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大畑山展望台

住所 枝幸郡中頓別町字上駒
営業期間 5月〜10月末まで
休園 11月から4月末

中頓別町

枝幸(えさし)の由来は、アイヌ語の「エサウシ」(岬)から。2006(平成18)年3月20日旧枝幸町と旧歌登町が合併し、現在の枝幸町となった。
中頓別の由来は、アイヌ語の「トー・ウン・ペッ(湖から出る川)」からであり、頓別川の中流に位置するため「中」が付いた。
上駒の由来は、アイヌ語の「シュルクオマナイ」(トリカブトがある川)「シュレコマナイ」とも呼んだ。
大畑の由来は、当時山の所有者が大畑氏だった事から。
国道275号線道道120号美深中頓別線との交差点から国道を音威子府方向に約2.4kmに小さな看板があるので右折し、約2.2kmを右折し200mほど。

標高109mの大畑山の標高95mほどに大畑山展望台がある。木製二階建ての東屋を兼ねた展望台からは中頓別の町並みや山々を見渡すことができる、中頓別バスーターミナルの看板には掲載されているが、かなり穴場である。私が訪問したのは11月の初旬だったため紅葉がとてもきれいでした。

その後大畑山を譲り受けた細谷氏(細谷建設株式会社)が2001(平成13)年に展望台を整備した。しかし年月が経ち展望台は周辺の樹木が大きく育ち見晴らしに影響が出たことから、2016(平成28)年土地所有者である細谷建設株式会社が樹木を剪定、伐採し市街地周辺まで見渡せるようになった。

動画では展望台に向かう道を通り過ぎて真っすぐ直進してしまい戻ってきたところも載せていますので展望台へは左方向へ登っているのであしからず。

林道の途中には鯉の池もあるが、優雅に泳いでいる姿を見るには水が濁りすぎていた。


上駒地区は、1913(大正2)年に殖民地区画が設置され、1914(大正3)年天野太一郎が福島団体7戸を率いて知駒内の沢に入植することに始まるようであるが、1895(明治28)年には頓別川の渡し守を川端多助・川村広太が請負っており、1897(明治30)年に砂金発見され、1万8000余人の採集者が中頓別付近に集まり賑わう。1901(明治34)年ウソタンナイのゴールドラッシュはこの頃までと言われている。1904(明治37)年5月楢原民之助氏が頓別原野36線(現・中頓別市街)に定住し、農耕に従事する。これが中頓別の農業の始まりで、同時期に開拓は始まっていたようで隣接地である寿地区付近に増区画地が策定され部落開拓の基礎が固まっていくのである。ここシュルクオマナイは頓別川を上下する渡船場口として開かれていった。1908(明治41)年には39線に集団入植があったようである。この地区は水運に大きく頼っていたようで、当時の頓別川と知駒内川の合流地点付近(道道785号豊富中頓別線の終点付近)に上り下りの渡し口があり物資の集散地として開かれていった。
 1916(大正5)年には知駒神社を創建する。4月枝幸村(現・枝幸町)より分村、2級町村制施行し頓別村となり役場設置。中頓別は頓別村に編入される。10月宗谷線(後の天北線)小頓別〜中頓別間を延伸開業し、敏音知駅・松音知駅・中頓別駅を新設する。上駒の石黒庄太郎が澱粉工場を操業する。
 1949(昭和24)年11月町制施行、中頓別町となる。この頃30戸ほどの住居があった。1955(昭和30)年には33戸204人となっている。1970(昭和45)年には知駒神社を中頓別神社に合祀する。

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