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松浦武四郎宿営地 オンカンランマ

住所 天塩郡天塩町雄信内(オヌプナイ)(国道40号線の雄信内川の栄橋堤防)

天塩町

天塩の由来は天塩川、アイヌ語の「テシ・オ」「テシュオ」(梁(やな)・ある)から。
雄信内の由来は、アイヌ語の「オ・ヌプ・ン・ナイ」(川尻にある川)または「オノプナイ」(平原に出る沢)から。
国道40号線沿いにあり雄信内川の堤防沿いにある。

1857(安政4)年、幕末の探検家・松浦武四郎の北海道探検としては第5回目にあたり、4人のアイヌたちとともに、石狩川河口からハママシケ(浜益)を経由して天塩川河口に至り、その後は川筋をたどる形でポロヌプ(幌延)、(オヌプナイ)雄信内、(ポンピラ)中川、(オトイネプ)音威子府、(ピウカ)美深と歩き、(ナイプト)名寄をベースキャンプにしてさらに本流、支流を探検し、ペンケヌカナン(現・朝日町の御科三線)源流近くまで到達した。天塩日誌には当時の天塩川流域の様子や、アイヌの風俗・習慣なども描かれている。

6月8日、サコカイシから出発する。ウフシテ(左川、天塩町産士)、ヘンケウフシテ(左川)、オチヨホッテ(右川、法華)、ペンケオチヨホッテ(右川)、タツカリトウフト(右川)、タカヤシリ(左山)、オオチヨウヌ(左中川)、を過ぎてフレヒラ(平地)、モシウナイ(左川)、オンカンランマ(平地、幌延町安牛)で野宿する。蚊は前日よりも増しており食事中は火の煙でしのいだが、トイレにも事欠いて着物の裾をまくりあげて川で用を足さないといけないほどだったという。それにもまして気温が低く、火に当たっているのが心地よかったほど寒く、本土とかなりの差があると書いてある。


6月9日、夜明け前に出発する。リオナイ(右川)、オヌフナイ(左中川、天塩郡幌延町雄信内川)、この川の源には山があり、トシベツ(枝幸郡頓別)の川の源と山を隔てて向かい合っている。(問寒別川ではないだろうか?)、ヒラハオマナイ(右川)、モイツオマナイ(右川)、タンタサモイ(右川)、この辺りの川底は平らな岩盤で急流で舟を上げるのに苦労する。ここの右手に見える山は天塩の運上屋からアベシナイ(安平志内川・中川郡中川町)に越える山道の峠にあたる山とのこと。シユマサンナイ(左川)、ホンシユマベツ(左川)、トイカンベツ(右中川、天塩郡幌延町問寒別・左川で現在の雄信内川)、この川には沢山のウグイがいた。ホロムイ、ここは河岸が砂地。ここを過ぎるとモイワオマナイ(左川)、ホンヒイ(左川)、オウコツモイ(平地)アイカフ(左川)、ペンケアイカフ(左川)、ニオベツ(右川、中川郡中川町)、クンネシリ(右山)、ホンナイ(右川)、ホロナイ(右川)、ベカンベトウフト(左川)、トブシ(左山)、ヤムワッカナイ(左川)、カマソウ(急流)、岩が川の両側に突き出して滝になって落ちているところで、カマドに似ていることからこの名がついた。ここは舟を網で引いて上がる。この川底にはビバ(蛙、ふとがい、カラスガイ)が沢山いて、水底が真っ黒に見えるほどで少しの時間で沢山(二斗・約36リットルほど)獲れた。今夜はホロヒリブト(左川・歌内橋上流付近)で野宿する。今日の行程は約十里。

実際に宿泊したのは幌延町安牛の千曲川付近とされ、多くの方に知って頂けるよう、歴史紀行表示板を現在地に設置した。
6月29日、行程を折り返してきた武四郎一行は、ペンケナイ(中川郡中川町)からタカヤシリ(天塩郡幌延町)に野宿する。この日鶴が多く居て一晩中その鳴き声を聞いた。

6月30日、夕方には天塩の役所に着く。

雄信内(オヌプナイ)地区は、江戸期から見られる地名で、松浦武四郎が著した「丁巳日誌」には「ヲヌフナイ・・・・・此処え上川土人等飯料取りに下り居る由聞儘船を入て見るに、三丁計上に丸小屋一ツ有れども誰も不居」とある。
 1900(明治33)年に秋田県人の泉波為治が小作人数人と入植したことに始まる。入植当時ここにはアイヌの人々は住んでいなかったようで、コタンの跡もなかった。1901(明治34)年不便もあって5月に川舟(長門船)を作り運輸の便も開いた。1902(明治35)年12月ウブシに官設駅逓設置する。のちにオヌプナイに移設。泉波氏は官設の駅逓や渡船場設置にも積極的に動き開設と共にその任に当たった。この頃は陸路が無く、アイヌの丸木舟で物資を載せ天塩川を航行した。オヌプナイ地区に通じた最初の道は、1901(明治34)年に開削された円山〜オヌプナイ間で、現在の国道より東側につけられたものである。 1905(明治38)年頃には小さな集落ができ、教育所・各派説教所も設けられる。市街地が出来たのは1907(明治40)年頃で急速に入植者が増えた。造材夫も多かったようである。1910(明治43)年1月オヌプナイ市街予定地に字名設置する。1911(明治44)年雄信内郵便局開設する。
 1915(大正4)年4月天塩村に二級町村制が施行される。天塩村オヌプナイとなる。1924(大正13)年4月一級町村制が施行され、町制を施行し「天塩町」となり、天塩町オヌプナイとなる。1925(大正14)年7月天塩南線の問寒別〜幌延間が延伸開業し、雄信内駅、安牛駅、上幌延駅、幌延駅を新設する。
 1967(昭和42)年5月天塩川改修切替えによる幌延町との境界を変更し、一部を幌延町に編入する。


約3000年前(紀元前10世紀)、先住民族天塩川河口に竪穴住居を営み始める。
1596(慶長元)〜1614(慶長19)年、この頃テシホ場所設置される。
1689(元禄2)年、松前藩士蛎崎七之丞が藩命で西蝦夷地である留萠、天塩海岸を調査する。
1690(元禄3)年、松前藩が藩士と工夫を羽幌地区に派遣し、砂金を採取する。
1700(元禄13)年、2月松前藩は全島地図「松前郷帳」(小川養甫作成)を幕府に提出する。同地図に「テシホ」の地名が初めて載る。
1719(享保4)年、飛騨屋久兵衛が、石狩、天塩国の蝦夷松を伐採し、用材を本州に出す。
1786(天明6)年、場所請負制が始まり、紀伊国商人の栖原屋角兵衛を請負人とする。
1798(寛政10)年、松平忠明が東西蝦夷地を巡視し、天塩を経て宗谷に達する。
1801(享和元)年、4月松平忠明が再び天塩を経て宗谷に達する。
1804(文化元)年、栖原屋の支配人(栖原彦兵衛)天塩台地に小堂を建て弁財天をまつる。(厳島神社の創始)
1804(文化元)〜1818(文政元)年、この頃間宮林蔵この沿岸を測量(伊能忠敬の全島沿岸実測図として完成)
1807(文化4)年、西蝦夷地が松前藩領から天領(幕府直轄領)になる。
1821(文政4)年、幕府、蝦夷地を松前藩に返還する。
1833(天保4)年、栖原屋の天塩番人平八郎がはじめて越冬する。天塩の和人越冬の始まり。
1840(天保11)年、マシケ以北の出稼許可され、江差・福山・南部・津軽地方の漁民この地方に姿を見せはじめる。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が天塩に訪れる。
1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。天塩が秋田藩領になる。
1856(安政3)年、松浦武四郎が天塩内陸踏査のため再び訪れる。
1857(安政4)年、6月6日松浦武四郎が天塩川河口からさかのぼり、源流近くまでを探検する。
1859(安政6)年、天塩、苫前、留萠、天売、焼尻が庄内藩領になる。
1869(明治2)年、8月天塩地方は水戸藩領となる。
1870(明治3)年、留萠郡は山口藩の支配となる。天塩郡など一帯の場所持だった栖原屋は権利を失うが出稼ぎという名目で事業は継続される。
1871(明治4)年、各藩の分轄統治が廃され、天塩地方は水戸藩支配から開拓使の管轄となる。12月栖原屋角兵衛は、天塩国一円、焼尻、天売地区の漁場持を開拓使より許可される。
1872(明治5)年、9月開拓使宗谷支庁がおかれ、天塩国、北見国の宗谷、枝幸、利尻、礼文がその管轄下となる。宗谷支庁の中主典佐藤正克が天塩川を遡り、沿岸の地勢や現地人の事情を調査する。10月天塩所在の会所が駅逓扱所となる。
1873(明治6)年、2月開拓使宗谷支庁が留萠に移され留萠支庁となる。
1874(明治7)年、天塩郵便取扱所開設する。駅逓(通行屋)の川村能右衛門が取扱人となる。
1875(明治8)年、3月開拓使留萠支庁が廃され、開拓使札幌本庁の管轄下となる。出張所を置く。
1876(明治9)年、天塩の厳島神社が村社となる。
1878(明治11)年、7月郡区町村編成法により、天塩郡の天塩・幌延・遠別・沙流の村名が創設される。
1879(明治12)年、7月留萠に留萠、増毛、苫前、天塩、中川、上川の郡役所を置く。
1882(明治15)年、4月天塩村に天塩・中川・上川三郡を管轄する戸長役場が設置された。
1886(明治19)年、4月天塩村の戸長役場が苫前に移される。天塩には派出所が置かれる。天塩地方は道庁札幌管内に属する。宗谷から利尻、礼文の定期航路運航始まる。
1893(明治26)年、6月天塩郡の各村にあった戸長役場を天塩に再び設置する。
1895(明治28)年、3月道庁告示で天塩村予定市街地を設定し、海岸通り、山ノ手通り、山ノ手裏通りの字名を置く。
1896(明治29)年、天塩村の土地貸付始まる。
1897(明治30)年、6月天塩村の戸長役場管轄から中川・上川両郡を分離する。天塩材時代と呼ばれ、林業が盛んになる。剣渕村に戸長役場を設ける。11月郡役所廃止に伴い増毛支庁を設置する。苫前村から羽幌村が分離する。
1898(明治31)年、6月天塩炭砿着業する。12月四原野(オヌプナイ、ウブシ、サラキシ、天塩川口)の1263.3万坪払い下げられ、越中・岩手・山形・宮城から入植する。武田与八郎らが川口原野に入植する。島地譲が団体を組織し更岸地区(現・天塩郡天塩町更岸)に入植する。
1899(明治32)年、5月増毛支庁管内の天塩国上川郡を上川支庁に移管する。10月私立天塩教育所を設置する。福井県寺本久左衛門が27戸を連れウブシ地区に土地貸付受ける。
1900(明治33)年、4月寺本久左衛門がウブシ原野西線南六号に入地する。秋田県人泉波為治小作人をオヌプナイ地区に入植する。
1901(明治34)年、3月富山県人藤沢仁左衛門・石沢初次郎が50万坪の貸付を受け下サロベツに入植する。12月天塩〜名寄間、天塩〜苫前間の仮定県道の全線開通う。円山〜オヌプナイ道路完成する。下沼の農会代表(天塩・苫前・留萠・増毛)に山田権左衛門がなる。
1902(明治35)年、天塩水産組合ができる。羽幌村が二級村となる。12月ウブシに官設駅逓設置する。のちにオヌプナイに移設。この年最初の牛が導入される。天塩市街〜下サロベツ間の道路開通する。
1903(明治36)年、4月遠別村分立。天塩村外2ヶ村戸長役場になる。
1905(明治38)年、宮城県人工藤勘兵衛らがコクネップ(現・天塩郡天塩町下コクネップ)御料地に入地する。
1908(明治41)年、4月更岸に遠藤金之助ら山形団体30戸が入植する。6月旭川営林区署天塩分署が設置される。
1909(明治42)年、4月幌延、沙流の2村が分立して天塩村戸長役場となる。羽幌村が一級村となる。
1910(明治43)年、1月オヌプナイ市街予定地に字名設置する。7月厳島神社を現在地に遷宮。天塩市街で大火。
1914(大正3)年、8月天塩電灯株式会社支店が開設、市街と川口原野に電灯が点く。9月留萌支庁の管下に入る。留萠管内農会議会に山田権左衛門が当選する。
1915(大正4)年、4月天塩村に二級町村制が施行される。苫前村に町政を施行する。500ワットの港湾照明塔を河口南側岸壁に設置する。
1917(大正6)年、4月村内の更岸、川口、第一、第二、啓徳、産士、幌萠の各教育所は尋常小学校に昇格となる。10月市街地で大火。市街全滅といわれた大火でのあと離村者続出する。
1919(大正8)年、4月遠別と幌延に二級町村制施行。
1921(大正10)年、4月羽幌に町制施行。
1922(大正11)年、11月宗谷線が宗谷本線に改称。天塩線の音威子府〜誉平間が開業し、筬島駅、神路駅、佐久駅、誉平駅を新設する。
1923(大正12)年、1月天塩郵便局で電話交換業務を開始した。国鉄羽幌線建設工事着工。11月手塩線の誉平〜問寒別間が延伸開業し、宇戸内駅、問寒別駅を新設する。
1924(大正13)年、4月一級町村制が施行され、町制を施行し「天塩町」となった。6月天塩線を天塩南線に線名を改称する。天塩北線の稚内(初代)〜兜沼間が開業し、抜海駅、勇知駅、兜沼駅を新設する。
1925(大正14)年、7月天塩南線の問寒別〜幌延間が延伸開業し、雄信内駅、安牛駅、上幌延駅、幌延駅を新設する。
1926(大正15)年、9月天塩南線の幌延〜兜沼間が延伸開業し、下沼駅、豊富駅、徳満駅、芦川駅を新設する。音威子府〜幌延〜稚内間が全通したことにより、当該区間を天塩線に改称する。沙流(現・豊富町)で石油掘削中に温泉噴出する。
1928(昭和3)年、8月天塩市街大火。
1930(昭和5)年、4月天塩線が宗谷本線に編入され、旭川〜幌延〜稚内港間が宗谷本線となる。それと同時に、音威子府〜浜頓別〜稚内間を分離、北見線(後の天北線)に改称する。
1935(昭和10)年、6月天塩線として幌延〜天塩駅間が開業し、振老駅・北川口駅・天塩駅を新設する。
1936(昭和11)年、10月天塩〜遠別駅間が延伸開業し、更岸駅・丸松駅・遠別駅を新設する。
1939(昭和14)年、日本鉱業が北川口で石油試掘する。
1941(昭和16)年、6月沙流村(現・豊富町)が幌延村より分離し豊富村として独立する。8月天塩海岸に津波襲来、番屋十数戸流出、8人死亡する。12月国有鉄道羽幌線羽幌〜築別間延伸開業する。12月羽幌炭礦鉄道線開業する。
1947(昭和22)年、4月留萠に市制施行。
1949(昭和24)年、4月遠別町に町制施行。帝国石油が北川口で石油の試掘を行う。
1952(昭和27)年、天塩港が地方港湾の指定を受け本格的な河口改修に着手した。
1953(昭和28)年、天塩保健所が開設される。
1955(昭和30)年、4月天売村が羽幌町に編入合併。
1957(昭和32)年、11月築別〜初山別駅間延伸開業し、天塩有明・天塩栄・初山別の各駅を新設する。
1958(昭和33)年、10月初山別〜遠別間を延伸開業し、天塩線を羽幌線に編入。羽幌線が全通する。豊岬駅・天塩大沢駅・共成駅・歌越駅・天塩金浦駅を新設する。
1959(昭和34)年、4月焼尻村が羽幌町に編入合併。豊富村に町制施行。
1960(昭和35)年、9月幌延村が町制施行。
1964(昭和39)年、5月中川村に町制施行。温泉資源の調査始める。
1965(昭和40)年、6月天塩川口遺跡調査の為、北大の大場博士らが発掘にあたる。12月産士地区電化となる。
1967(昭和42)年、5月天塩川改修切替えによる幌延町との境界を変更。11月天塩電報電話局が開局。水道が通る。
1971(昭和46)年、1月北川口にスキー場が完成する。
1973(昭和48)年、1月西産士にスキー場がオープンする。9月利尻・礼文・サロベツの一部を加えて国立公園となる。
1975(昭和50)年、第1回天塩川港まつり開催。
1980(昭和55)年、3月天塩町運動公園が設置される。9月天塩町開基100年記念式典挙行。
1982(昭和57)年、天塩町の文化財に「運上屋跡」(海岸通り4丁目)「天塩駅逓跡」(海岸通り2丁目)が指定される。
1983(昭和58)年、鏡沼海浜公園オープン。
1984(昭和59)年、2月羽幌線全線の貨物営業を廃止。9月石油資源開発公社が北川口・産士地区で石油・天然ガスの試掘をする。
1985(昭和60)年、8月第2次特定地方交通線として廃止承認。9月幌延町高レベル放射性廃棄物施設誘致反対天塩町民の会が設立される。
1987(昭和62)年、3月羽幌線の廃線に伴い廃止となる。沿岸バスにバス転換。5月川口遺跡風景林がオープンする。8月第一回日本海オロロンライントライアスロン国際大会が開催される。
1989(平成元)年、6月天塩川歴史資料館落成。
1990(平成2)年、2月動燃の高レベル放射性廃棄物貯蔵研究施設貯蔵工学センター誘致反対、天塩町民総決起大会が開催される。
1992(平成4)年、天塩新港開港。
1997(平成9)年、天塩消防100周年記念式典挙行。
1999(平成11)年、鏡沼海浜公園オートキャンプ場内で温泉湧出。
2000(平成12)年、てしお温泉夕映オープン。
2003(平成15)年、道の駅「てしお」オープン。
天塩町史参考・新天塩町史参考

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