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宮の台展望台

住所 天塩郡豊富町徳満
開設期間 雪がない時期(冬季除雪は無い)
駐車場 無料 20台程
トイレ あり(冬季トイレ閉鎖)

豊富町観光協会

天塩の由来は天塩川、アイヌ語の「テシ・オ」「テシュオ」(梁(やな)・ある)から。
豊富の由来は、初めは川の名称をとって、エベコロベツ(現・下エベコロベツ川流域)又は旧村名である沙流と二つの地名をよんでいたが、1908(明治41)年、エコロベツ住民会で村名を豊富と決定する。エベコロベツはアイヌ語で(魚(食物)を持つ川・なんでも豊富にある川(場所))という意味で「豊富」と称するようになった。
徳満の由来は、1907(明治40)年に愛知県人で名古屋出身の泡谷牧場225町歩の中に砂原栄次郎、高木栄蔵、下田永太郎、篠崎巳之吉が小作人として入植したのが始まりで、1917(大正6)年に部落住民の会合にて部落名を「福満」と定め呼称することになった。しかし、1926(大正15)年、9月天塩南線の幌延〜兜沼間が延伸開業し、徳満駅を新設する。このとき「徳満」と決定したこともあり改称した。
宮の台の由来は、かつては「徳満展望台」と呼ばれていたが、サロベツ原野の開発事業に着手することになり「サロベツ展望台」と呼ばれていたが、1963(昭和38)年7月に義宮殿下(日本の皇族。昭和天皇と香淳皇后の第二皇男子。常陸宮正仁親王)が視察され、その後、現在の「宮の台展望台」と呼ばれるようになった。
国道40号線沿いのJR宗谷本線徳満駅そばの道道923号メナシベツ豊富線の旧道をメナシベツ方向に約900mほど。

広大なサロベツ原野を見渡せる展望台で、JR宗谷本線の徳満駅から約1km。
豊富市街地からは約6kmほどの小高い丘の上に立つ公園として整備され、1967(昭和42)年10月に当時の北海道開発長官の来町を機会に現在の鉄骨展望台となった。
高さは5.1m。展望者制限は50人。工費120万円で作られた。周囲にはトイレや自販機が設置され、あまりメジャーな観光スポットで無いこともあり観光客は少ないがその分ゆっくり堪能できるだろう。
階段を上ると、展望台からは天気が良ければ利尻山(利尻富士)や「上サロベツ」原野を見ることができ、眺望は素晴らしい。


宮の台展望台について
 従来その所在地の地名から徳満展望台と称して
いたが、サロベツ原野の開発がいよいよ具体化さ
れ事業に着手する頃から、サロベツ展望台と称さ
れた。その後、昭和三十八年七月十四日、義宮殿下
がこの地を視察し、サロベツ原野を遠望された
ことから宮の台展望台と命名された。
 眼下に望むサロベツ原野は東西八キロ、南北
二十七キロ、面積約二万ヘクタールで日本の低地
における代表的な湿原で大切に保護されています。
この広さを東京の山の手線に比べると二つがすっ
ぽり入る広さであり、ここから眺める雄大な景観
は、永久にあなたの思い出から消えることはない
でしょう。


豊富町酪農発祥の地
由来
豊富町の酪農発祥の地は、徳満地区であります。
 大正元年に北海道種畜場より短角牛(肉用アシヤー種)
を太田松次郎氏が導入し、その後大正7年には乳牛エヤー
シャー種を太田博氏が導入して搾乳を開始され、これを
豊富市街地へ搬送し本町ではじめて市乳として販売さ
れました。
 そのご徐々に各地においても乳牛を飼う者が年を追って
増えはじめこの頃から天北農業は酪農に切替わるべき趨
勢となり、幾度の試練を乗り越えてきた努力の結果が実
り現在は管内一の酪農の町に成長しました。
 この不朽の功績を忘れることのないよう、豊富町「酪農
発祥の地」としてモニュメントを建設しました。
平成10年8月建立
豊富町 豊富町農業協同組合 豊富町観光協会
豊富町酪農発祥の地徳満地区記念像設立期成会

1907(明治40)年に愛知県人で名古屋出身の泡谷牧場225町歩の中に砂原栄次郎、高木栄蔵、下田永太郎、篠崎巳之吉が小作人として入植したのが始まりで、開拓当時は鬱蒼とした未開の地であった。
入植者は拝み小屋を建て、入植者は一戸当たり10町歩の土地を借受け開墾を始めた。開墾は困難を極め、まず取り掛かったのは巨木を切り倒し、周りに火が移らないように夜通し燃やした。そして抜根と熊笹の根を取り、三年目で1町5反ほどの畑がやっとできたという。麦を主にイナキビ、野菜などを植え収穫した。しかしこの開墾を妨げていた巨木は、中川以北全域で起きた山火事により焼失して、その後の開墾は比較的楽だったようである。
入植当時は、天塩から食料品や生活用品を購入していた。当時は乗り物は無かったが、その後造材業者が天塩から入ってくるようになり冬季間はその馬橇を利用して買い出しに行ったりした。1908(明治41)年太田松次郎が泡谷牧場の40戸分を買い、小作人を入地させ太田農場と称した。1912(明治45)年5月には西7線210番地に八幡神社を建立する。1932(昭和7)年には神殿、拝殿共に改築した。

徳満地区は、豊富村で最初に酪農を取り入れた地区であり、豊富町史では1915(大正4)年に太田松次郎氏が乳牛を飼育したのが始まりと記載がある。1930(昭和5)年には酪農組合水谷有吉氏の協力を得て、太田博氏が牛舎の裏に牛乳分離所を設置したが、1937(昭和12)年に豊富牛乳分離所ができ、これと合併した。1948(昭和23)年には雪印乳業豊富集乳所に合併し、1965(昭和40)年にはホクレンが集乳業者となり移行された。
入植当時から昭和30年頃までは穀類、馬鈴薯などを主に農家が多かったが、1960(昭和35)年頃からは全農家が酪農に切り替え、現在では近代化された酪農部落として進展している。


約7000〜5500年前、サロベツ原野に人が住み始める。
1596(慶長元)〜1614(慶長19)年間、この頃テシホ場所設置される。
1700(元禄13)年、2月松前藩は全島地図「松前郷帳」(小川養甫作成)を幕府に提出する。同地図に「テシホ」の地名が初めて載る。
1719(享保4)年、飛騨屋久兵衛が、石狩、天塩国の蝦夷松を伐採し、用材を本州に出す。
1786(天明6)年、場所請負制が始まり、紀伊国商人の栖原屋角兵衛を請負人とする。
1798(寛政10)年、松平忠明が東西蝦夷地を巡視し、天塩を経て宗谷に達する。
1801(享和元)年、4月松平忠明が再び天塩を経て宗谷に達する。
1804(文化元)〜1818(文政元)年、この頃間宮林蔵この沿岸を測量(伊能忠敬の全島沿岸実測図として完成)
1807(文化4)年、西蝦夷地が松前藩領から天領(幕府直轄領)になる。近藤重蔵が、天塩川を遡り上川に入り周辺の平野を探検する。
1821(文政4)年、幕府、蝦夷地を松前藩に返還する。
1833(天保4)年、栖原屋の天塩番人平八郎がはじめて越冬する。天塩の和人越冬の始まり。
1840(天保11)年、マシケ以北の出稼許可され、江差・福山・南部・津軽地方の漁民この地方に姿を見せはじめる。この頃(天保〜弘化)年代、止宿所が設けられ井戸も掘られた。それ以前は水を天塩より馬で運んだと云う。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が天塩に訪れる。ワッカサクナイ(稚咲内)に立ち寄る。
1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。天塩が秋田藩領になる。
1856(安政3)年、松浦武四郎が天塩内陸踏査のため再び訪れる。ワッカサクナイに立ち寄る。
1857(安政4)年、松浦武四郎がサロベツ沿岸を調査、サロベツ川流域を記録する。
1858(安政5)年、ワッカサクナイを通過し、利尻山の雄大な眺めとともに、建物や蔵と井戸があった事を記録に残している。
1859(安政6)年、天塩、苫前、留萠、天売、焼尻が庄内藩領になる。
1869(明治2)年、8月15日蝦夷を改め北海道と名づけ開拓使を設置。11国86郡を設定し、天塩国に上川・中川・利尻・天塩・苫前・焼尻の6郡を定め水戸藩が支配する。
1870(明治3)年、天塩郡など一帯の場所持だった栖原屋は権利を失うが出稼ぎという名目で事業は継続される。ワッカサクナイ(現・稚咲内)に官設宿泊所設置。
1871(明治4)年、各藩の分轄統治が廃され、天塩地方は水戸藩支配から開拓使の管轄となる。12月栖原屋角兵衛は、天塩国一円、焼尻、天売地区の漁場持を開拓使より許可される。
1872(明治5)年、9月開拓使宗谷支庁がおかれ、天塩国、北見国の宗谷、枝幸、利尻、礼文がその管轄下となる。宗谷支庁の中主典佐藤正克が天塩川を遡り、沿岸の地勢や現地人の事情を調査する。
1873(明治6)年、2月開拓使宗谷支庁が留萠に移され留萠支庁となる。
1875(明治8)年、3月開拓使留萠支庁が廃され、開拓使札幌本庁の管轄下となる。出張所を置く。
1878(明治11)年、7月郡区町村編成法により、天塩郡の天塩・幌延・遠別・沙流(豊富村)の村名が創設される。
1879(明治12)年、7月留萠に留萠、増毛、苫前、天塩、中川、上川の郡役所を置く。
1882(明治15)年、開拓使廃止され函館、札幌、根室の三県設置し、この地方は札幌県に属する。4月天塩村に天塩・中川・上川三郡を管轄する戸長役場が設置された。
1886(明治19)年、4月天塩村の戸長役場が苫前に移される。天塩には派出所が置かれる。天塩地方は道庁札幌管内に属する。宗谷から利尻、礼文の定期航路運航始まる。
1893(明治26)年、6月天塩郡の各村にあった戸長役場を天塩に再び設置する。
1897(明治30)年、6月天塩村の戸長役場管轄から中川・上川両郡を分離する。天塩材時代と呼ばれ、林業が盛んになる。剣渕村に戸長役場を設ける。11月郡役所廃止に伴い増毛支庁を設置する。苫前村から羽幌村が分離する。
1899(明治32)年、5月増毛支庁管内の天塩国上川郡を上川支庁に移管する。下サロベツに福井県から団体入植する。
1900(明治33)年、一級町村制施行。上サロベツ、下サロベツ原野の国有未開地の貸下げ始まる。ワッカサクナイ駅逓所開設する。取扱人は和井内輝慶。
1902(明治35)年、羽幌村が二級村となる。梅村庄次郎が兜沼に入り、アイヌの音吉の案内で現地を調査する。
1903(明治36)年、4月遠別村分立。天塩村外2ケ村戸長役場が置かれこれに属す。岐阜団体梅村庄次郎ほか12戸が兜沼に入植した。
1906(明治39)年、奈良県人の加納久三郎が東豊富一帯に数百町歩を得て農場を経営する。越後団体の佐藤久二郎他が入植する。山形団体の工藤多喜太他が入植する。沙流神社建立する。
1907(明治40)年、柏倉玄融大谷派説教所(現・天塩郡豊富町字豊富東1条2丁目 光寿寺)を開設した。沼の端(現・兜沼)特別教授所を開設した。天塩、ペンケ沼間の川ポート初航した。狩太団体が入植する。泡谷牧場開設する。ペンケ沼に長門船の波止場開設する。渡辺左右治が初めて商店兼旅館を開設する。嘉納久三郎農場開設する。足立亀松が兜沼で雑貨商を営む。相馬団体が入植する。成田精作牧場開設する。越後団体入植する。目梨別に太田文次郎らが入植する。
1908(明治41)年、エコロベツ住民会で村名を豊富と決定する。沙流第二簡易教育所創設(兜沼小学校の前身)。天塩尋常小学校付属沙流第一特別教授場創設(現・豊富小学校の前身)。
1909(明治42)年、4月幌延、沙流の2村が天塩村より分村し幌延外1ヶ村戸長役場が幌延に置かれた。羽幌村が一級村となる。官設上サロベツ駅逓所開設。取扱人は梅村庄次郎。
1911(明治44)年、エコロベツ駅逓所開設。取扱人は加藤東三郎。豊富〜兜沼間の道路開通する。
1914(大正3)年、村井吉兵衛が目梨別で石油試掘開始する。
1919(大正8)年、幌延・沙流(現・豊富)両村合併し、幌延村となり2級町村制が施行される。
1922(大正11)年、宗谷線(天北線)全線開通。目梨別駅逓所開設する。
1924(大正13)年、6月天塩北線の稚内〜兜沼間を開業、抜海・勇知・兜沼駅を新設。
1925(大正14)年、7月天塩南線の問寒別〜幌延間を延伸開業、雄信内・安牛・上幌延・幌延駅を新設
1926(大正15)年、幌延、兜沼間鉄道布設工事が竣工し宗谷本線が全通した。東豊富で石油を試掘している最中、天然ガスとともに温泉が湧き出た。
1927(昭和2)年、サロベツ湿原の排水路掘削が始まる。村井鉱業株式会社重役が温泉で浴場経営する。
1928(昭和3)年、目梨別にて村井石油鉱掘削着手。
1930(昭和5)年、電信電話取扱業務開始する。川島旅館創業。兜沼神社移転新築する。
1932(昭和7)年、天塩電灯株式会社が発電所を建設し、ガス発電により豊富温泉・東豊富・豊富市街に電気が点く。有明駅逓所・豊田駅逓所開設する。
1933(昭和8)年、豊富温泉株式会社が創立される。
1937(昭和12)年、6月豊富、日曹炭礦開坑。
1940(昭和15)年、旧沙流村を幌延村より分村し2級町村制を施行、豊富村となる。世帯数 1291戸、人口 7521人。北沢部落を豊幌と改称・大井戸部落を豊徳と改称・ワッカサカナイ部落を稚咲内と改称する。
1943(昭和18)年、8月兜沼公園が景勝地に指定される。
1947(昭和22)年、三菱鉱業株式会社が豊幌において炭鉱採掘開始。
1948(昭和23)年、豊富・兜沼に農業協同組合が設立された。行政区間の変更により宗谷支庁管内となる。
1957(昭和32)年、北海道電力株式会社が日本初の事業用ガスタービン発電所を開設。
1958(昭和33)年、町営元湯館新築。
1959)昭和34)年、1月町政を施行し豊富町となる。
1965(昭和40)年、利尻・礼文・稚内市・豊富町の一部が、利尻礼文サロベツ国定公園に指定される。豊富温泉スキー場が開設。
1967(昭和42)年、10月徳満宮の台展望台が完成する。
1972(昭和47)年、ガスタービン発電所閉鎖。7月日曹炭鉱が閉山した。
1973(昭和48)年、10月豊富温泉天然ガスR-4号井自噴する。
1974(昭和49)年、9月利尻・礼文・サロベツ国立公園指定される。
1976(昭和51)年、2月日本甜菜糖株式会社が泥炭採取開始する。6月サロベツ湿原に木道整備する。有明の奥メナシベツ川の支流オミヤブノサワ川で甌穴発見する。11月豊富町役場兜沼支所移転する。12月豊富温泉スキー場でペアリフト完成する。
1978(昭和53)年、6月レストハウス「サロベツ」新築する。稚内市で温泉(稚内温泉)が湧き出たため、日本最北端温泉では無くなる。
1979(昭和54)年、11月元湯館火災により焼失。
1982(昭和57)年、11月町営ニューホテルサロベツがオープン。
1983(昭和58)年、8月温泉地区でR-9号井天然ガス採掘調査行う。
1984(昭和59)年、9月郷土資料室開設。11月高レベル放射性廃棄物処理施設誘致反対豊富町民の会発足する。
1985(昭和60)年、8月株式会社豊富牛乳公社設立する。
1986(昭和61)年、7月R-10号井ガスボーリング実施する。
1987(昭和62)年、5月サロベツ原生花園ビジターセンター開館。8月温泉レクリエーションランド(パットゴルフ場など)オープンする。9月放射性廃棄物問題調査特別委員会設置する。
1988(昭和63)年、12月元湯館跡地にふれあいセンター新設、営業開始。
1989(平成元)年、幌延ビジターセンター開館。
1990(平成2)年、5月兜沼公園に「やすらぎの湯」オープンする。
1992(平成4)年、3月スキー場ロッジ「ヒルズハウスウエルカム」完成する。6月兜沼郷土資料室開室する。7月国道40号線にバイパス計画出される。
1994(平成6)年、6月国道40号線豊富バイパス着工式挙行。
1995(平成7)年、9月兜沼オートキャンプ場完成。
1996(平成8)年、5月兜沼オートキャンプ場・温泉自然観察館オープンする。
1998(平成10)年、9月天然ガス採掘深査。
1999(平成11)年、1月豊富町温泉保養宿泊所「湯快宿」オープン。
2002(平成14)年、11月豊富町100周年記念式典。
2005(平成17)年、サロベツ原野がラムサール条約湿地となる。幌富バイパス工事着工する。
2004(平成16)年、4月町営ニューホテルサロベツを民間へ譲渡。11月豊富バイパスの豊富サロベツIC〜豊富北IC間が開通する。
2009(平成21)年、町営ニューホテルサロベツ廃業。
2010(平成22)年、3月幌富バイパスの幌延IC〜豊富サロベツIC間が供用開始する。
豊富町史・豊富町史第二巻参考

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