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日曹炭鉱(株)跡地之碑

住所 天塩郡豊富町本流
豊富町観光協会

天塩の由来は天塩川、アイヌ語の「テシ・オ」「テシュオ」(梁(やな)・ある)から。
豊富の由来は、初めは川の名称をとって、エベコロベツ(現・下エベコロベツ川流域)又は旧村名である沙流と二つの地名をよんでいたが、1908(明治41)年エコロベツ住民会で村名を豊富と決定する。エベコロベツはアイヌ語で(魚(食物)を持つ川・なんでも豊富にある川(場所))という意味で「豊富」と称するようになった。
本流の由来は、エベコロベツ川の本流の流域にあることから部落名となった。
豊富市街地の国道40号線道道84号豊富浜頓別線の大通り10丁目交差点を浜頓別方面へ約15.8kmほど左手に看板がある。

本流地区は、石炭鉱区が多く、石炭は宗谷夾炭層に含まれ、日曹天塩鉱業所も1972(昭和47)年まで操業した。石炭の稼行区域は幌延断層以東にに限られ、宗谷夾炭層では背斜、向斜を反復し、鬼志別層、増幌層の下部にも採炭できる層がある。
石油と天然ガスは、増幌層に起因するものの、増幌層は地表に露頭していることもあり、油田としては有望ではなかった。
日曹地区は、本流地区からさらに上流約4kmほど奥に入り、1904(明治37)年4月本願寺農場の管理人であった大阪の人長門勇輔氏が、57万8000坪の鉱区を獲得し、幌延炭鉱と称して日曹地区での石炭採掘を計画した。
当初の事務所は幌延にあり、幌延から本流を経て日曹に至る道は当時、刈り分け道しかなかった。1909(明治42)年に試掘し、1911(明治44)年まで操業した。坑夫は約30名ほどで本願寺農場の小作人を使用した。当時採鉱したのは後の三坑区域というところで、当時は大谷抗と呼ばれ露天掘りだった。
1日に3〜5tほど採掘、夏は貯炭し、冬季になると馬橇に乗せて幌延まで運び、そこから天塩川を舟で手塩に搬出したが、輸送条件の不備から試掘段階で頓挫する。1911(明治44)年5月京都東本願寺の大谷光暢によって鉱区が所有されるが、昭和10年代までほとんど試掘はされなかった。
中断されていた日曹地区の開発は、宗谷線(後の宗谷本線)の開通と入植者の増加と共に敷設された幌延〜沼川間の植民軌道の開通で日曹鉱区は、1937(昭和12)年に本格的な開発を行う。

1936(昭和11)年5月日本曹達株式会社の傍系である、日曹鉱業株式会社が資本金5000万円を投じ、大谷光暢から鉱区を買収し、翌年5月からの開坑のための準備をする。7月には会社の重役ら数十名が現地調査を行った。
この調査で、炭層の有望性が確認され、道路を整備して、必要な物資を本流の駅逓所から馬で運んだ。9月には41人の坑夫が採用され、旧大谷抗付近で露天掘りをし、10月に第一坑の採炭に着手する。
次第に近隣の、南沢、北沢、福永、目梨別、その他部落から続々と入山し従業員が増えていく。採炭事業も順調に進むが、交通機関がないため、採炭しても冬期間までは輸送ができない状態が続いていた。これに加えて食糧事情も悪く、幌延から馬車や馬橇で運ぶしかなかった。
1938(昭和13)年には、鉄道職員住宅を建設し、第一発電所が建設される。第一坑の奥約5km地点に第二坑を開設することになる。部落が一の沢、二の沢、熊の台の三区画にし、炭鉱街の態勢が整い、豊富〜日曹間16.7kmに専用鉄道を敷設するために初代事務長である渡辺守氏が奔走し、工事着手の運びとなり、札幌新川組が工事を担当し、1940(昭和15)年2月に完成したが、幌延へのルートではなく、豊富に決定されたのは稚内港を石炭積出港として利用した場合の送炭費が安かったのが大きな要因となった。

1939(昭和14)年6月には、第一発電所からの送電が開始され、熊の台に日曹神社の造営を行い、11月には水洗選炭機を設置し、仮選炭場を設け、選炭に着手する。これにより従来は日曹の石炭は評判が悪かったが、選炭機の導入により好評を受けるようになった。1940(昭和15)年6月第二発電所が落成し、炭鉱の世帯数も410戸、人口は1980人となった。
1941(昭和16)年、第二坑を休抗し、第一抗を主力とし選炭場を建設した。
1942(昭和17)年、出炭量は月産6000tを越えた。
1943(昭和18)年、建設中の選炭場が操業開始。この頃から戦争が拡大したこともあり、労働者に朝鮮人などを使役するようになってきた。また「タコ部屋」もあり、坑道の労働者構成が朝鮮人の労働に大きく依存していった。労働者は1941(昭和16)年に163人。1942(昭和17)年に193人。1943(昭和18)年に220人。1944(昭和19)年に299人を使役していた。
開坑当時の採炭方法は、石頭(せっとう)ハンマーとタガネによる「手堀り」も行われたようだが、削岩機での採炭がほとんどだったようである。

1947(昭和22)年1月には日本曹達株式会社に合併となり、同会社が集中排除法(1947(昭和22)年12月に公布施行され、1980(昭和55)年7月に廃止された法律。「過度経済力集中排除法という」独占組織である財閥の解体と反独占政策が進められた)による財閥解体会社に指定され、1949(昭和24)年12月企業再建整備計画により、資本金1800万円をもって、日曹炭鉱株式会社が設立され、天塩鉱区では18鉱区を保有することとなった。
日曹地区でも、戦後の石炭ブームに伴い戦前の炭鉱住宅地区の他に、新町一区、二区、富岡町、川向等に新たな炭鉱住宅地区が形成されていくが、1955(昭和30)年2月には、元々日曹炭鉱の経営の不安定さもあって人員削減を行い、日曹天塩炭鉱を休山する。5月再建準備をし、採鉱区は一坑を廃抗とし、三抗に集中し、9月から採炭を開始。鉄柱、カッペ(炭鉱の天盤を支持するための金属製の梁)、カッターを導入した。
1956(昭和31)年1月に選炭場が全焼する。
1961(昭和36)年には、17万tの成績を挙げる。
1967(昭和42)年4月、坑内自然発火にて大きな被害を受ける。第三抗区域を石炭合理化事業団に、整理促進交付金の申請を行うと共に、隣接する三菱鉱業株式会社所有の鉱区を12月に譲り受け、事業も順調に進んだ。
1971(昭和46)年、12月この頃から石炭需要が停滞し始め、1972(昭和47)年度に入ると積出港である稚内港や留萌港に貯炭が増えていくようになる。5月臨時職員や組夫などを解雇する。7月閉山を決める。閉山時にいた、251戸937人のほとんどが転出していくこととなる。

この碑の向かい側には、日曹小中学校があったようだが遺構は残ってはいない。1938(昭和13)年9月開校し、1973(昭和48)年3月末閉校となった。
往時は日曹炭鉱天塩砿業所専用線(鉄道)も走り、病院や警察署、映画館もあった。現在は残る遺構は少なく、鉄道の切通し跡、鉄橋跡、ターンテーブル跡、コンクリート製の小屋などが残り、碑の手前の道道沿には使途不明のコンクリート遺構が見られるが関係があるのかはわからなかった。
碑の建立は、1997(平成9)年10月11日。豊富町・炭鉱在住者一同・関係協力者一同によって建立されたもので、以前は火葬場があった場所とのこと。

本流は、エベコロベツ川の本流の流域にあることから部落名となった。1878(明治11)年7月郡区町村編成法により、天塩郡の天塩・幌延・遠別・沙流(豊富村)の村名が創設される。1899(明治32)年下サロベツに福井県から団体入植する。1900(明治33)年一級町村制施行。上サロベツ、下サロベツ原野の国有未開地の貸下げ始まる。1906(明治39)年奈良県人の加納久三郎が東豊富一帯に数百町歩を得て農場を経営する。越後団体の佐藤久二郎他が入植する。山形団体の工藤多喜太他が入植する。沙流神社建立する。1907(明治40)年柏倉玄融大谷派説教所(現・天塩郡豊富町字豊富東1条2丁目 光寿寺)を開設した。狩太団体が入植する。泡谷牧場開設する。ペンケ沼に長門船の波止場開設する。相馬団体が入植する。越後団体入植する。1908(明治41)年エコロベツ住民会で村名を豊富と決定する。天塩尋常小学校付属沙流第一特別教授場創設(現・豊富小学校の前身)。1909(明治42)年4月幌延、沙流の2村が天塩村より分村し幌延外1ヶ村戸長役場が幌延に置かれた。1911(明治44)年エコロベツ駅逓所開設。取扱人は加藤東三郎。豊富〜兜沼間の道路開通する。
 この地方は、傾斜地が多く、1911(明治44)年に道下佐十郎、久保源三郎、春木金太郎らが入植したのが開拓の始まりである。その後南沢(下エベコロベツ川の南側)から団体移住があり開拓が進んでいく。この頃の開拓は幌延を基点に始まったもので、下エベコロベツ川流域の川を境にして、南を「南沢」、北を「北沢」と川に沿って本流には十数戸の入植者があった。
入植当時は、エベコロベツ川にウグイ、ヤマベ、イワナ等の魚が沢山居て、アイヌの方々も5〜9月まで季節的にここに来て、熊狩りをしたり、川魚を獲りに来ていたようで、9月下旬には内地(現・日高町あたり)に帰ると称して帰っていった。
 1919(大正8)年幌延・沙流(現・豊富)両村合併し、幌延村となり2級町村制が施行される。1926(大正15)年東豊富で石油を試掘している最中、天然ガスとともに温泉が湧き出た。
 部落をとりまく周囲には、石炭鉱区が多く、1929(昭和4)年手塩の大滝高見、中田鶴吉、豊幌の小林久左衛門、小見山彦摩等が共同出資して、吉村鉱区(その後の日曹鉱区)の試掘を行った。1932(昭和7)年、天塩電灯株式会社が発電所を建設し、ガス発電により豊富温泉・東豊富・豊富市街に電気が点く。1933(昭和8)年豊富温泉株式会社が創立される。1937(昭和12)年6月豊富、日曹炭礦開坑。1940(昭和15)年旧沙流村を幌延村より分村し2級町村制を施行、豊富村となる。
1955(昭和30)年頃から本流地区では、寒地農業の政策がとられ、牛を導入し酪農家が増えたが、現在では数戸しか残っていない。1957(昭和32)年北海道電力株式会社が日本初の事業用ガスタービン発電所を開設。1959(昭和34)年1月町政を施行し豊富町となる。1972(昭和47)年ガスタービン発電所閉鎖。7月日曹炭鉱が閉山した。過疎が進む。


約7000〜5500年前、サロベツ原野に人が住み始める。
1596(慶長元)〜1614(慶長19)年間、この頃テシホ場所設置される。
1700(元禄13)年、2月松前藩は全島地図「松前郷帳」(小川養甫作成)を幕府に提出する。同地図に「テシホ」の地名が初めて載る。
1719(享保4)年、飛騨屋久兵衛が、石狩、天塩国の蝦夷松を伐採し、用材を本州に出す。
1786(天明6)年、場所請負制が始まり、紀伊国商人の栖原屋角兵衛を請負人とする。
1798(寛政10)年、松平忠明が東西蝦夷地を巡視し、天塩を経て宗谷に達する。
1801(享和元)年、4月松平忠明が再び天塩を経て宗谷に達する。
1804(文化元)〜1818(文政元)年、この頃間宮林蔵この沿岸を測量(伊能忠敬の全島沿岸実測図として完成)
1807(文化4)年、西蝦夷地が松前藩領から天領(幕府直轄領)になる。近藤重蔵が、天塩川を遡り上川に入り周辺の平野を探検する。
1821(文政4)年、幕府、蝦夷地を松前藩に返還する。
1833(天保4)年、栖原屋の天塩番人平八郎がはじめて越冬する。天塩の和人越冬の始まり。
1840(天保11)年、マシケ以北の出稼許可され、江差・福山・南部・津軽地方の漁民この地方に姿を見せはじめる。この頃(天保〜弘化)年代、止宿所が設けられ井戸も掘られた。それ以前は水を天塩より馬で運んだと云う。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が天塩に訪れる。ワッカサクナイ(稚咲内)に立ち寄る。
1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。天塩が秋田藩領になる。
1856(安政3)年、松浦武四郎が天塩内陸踏査のため再び訪れる。ワッカサクナイに立ち寄る。
1857(安政4)年、松浦武四郎がサロベツ沿岸を調査、サロベツ川流域を記録する。
1858(安政5)年、ワッカサクナイを通過し、利尻山の雄大な眺めとともに、建物や蔵と井戸があった事を記録に残している。
1859(安政6)年、天塩、苫前、留萠、天売、焼尻が庄内藩領になる。
1869(明治2)年、8月15日蝦夷を改め北海道と名づけ開拓使を設置。11国86郡を設定し、天塩国に上川・中川・利尻・天塩・苫前・焼尻の6郡を定め水戸藩が支配する。
1870(明治3)年、天塩郡など一帯の場所持だった栖原屋は権利を失うが出稼ぎという名目で事業は継続される。ワッカサクナイ(現・稚咲内)に官設宿泊所設置。
1871(明治4)年、各藩の分轄統治が廃され、天塩地方は水戸藩支配から開拓使の管轄となる。12月栖原屋角兵衛は、天塩国一円、焼尻、天売地区の漁場持を開拓使より許可される。
1872(明治5)年、9月開拓使宗谷支庁がおかれ、天塩国、北見国の宗谷、枝幸、利尻、礼文がその管轄下となる。宗谷支庁の中主典佐藤正克が天塩川を遡り、沿岸の地勢や現地人の事情を調査する。
1873(明治6)年、2月開拓使宗谷支庁が留萠に移され留萠支庁となる。
1875(明治8)年、3月開拓使留萠支庁が廃され、開拓使札幌本庁の管轄下となる。出張所を置く。
1878(明治11)年、7月郡区町村編成法により、天塩郡の天塩・幌延・遠別・沙流(豊富村)の村名が創設される。
1879(明治12)年、7月留萠に留萠、増毛、苫前、天塩、中川、上川の郡役所を置く。
1882(明治15)年、開拓使廃止され函館、札幌、根室の三県設置し、この地方は札幌県に属する。4月天塩村に天塩・中川・上川三郡を管轄する戸長役場が設置された。
1886(明治19)年、4月天塩村の戸長役場が苫前に移される。天塩には派出所が置かれる。天塩地方は道庁札幌管内に属する。宗谷から利尻、礼文の定期航路運航始まる。
1893(明治26)年、6月天塩郡の各村にあった戸長役場を天塩に再び設置する。
1897(明治30)年、6月天塩村の戸長役場管轄から中川・上川両郡を分離する。天塩材時代と呼ばれ、林業が盛んになる。剣渕村に戸長役場を設ける。11月郡役所廃止に伴い増毛支庁を設置する。苫前村から羽幌村が分離する。
1899(明治32)年、5月増毛支庁管内の天塩国上川郡を上川支庁に移管する。下サロベツに福井県から団体入植する。
1900(明治33)年、一級町村制施行。上サロベツ、下サロベツ原野の国有未開地の貸下げ始まる。ワッカサクナイ駅逓所開設する。取扱人は和井内輝慶。
1902(明治35)年、羽幌村が二級村となる。梅村庄次郎が兜沼に入り、アイヌの音吉の案内で現地を調査する。
1903(明治36)年、4月遠別村分立。天塩村外2ケ村戸長役場が置かれこれに属す。岐阜団体梅村庄次郎ほか12戸が兜沼に入植した。
1906(明治39)年、奈良県人の加納久三郎が東豊富一帯に数百町歩を得て農場を経営する。越後団体の佐藤久二郎他が入植する。山形団体の工藤多喜太他が入植する。沙流神社建立する。
1907(明治40)年、柏倉玄融大谷派説教所(現・天塩郡豊富町字豊富東1条2丁目 光寿寺)を開設した。沼の端(現・兜沼)特別教授所を開設した。天塩、ペンケ沼間の川ポート初航した。狩太団体が入植する。泡谷牧場開設する。ペンケ沼に長門船の波止場開設する。渡辺左右治が初めて商店兼旅館を開設する。嘉納久三郎農場開設する。足立亀松が兜沼で雑貨商を営む。相馬団体が入植する。成田精作牧場開設する。越後団体入植する。目梨別に太田文次郎らが入植する。
1908(明治41)年、エコロベツ住民会で村名を豊富と決定する。沙流第二簡易教育所創設(兜沼小学校の前身)。天塩尋常小学校付属沙流第一特別教授場創設(現・豊富小学校の前身)。
1909(明治42)年、4月幌延、沙流の2村が天塩村より分村し幌延外1ヶ村戸長役場が幌延に置かれた。羽幌村が一級村となる。官設上サロベツ駅逓所開設。取扱人は梅村庄次郎。
1911(明治44)年、エコロベツ駅逓所開設。取扱人は加藤東三郎。豊富〜兜沼間の道路開通する。
1914(大正3)年、村井吉兵衛が目梨別で石油試掘開始する。
1919(大正8)年、幌延・沙流(現・豊富)両村合併し、幌延村となり2級町村制が施行される。
1922(大正11)年、宗谷線(天北線)全線開通。目梨別駅逓所開設する。
1924(大正13)年、6月天塩北線の稚内〜兜沼間を開業、抜海・勇知・兜沼駅を新設。
1925(大正14)年、7月天塩南線の問寒別〜幌延間を延伸開業、雄信内・安牛・上幌延・幌延駅を新設
1926(大正15)年、幌延、兜沼間鉄道布設工事が竣工し宗谷本線が全通した。東豊富で石油を試掘している最中、天然ガスとともに温泉が湧き出た。
1927(昭和2)年、サロベツ湿原の排水路掘削が始まる。村井鉱業株式会社重役が温泉で浴場経営する。
1928(昭和3)年、目梨別にて村井石油鉱掘削着手。
1930(昭和5)年、電信電話取扱業務開始する。川島旅館創業。兜沼神社移転新築する。
1932(昭和7)年、天塩電灯株式会社が発電所を建設し、ガス発電により豊富温泉・東豊富・豊富市街に電気が点く。有明駅逓所・豊田駅逓所開設する。
1933(昭和8)年、豊富温泉株式会社が創立される。
1937(昭和12)年、6月豊富、日曹炭礦開坑。
1940(昭和15)年、旧沙流村を幌延村より分村し2級町村制を施行、豊富村となる。世帯数 1291戸、人口 7521人。北沢部落を豊幌と改称・大井戸部落を豊徳と改称・ワッカサカナイ部落を稚咲内と改称する。
1943(昭和18)年、8月兜沼公園が景勝地に指定される。
1947(昭和22)年、三菱鉱業株式会社が豊幌において炭鉱採掘開始。
1948(昭和23)年、豊富・兜沼に農業協同組合が設立された。行政区間の変更により宗谷支庁管内となる。
1957(昭和32)年、北海道電力株式会社が日本初の事業用ガスタービン発電所を開設。
1958(昭和33)年、町営元湯館新築。
1959)昭和34)年、1月町政を施行し豊富町となる。
1965(昭和40)年、利尻・礼文・稚内市・豊富町の一部が、利尻礼文サロベツ国定公園に指定される。豊富温泉スキー場が開設。
1967(昭和42)年、10月徳満宮の台展望台が完成する。
1972(昭和47)年、ガスタービン発電所閉鎖。7月日曹炭鉱が閉山した。
1973(昭和48)年、10月豊富温泉天然ガスR-4号井自噴する。
1974(昭和49)年、9月利尻・礼文・サロベツ国立公園指定される。
1976(昭和51)年、2月日本甜菜糖株式会社が泥炭採取開始する。6月サロベツ湿原に木道整備する。有明の奥メナシベツ川の支流オミヤブノサワ川で甌穴発見する。11月豊富町役場兜沼支所移転する。12月豊富温泉スキー場でペアリフト完成する。
1978(昭和53)年、6月レストハウス「サロベツ」新築する。稚内市で温泉(稚内温泉)が湧き出たため、日本最北端温泉では無くなる。
1979(昭和54)年、11月元湯館火災により焼失。
1982(昭和57)年、11月町営ニューホテルサロベツがオープン。
1983(昭和58)年、8月温泉地区でR-9号井天然ガス採掘調査行う。
1984(昭和59)年、9月郷土資料室開設。11月高レベル放射性廃棄物処理施設誘致反対豊富町民の会発足する。
1985(昭和60)年、8月株式会社豊富牛乳公社設立する。
1986(昭和61)年、7月R-10号井ガスボーリング実施する。
1987(昭和62)年、5月サロベツ原生花園ビジターセンター開館。8月温泉レクリエーションランド(パットゴルフ場など)オープンする。9月放射性廃棄物問題調査特別委員会設置する。
1988(昭和63)年、12月元湯館跡地にふれあいセンター新設、営業開始。
1989(平成元)年、幌延ビジターセンター開館。
1990(平成2)年、5月兜沼公園に「やすらぎの湯」オープンする。
1992(平成4)年、3月スキー場ロッジ「ヒルズハウスウエルカム」完成する。6月兜沼郷土資料室開室する。7月国道40号線にバイパス計画出される。
1994(平成6)年、6月国道40号線豊富バイパス着工式挙行。
1995(平成7)年、9月兜沼オートキャンプ場完成。
1996(平成8)年、5月兜沼オートキャンプ場・温泉自然観察館オープンする。
1998(平成10)年、9月天然ガス採掘深査。
1999(平成11)年、1月豊富町温泉保養宿泊所「湯快宿」オープン。
2002(平成14)年、11月豊富町100周年記念式典。
2005(平成17)年、サロベツ原野がラムサール条約湿地となる。幌富バイパス工事着工する。
2004(平成16)年、4月町営ニューホテルサロベツを民間へ譲渡。11月豊富バイパスの豊富サロベツIC〜豊富北IC間が開通する。
2009(平成21)年、町営ニューホテルサロベツ廃業。
2010(平成22)年、3月幌富バイパスの幌延IC〜豊富サロベツIC間が供用開始する。
豊富町史・豊富町史第二巻参考

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