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道の駅 富士見

住所 天塩郡遠別町字富士見46番地1
TEL 01632-7-3939
直売所 9時〜17時 
定休日  期間中無休。(2020(令和2)年4月リニューアルオープンの予定)

遠別町

天塩の由来は天塩川、アイヌ語の「テシ・オ」「テシュオ」(梁(やな)・ある)から。
遠別町の由来は、アイヌ語の「ウェンペッ」(悪い川)からと言われているが、実際は「ウイベチ」(相語る川)からだそうだ。
他にも、「ウイエベツ」(さわがしい川)、という意味もあるそうだが、いずれにしても稲作の実る肥沃な地を造りだす川だけに後者であって欲しいと願う。
富士見の由来は、アイヌ語の「クマウシユナイ」(物乾し・多くある・川)、「オネトンナイ」(大鴨の棲止する沢、または川尻に近い小川)の二つの地名からなっていたもので、北6線以北をオネトンナイ、以南をクマウシユナイと呼称していた。熊牛内部落、熊臼内部落とも言われていた。1939(昭和14)年の字名改正の時に富士見となった。
稚内市と留萌市を結ぶ、国道232号線沿いにあり、遠別町市街地から約1.3kmほど。

開駅は1993(平成5)年4月で、メイン施設はとんがりかん。駐車場とトイレ、直売所が国道沿いにあり、丘の上にあるレストランがとんがりかんだ。
晴れた日には、利尻富士を望むこともできる絶好のロケーション。
隣接して、道の駅の脇から坂を登ると富士見ヶ丘公園がある。キャンプ場、パークゴルフ、アスレチック広場、木製の展望台がある。展望台からは天気が良ければ日本海越しに利尻山も見ることができる。
国道を挟んで海側には、遠別川の河口周辺を利用して作られた河川公園があり、海水浴場「みなくるびーち」や釣り場、遊歩道が整備されている。キャンプ場もあり、開設期間は5月1日〜10月31日まで、1泊1張り500円、キャンプ場利用の際は道の駅富士見で手続きする必要がある。炊事棟、トイレ2棟の設備もある。問い合わせは01632-7-3939

日本の稲作の北限地でもあり、おこわの米も地元産を使っているそうだ。遠別町北部の水田は1918(大正7)年の春、佐藤吉蔵氏により清川311番地付近に造田が始まり現在に至る。水稲としては世界的に最北であろうと考えられている。日本最北の水田もある。

2017(平成29)年1月に撮ったもの。


富士見地区は、1877(明治10)年頃、苫前郡から移り住んだ細野イクと日高アイヌのアンナメ夫婦が狩猟生活を送っていたが、1887(明治20)年頃にアンナメが行方不明となりイクはその後独身を通し、1911(明治44)年に亡くなった。
恩田駅逓所で渡し守として働くアイヌ名、アジヤ(和名岡部佐一)は和人に親しまれたアイヌであったが1919(大正8)年に亡くなった。アイヌ名は不明だが佐々木与吉は丸木舟を操るのに長け、大水の後の川を渡るには与吉の渡しでなければ渡れなかったという。1916(大正5)年にメノコと相次いで亡くなった。1907(明治40)年頃まで遠別川流域の一部にアイヌ墓地の土葬跡が残っていた。
最初の和人移住者は、白幡源太郎氏で1885(明治18)年に焼尻島から「たら漁」をしていた最中に時化で、オネトン浜(遠別川流域)に漂着し越冬する。春に帰島し1887(明治20)年に再度7人の漁民と共に入地し、漁撈の傍ら土地を開墾し遠別町の草分けとなった。
1939(昭和14)年の字名改正の時に富士見となったが、この由来は「市街地ニ接続ノ一部海浜部落ニシテ海上高ク利尻富士ヲ眼前ニ眺望セラルルニ依ル」が由来となっている。
 明治期の漁家10戸では、ホッキ貝曳き、延縄漁で「かじか」「かすべ」「カレイ」を主流とし、「ししゃも」も当時は沢山獲れた。「ニシン」は、大正期に入ってから開始し、ニシンの最盛期は1953(昭和28)年くらいまでで、大勢のヤン衆が網元で働いた。翌年の1954(昭和29)年頃にはニシンが不漁となり以後衰退し、富士見の浜は無人となった。
明治後期には、滋賀県人の田中角次郎が歌越〜北里に至る日本海沿岸の浜砂金鉱区の許可を得て採掘した。田中角次郎、浅利丑五郎、土屋千代吉等によって祠が創始されたが、これより前に苫前からきた漁師が、京都伏見稲荷を奉斉して安全を祈願したのを田中氏等が1坪半の祠を建て祀った。その後富士見稲荷神社の社殿を1934(昭和9)年にオネトン浜に造営するが、遠別神社が村社となり合祀となった。
水田は、1923(大正12)年5月に山口島吉氏が、翌年には穀蔵与吉氏が富士見の無名沢からの引水で造田したが、海岸に近いこともあり収量はほとんどなかった。
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