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大金の滝

住所 枝幸郡浜頓別町宇曽丹

浜頓別町観光協会

枝幸(えさし)の由来は、アイヌ語の「エサウシ」(岬)から。
浜頓別の由来はアイヌ語「トー・ウン・ペッ」(湖沼に入る(行く)川)。「頓別川」からできた名前で、当時はトンベツと呼ばれ頓別川に河口に集落があった。1878(明治11)年には枝幸郡に枝幸、頓別、歌登、礼文の4ヶ村が設けら漢字が当てられる。1909(明治42)年に2級町村制施行により頓別、歌登、礼文、枝幸が枝幸村に併合となる。1916(大正5)年枝幸村(現・枝幸町)より分村し、2級町村制施行。頓別村となり役場を設置する。1918(大正7)年8月天北線の中頓別〜浜頓別間を延伸開業。下頓別駅・浜頓別駅を新設。駅名を「浜頓別」にした、以来この一帯を浜頓別と呼ぶようになる。1951(昭和26)年頓別村を浜頓別町と改め町制施行。
宇曽丹の由来は、頓別川の支流である宇曽丹川の下流一帯を宇曽丹と呼んだ。古い地図にはウソタンナイと表記されていた。
ウソタンナイとは、アイヌ語で「ウ・ソ・タ・アン・ナイ」(お互いに滝が掘っている川)という意味だがどういう状態を指しているか不明である。
大金の由来は、1932(昭和7)年頃に生まれた地名らしい。第二次砂金ブームの頃で砂金掘りの人々の実感としての地名ではないだろうか。
国道275号線道道586号豊牛下頓別停車場線の下頓別市街の交差点から枝幸・豊牛方向へ約2.0kmを右折し、約1.2kmを右折し、約550mほどの交差点をそのまま直進し宇曽丹橋を越えてそのままさらに進む(金山神社跡地・無縁仏の地の看板あり)。

ここ大金の滝は、浜頓別町の観光パンフにも載っているのだが、滝と言うほど大きな落差がある滝などは無く、このウソタンナイ川の中流域にあるいくつもの枝川などに小さな滝があるのでそれの総称だと思われ、いくつかの滝群の大半は砂金掘などで消滅、緩やかな段差となり、河川整備などもあり消滅してしまったと思われる。
秋になると鮭やカラフトマスが遡上する沢としても有名で、ヤマメ釣りなども盛んで解禁日には多くの人で賑う。
ウソタンナイ川の下流にはウソタンナイ砂金採掘公園があり、1986(昭和61)年6月ウソタンナイ砂金発見90周年を記念して、ウソタンナイ砂金採掘公園ゴールドハウスがオープンした。これはウソタンナイ川上流域一帯を史蹟として位置づけると共に、公園内を流れるウソタンナイ川で伝統的な道具を用い、実際に砂金採取の体験ができるようにしたものである。ユリイタやカッチャの使い方はかつてこの川で砂金を掘っていた半沢長十郎氏が指導した。
ここの砂金地は、かつて「枝幸砂金」と呼ばれ、1898(明治31)年8月ウソタンナイ川の上流で砂金が発見され、ゴールドラッシュが沸き「東洋のクロンダイク」といわれた。とうじ採取人はペイチャン川(中頓別町)と合せ約1万6千人を数え、それまで賑わっていたパンケナイ川周辺の採掘者がウソタンナイに殺到し人影が消えたという話もあるほど。

今回私が行ったのは8月で緑深く滝は全くわからなかった。写真を撮った場所は滝見橋から直下と上流部を撮影した。浜頓別町の浄水施設である宇曽丹浄水場(宇曽丹橋から上流へ約6.6kmほど)まで車で行った。途中には石垣などがあったが写真は撮っていない。集落跡もあったと思われるがもう風化して分からなくなっているようだ。浄水場の分岐から進もうと思ったが、道が狭く不安しかなかったのでUターンして戻ってきた。
ちなみに碑や標柱などは途中にはなかった。まだ先に行けばあったのかもしれない。

町の東南部のウソタンナイ川中流域の大金地区は、1898(明治31)年以降に砂金発見以降栄えた集落である。無縁仏の石塔・金山神社跡・コンクリート樋・事務所跡などがあるようだが詳細は分からなかった。1935(昭和10)年頃の集落はポロウエンナイ付近(支流であるナイ川付近)。1937(昭和12)年の頓別村当時は、二名の村会議員を出した。1951(昭和26)年10月頓別村を浜頓別町と改め町制施行し、字大金となっていた。現行では字名は残っているが残っているだけで行政としての区分は消滅していると2018(平成30)年10月12日に浜頓別町教育委員会に問い合わせ判明した。
ウソタン砂金地は、1898(明治31)年8月頓別川の支流ウソタンナイ川上流に豊富なる砂金の産出あり、採取人がペイチャン川(中頓別町)と合せ約1万6千人を数え、最初に発見したのは密採者グループで発見者の名前は分かっていない。明治期のゴールドラッシュはすさまじく1901(明治34)年発行の「枝幸砂金論」には「絢爛タル金粉金塊ハ、バケツヲ以テ搬バレ三二年ニ於ケル産物ノ巨額ハ、実ニ全国ヲ振動シ、東洋ノ宝庫ハカギ解ケタリ、日本ノクロンダイクハ発見セラレタリ」とある。
1899(明治32)年には鉱区出願者の最盛期となり、事務所1棟、物品販売所1棟、巡査発出所1棟建てられる。
1900(明治33)年には、ウソタンナイ砂金区(支流ナイ川)より205 匁(768.75g)の日本最大の金塊発掘。これは日本一の大きさでもある。ウソタン砂金地の集落には商店が立ち並び、鍛冶屋、蕎麦屋、餅屋、時計修繕など多種にわたる店があり熱気で満ちていた。
1901(明治34)年9月ウソタンナイ砂金山の採取者は442人。その他は密採取者は約2000〜3000人とも推定される。ウソタンナイのゴールドラッシュはこの頃までと言われている。
1912(明治45)年には金山神社を建立するが、砂金採掘者は神社を残して姿を消してしまう。
1931(昭和6)年この頃から再びウソタンナイ川にゴールドラッシュが巻き起こる。金山橋付近を中心に集落が出来て、日用品、酒などを売る商店ができ、行商が行き来した。この頃村会議員も輩出している。しかし戦時体制となり人々が去って行く。
1949(昭和24)年10月藤田組の子会社、北海道金山鰍創立し、ウソタンナイ砂金の機械掘り開始(昭和27年世界一の移動選金機導入)する。金山橋付近で枝幸鉱業所の事務所を構えて採取したが数年で採算が取れず閉山となった。その後、鉱業権は1965(昭和40)年5月に同和鉱業に移った。

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