桧垣農場の裏山の山林が215町歩の放し場として払下げになる。上幌別6線〜ペンケナイ〜志美宇丹に至る道路工事が行われ、11月に開通し馬車が通れるようになった。志美宇丹〜タチカラシュナイ〜乙忠部までの道路も開削された。
1920(大正9)年、8月上幌別に医院が設置され住民の不安が解消される。
1921(大正10)年、春に志美宇丹で山火事発生し、10日間燃え続け枝幸海岸まで燃え広がった。10月上幌別6線(枝澤)駅逓設置。11月志美宇丹(堀)に駅逓設置する。志美宇丹に神社建立する。
1922(大正11)年、オフンの奥地であるオフンタルマナイ川上流に福島団体10戸が入植する。志美宇丹、オフンタルマナイ、上徳志別の三字一円で一部落だったが、上徳志別が独立した。
1923(大正12)年、上毛登別に相馬神社建立する。志美宇丹に澱粉工場新設するが二年で廃業する。
1924(大正13)年、東洋マッチ工場閉鎖する。
1925(大正14)年、水稲を試作し、反当り四俵を収穫する。
1926(大正15・昭和元)年、大谷派布教所が「順信寺」寺号を公称する。
1927(昭和2)年、西町内に藤木木工場ができる。その後上幌別木工場と改称する。オムロシベツ(西歌登方面)川本流奥地に2戸入植する。上毛登別神社建立する。上徳志別〜大曲にかけての道路が開通する。鉄道運動が起こる。新拓殖線促進期成会を結成し、乙忠部〜上幌別を経て中頓別までの鉄道運動を展開する。上毛登別〜ポールン別を経て本幌別までの道路が開通する。
1928(昭和3)年、4月植民軌道(枝幸植民軌道)小頓別〜上幌別六線までの工事が起工する。26線本幌別に駅逓が設置され、矢野駅逓と称した。本幌別〜咲来街道を結ぶ道路が完成する。
1929(昭和4)年、12月枝幸植民軌道小頓別〜上幌別六線まで開通する。タチカラシナイ(豊沃)に入植者が増える。
1930(昭和5)年、パンケナイにて金鉱脈が発見され、北海道鉱山として採鉱に着手する。ホルスタイン種5頭が導入され酪農の始まりとなる。6月オムロシベツで山火事が発生し、一ヶ月近く燃え続けた。町の有志らの出資により劇場ができる。大奮(オフン)と上徳志別の中間にある高台に20戸の内地入植者が入る。
1931(昭和6)年、大日本ベニヤ工場開設される。3月二またの奥に土佐団体9戸が入植する。志美宇丹に内地移民12戸が入植する。
1932(昭和7)年、7月80馬力のガソリン機関車が導入され、馬鉄に変り運行を開始する。
1933(昭和8)年、4月上ペンケナイに8戸(根釧原野に移住していた人)入植する。6月上幌別6線に役場出張所開設する。
1934(昭和9)年、4月ポールン別に岐阜団体10戸が入植する。幌別川の切替工事を行い築堤を築く。澱粉精製事業を行う。北海道鉱山が精錬所を建設する。後に住友鉱業に経営が移る。公衆浴場「千歳湯」ができる。
1935(昭和10)年、役場出張所庁舎を建設する。士別に明治製糖工場が設立されたことにより、歌登にもビートの作付けが奨励される。8月12線から分岐した軌道が本幌別まで開通する。
1936(昭和11)年、興浜北線開通し、北見枝幸・問牧・目梨泊駅新設する。澱粉精製工場は上幌別12線に移設する。幌富地区に8戸入植する。
1937(昭和12)年、劇場の経営が上幌別木工場となる。10月と11月に市街地で火災が起こる。毛登別三線の沢に「旭炭鉱」開坑するが品質は上等ではなかった。大曲に特定地が設けられ数戸が入植する。
1938(昭和13)年、歌登市街地に電灯が点く。枝幸の大日本電力株式会社の火力発電によるものである。大曲部落が上徳志別部落から独立する。12月分村計画が樹立される。
1939(昭和14)年、9月歌登村として枝幸村より分村する。
1940(昭和15)年、5月11日枝幸市街の西方丘陵で山火事が発生し、枝幸市街に延焼した。死者16名、行方不明1名、負傷者20名、焼失戸数470戸の大被害を出した。
1942(昭和17)年、大恵農場解放され、10戸が自作農となった。
1943(昭和18)年、16年から工事が行われていた毛登別隧道が完成する。
1944(昭和19)年、11月興浜線全レールが撤去される。
1945(昭和20)年、12月興浜北線復元開通する。
1946(昭和21)年、オフンタルマナイ、パンケナイ、オムロシベツに緊急開拓事業開始し、戦争の引揚者、疎開者、復員軍人、地元の二男三男からなる開拓者が入植する。大奮ニタツナイ川流域に開拓道路を開削し、樺太からの引揚者8戸入植する。沖縄兵30数名が帰還できず歌登に留まった。
1948(昭和23)年、4月稚内測候所歌登簡易気象観測所が設置される。7月大日本ベニヤ工場火災で焼失し閉鎖する。この火災により市街地が大火に見舞われる。ペンケナイの奥地に大阪団体10戸が入植する。9月八幡神社を村社に昇格し、神殿・拝殿を新築する。
1949(昭和24)年、4月運輸省札幌地方施設部の係官を迎えて、美幸線の経済調査が行われた。ペヤマン(歌登中央)本流の沢に樺太引揚者6戸入植する。上幌別30線付近に発電所を建設して、本幌別とパンケナイに12月自家発電が点燈する。
1950(昭和25)年、オムロシベツに樺太引揚者3戸入植する。毛登別に5戸入植する。ペヤマン支流には本幌別からの分家が6戸入植する。上徳志別とタチカラシナイに5戸入植する。トラックの増加に伴い軌道枝幸線を廃止し軌条を撤去する。本幌別線も運行終了した。パンケナイにさけ・ます孵化場を建設する。
1951(昭和26)年、4月ポールン別に福島団体4戸入植する。12月植民軌道を村で直接運営するようになる。東部落〜辺毛内部落全域が電化となる。
1952(昭和27)年、オフンポンツネオマナイに地元の分家2戸が入植する。
1953(昭和28)年、東歌登地区に地元から5戸入植する。ポールン別の石灰山に歌登石灰工業株式会社が創設され、7月に岩屋工場を建設し操業する。石灰山の開発と共に電気も導入され、毛登別の一部とポールン別全域に電気が通る。9月美幸線の施設促進期成会結成する。
1954(昭和29)年、10月無燈火地帯解消のため歌登村電力利用農業協同組合が発足する。志美宇丹市街地を電化するため、神社下の川に発電施設を作るがその後すぐに洪水で流出する。木工場のディーゼル発電機を以て発電し配電する。
1955(昭和30)年、5月オフンツネオマナイの高台に秋田団体6戸が入植する。
1956(昭和31)年、美幸線が着工と鉄道審議会で決議される。歌登に初めて自家用自動車が導入される。
1957(昭和32)年、1月オフン川上流にある日本鉱業上徳志別鉱山で雪崩が起きて事務所1棟倒壊し、2名死亡した。9月志美宇丹に北電の電気が通る。
1959(昭和34)年、上徳志別にてマンガン鉱を開発するが、秋には休止した。上徳志別が電化となる。開基50周年記念式典挙行。
1960(昭和35)年、7月今井本庫と三井金属の共同で本庫鉱山が開坑する。歌登市街地は簡易水道が敷設される。従来カナ気の水だったがパンケナイ川からの取水で美味しい水になった。12月ペヤマン(歌登中央)地区も電化となった。
1961(昭和36)年、本幌別が電化となる。本幌別の軌道跡を道道に切り替える。大曲地区が電化となる。
1962(昭和37)年、1月町制が施行される。二またと下毛登別が電化となる。簡易軌道志美宇丹線の改良工事が行われる。毛登別の旧旭炭鉱あとを土屋炭鉱として開発する。
1963(昭和38)年、本庫鉱山の開発以来、徳志別川でサケ・マスの大量死が問題となっていて、専門家の調査が行われる。美深・音標へ抜ける大曲山道が開通する。四線、上毛登別の16戸で電化となる。
1964(昭和39)年、10月美深〜仁宇布間が美幸線として部分開業し、東美深駅・辺渓駅・仁宇布駅を新設する。 幌富と藤田の沢・パンケパイロットの18戸で電化となる。
1965(昭和40)年、10月ハイヤー営業開始する。肉牛10頭を導入する。11月美幸線の北工区が着工されることになり、パンケ隧道前で起工式を挙行。役場庁舎を新築落成し移転する。ペンケナイ朝倉温泉の鉱水を引いて開拓婦人ホームを建設する。
1966(昭和41)年、6月簡易軌道志美宇丹線にディーゼルカーが運行される。土屋炭鉱閉山する。墓地付近が5戸電化となる。パンケ隧道貫通する。
1967(昭和42)年、3月本庫鉱山閉山となる。歌登山を中心に名寄・遠軽の自衛隊演習が行われる。
1968(昭和43)年、4月辺毛内の神社を廃止(合祀は不明)する。11月北志美宇丹で金銀鉱が発見され採掘を始める。12月町営軌道志美宇丹線が廃止となる。
1969(昭和44)年、ポールン別川と本幌別支流の川の大改修が行われる。40年から営業していた開拓婦人ホームを観光協会に譲渡し、温泉ホテルを経営することとなる。5月に着工し、8月に「歌登温泉」として開業する。美幸線の工事が着々と進む。歌登〜志美宇丹間の路盤工事を進める。
1970(昭和45)年、本幌別支流の部落に澱粉工場が建設される。中央15線に300頭飼育のホクレン直営の養豚場が建設される。7月休山の本庫鉱山が町に移管する。11月歌登町営軌道が全面廃止となる。
1971(昭和46)年、3月美幸線の上徳志別〜大曲トンベル間のトンネル工事現場にて約2000万年前の海獣デスモスチルスの下アゴの骨が発見される。5月簡易軌道の廃線式を挙行。ペンケナイ川の改修工事が行われる。
1973(昭和48)年、1月歌登温泉が全焼する。7月美幸線の第二大曲トンネルが貫通する。
1975(昭和50)年、1月ポールン別部落の戸数が減少したため本幌別部落に編入となった。5月パンケナイサケ・マス孵化場は老朽化の為新築する。7月南宗谷健康回復センターが完成する。11月山の家ペンケ荘が完成する。
1976(昭和51)年、10月健康回復村に公園と遊園地が完成する。11月健康回復村にスキー場を整備する。スキーロッジ、リフト、夜間照明を建設する。12月歌登ヤマベ養殖組合でヤマベの燻製を試みて町の名物とする。
1977(昭和52)年、8月歌登劇場閉鎖となる。スキー場に本格的なリフトを建設する。9月上徳志別で発見されたデスモスチルスの化石を、北大理学部の教授一行によりほぼ完全体で発掘される。大曲〜美深を結ぶ林道が開通する。12月天北スキー場(健康回復村裏山)と改称しオープンする。
1980(昭和55)年、美幸線の建設予算が凍結される中、東歌登地区に二つの跨線橋と志美宇丹跨線橋が架設される。7月南宗谷カントリークラブがオープンする。オムロシベツ〜ペーチャン間の道路開通する。10月町民文化会館が完成する。
1981(昭和56)年、6月枝幸郡歌登町大字歌登字〇〇だったが字名を廃した。
1982(昭和57)年、健康回復村のスキー場ロッジ、テニスコート、スーパースライダー、森林管理棟が新設される。
1983(昭和58)年、歌登八幡神社の本殿・拝殿を新築し、遷座祭を挙行。
1984(昭和59)年、5月南宗谷カントリークラブは町営となり、町営ゴルフ場となる。
1985(昭和60)年、3月町内唯一の公衆浴場である「歌乃湯」が廃業する。美幸線が廃止となりバスターミナルが完成する。12月町営の公衆浴場が開業する。
1987(昭和62)年、8月健康回復村に温泉をとボーリングを開始するが結果がでなかった。
1989(昭和64・平成元)年、パンケナイのサケ・マス孵化場が廃止され、「枝幸漁業協同組合歌登さけ・ますふ化場となる。9月健康回復村にグリーンパークホテルが完成する。宿泊施設は6階建て、2357平方m、収容人員は120名。国鉄美幸線跡の大曲トンネルを活用し、「新牽牛橋」が竣工する。
1990(平成2)年、天の川トンネル着工する。
1993(平成5)年、旧国鉄美幸線の橋梁を撤去する。
2006(平成18)年、3月(旧)枝幸町、歌登町と対等合併し、枝幸町が成立した。
枝幸町史・歌登町史・歌登町史第2巻参考
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