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中頓別鍾乳洞

住所 枝幸郡中頓別町字旭台
TEL 01634-6-1299
開園期間 4月下旬〜10月下旬 9時30分〜16時30分
料金は無料。駐車場も無料。

中頓別町

枝幸(えさし)の由来は、アイヌ語の「エサウシ」(岬)から。2006(平成18)年3月20日旧枝幸町と旧歌登町が合併し、現在の枝幸町となった。
中頓別の由来は、アイヌ語の「トー・ウン・ペッ(湖から出る川)」からであり、頓別川の中流に位置するため「中」が付いた。
旭台の由来は、アイヌ語の「ポロ・ピラ」(大きな崖のあるところ)で、弥生の一部・寿・旭台辺りをそう呼んでいた。1908(明治41)年の36線(現・藤井地区)に入植した道徳安二が1913(大正2)年旭台から豊泉に至る地域に原野426町歩を借受け「道徳農場」を開いた。その後名寄の久保与作の手に渡り「久保農場」となったが、旭台になったいきさつはわからなかった。
国道275号線沿いの中頓別駅前線(中頓別鍾乳洞の看板有)に入り約75mほどを左折し、約3.2kmの交差点を右折、道なりに約1kmほどに駐車場がある。

中頓別町市街から4kmほど離れた場所にあり、中頓別鍾乳洞自然ふれあい公園に、北海道で最初に発見された日本最北の鍾乳洞「中頓別鍾乳洞」がある。 管理棟である「ぬく森館」の中には、鍾乳洞のパネルや化石が展示されている。
頓別川の支流にある衣笠の滝の奥に軍艦岩ががあり、春は芝桜の絨毯が広がる。秋には紅葉が周囲の野山を染める。
この軍艦岩の一帯は、長い間風雨にさらされ、岩肌が風化してできた層が幾重にも刻まれているのがわかる。この岩は石灰層からなり、ホタテやホッキなどの貝殻化石を含んでいる。この旭台一帯は、厚さ15〜40mほどにも及ぶ二層の貝殻化石を包む石灰岩でできている。軍艦岩だけでも約20mほどの高さがあり、この岩のそばには鉄製の階段があり、軍艦岩の上に登れる。さらに艦尾方向へ進む通路があり、しばらく歩くと山腹に洞窟がある。

一般公開されているのは、第一洞で、主洞(60m)と交差する2本の支洞(110m)の3層構造だが見応えある。手すりや階段などが整備されており、懐中電灯も入り口にあるので、借りて中に入ってみて欲しい。
登る途中、体をかがめないと入れないような場所もある。私も数度石の天井に軽くぶつけたほどだ注意してほしい。ヘルメットも入り口にあるので付けるといいだろう。一番奥にある急な階段を登ると行き止まりとなり、その向こうには隙間が…。(写真は第一洞)

案内板
中頓別鍾乳洞第一洞案内
● 鍾乳洞を形成するのは石灰岩で、サンゴ礁や貝殻な
 どの生物遺骸が集まって堆積してできた岩石です。
  鍾乳洞は、石灰岩が雨水や地下水によって長い年月
 をかけ、少しずつ溶かされてできた洞穴のことです。
  石灰岩は炭酸カルシウムを主成分とする岩石で、雨
 水や地下水が接触すると少しずつ溶けていき、この作
 用が長い年月をかけ、洞穴となったものが鍾乳洞です。

● 日本の代表的な鍾乳洞は、中生代から古生代(約一億
 年前〜二億五千万年前)の地質時代のものが多く、日
 本の鍾乳洞の多くは一億年〜二億年前に形成された石
 灰岩の中にあります。また新しい時代に形成された鍾
 乳洞としては、新生代古第三紀、新生代第三紀、新生代
 新第三紀(約三百万年前〜約三千万年前)に形成され
 た鍾乳洞も確認されております。

● 中頓別鍾乳洞は、新生代第三紀(約一千万年前)に堆
 積した中頓別層中に形成された新しい鍾乳洞で、中頓
 別層石灰岩は、ごく新しい時代に貝殻片(ホタテガイ
 やフジツボ類)の大量堆積によりできた地層です。
  このような新しい地質時代に貝殻片が密集してで
 きた、石灰分の割合の高い地層であることが珍しく、
 その中に発達した鍾乳洞ということで、日本では非常
 に珍しく、学術上極めて貴重なものとなっています。

● 雨水や地下水に溶けた石灰分は、方解石という結晶
 になり、洞穴の中で再び石に戻ります。この石は場所
 により形が変わります。形の違いから、鍾乳石、石筍
 (せきじゅん)、石柱(せきちゅう)、リムストーン【畦石
 (あぜいし)】、フローストーン(流れ石)、花状石灰華、
 ヘレクタイト、ケイブパール、浮遊カルサイトなどと呼
 ばれ、鍾乳石や石筍は、一センチメートル形成されるの
 に数百年以上かかると言われています。
 鍾乳洞内にはいろいろな形をした溶食形態が残り、
 水中、水面の上、水面付近で出来るものの三つに区分
 され、中頓別鍾乳洞では水中で出来るポケット、水面付
 近で出来るメアンダー・トレンチ、ノッチ、波状溶食痕
 など様々な自然の造形がみられます。


1917(大正6)年に洞窟が発見されたとあるが、この辺りは造材関係者や、旭台の奥では「北見金山」の開発も進められたことから以前からその存在は知られていた可能性がある。
洞窟の存在はしばらく忘れられていたが、1933(昭和8)年に村の青年たちが洞窟内部の探検を、中頓別郵便局の村田義積氏ら7名で見に行ったことから始まる「そういえば旭台の山中にも妙な洞窟がある。内部は暗くてよく分からないが、ひょっとしたら鍾乳洞ではないか」と一行はカンテラにロウソクの火を灯し発見する。壁をよじ登り、天井の低い洞内を這い進み、探検すること4時間、当時の科学雑誌を読んだ青年たちは、鍾乳石や石筍と同じような石が天井から垂れ下がり足もとから石が盛り上がっているのを見た。さらに付近には同じような洞窟があるのを確認した。
「洞窟は鍾乳洞らしい」という青年たちの報告からあっという間にその噂は村内に広まり、見物客が洞窟に次々と訪れた。
 当時の役場教育係主任だった田農吉雄氏も調査に出向く。青年たちが発見した第一洞、第二洞の他に、軍艦岩の北側にも人一人がもぐれるほどの長さ10mほどの第三洞の発見をする。さらに雑貨商を営む作見小平氏も第三洞の南側に長さ35mほど、内部の高さ20mほどの天井がある二層式の第四の支洞を発見する。洞窟は内部で複雑につながっている可能性が考えられた。作見氏はこれがきっかけでこの後熱烈な洞窟保護者となる。その後専門家の鑑定を当時の村長が、北大理学部地質学教室に調査を依頼した。
 同年夏、同教室の鈴木教授と学生らが洞窟内を調査した結果。洞窟は貝殻化石の石灰層の中にできた鍾乳洞で、貝殻片が密集して出来た石灰分の割合が高い地層は世界的にも珍しく、その中に発達した鍾乳洞ということで、学術上きわめて貴重なものとなっている。
この鍾乳洞は、新生代第三紀(約2300万年〜160万年前)の二枚貝やフジツボの殻化石で出来た貝殻石灰岩の中に形成され、新しい地質年代の珍しい鍾乳洞である。
1938(昭和13)年12月に文部省指定天然記念物に指定された。指定を受けてから村では支洞の入り口は金網で塞ぎ、主洞は洞窟内を破壊しないように届け出を して許可を受けるようにしたが、管理人も居ないこともあり、勝手に入った見物客が鍾乳石や石筍を金槌で叩いて記念に持ち帰る者が後を絶たなかった。
しかし作見氏は、入洞が野放しだった洞窟を守るため「中頓別鍾乳洞協賛会」を設立する。案内板を整備し、町教育委員会に働きかけ入洞を許可制にし、役所に代わって「入洞許可証」を発行し、洞窟の保全に当たった。この他にも戦後に軍艦岩のそばに桜の幼木が5本あり、作見氏は桜の名所にすることを思い立つ、1952(昭和27)年のことだった。
作見氏は、町内の有志の協力を求めて八重桜20本を購入し一人で植樹をした。桜の苗木はその後、エゾヤマザクラに切り替えて続けられたが抜いて持ち帰る者が居たり、厳しい風雨に枯れるなどしてなかなか実現しなかったようである。
1953(昭和28)年には町内から寄付を集め、人夫を雇い、取り付け道路から軍艦岩までの1km。軍艦岩から各洞までの遊歩道約500mの改修工事を行った。他にも笹刈りなどは毎年自費で人夫を雇い整備を続けたのである。その後1957(昭和32)年に北海道天然記念物になった。
作見氏の、この無償の奉仕は彼が晩年動けなくなるまで続けられたが、1977(昭和52)年にこの世を去った。
 1985(昭和60)年には町嘱託の小沼甚平氏がここを任されるのである。小沼氏はこの軍艦岩の辺りが芝桜の栽培に適していることに気づく。これからたった一人で斜面を切り開き、町内の協力を求め毎年こつこつと芝桜の苗を植え、現在は綺麗な芝桜の絨毯が毎年春に見られるようになっている。
その後、1990(平成2)年から洞窟の整備に着手する。主洞の入り口から奥に60mに渡り土砂を取り除き、洞窟奥への階段と照明を設置する。翌年には案内看板を設置し、洞窟内には説明板も設置する。その後も整備は進み現在に至る。

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