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ピンネシリ温泉 ホテル望岳荘

住所 枝幸郡中頓別町敏音知143-2
TEL  01634-7-8111
日帰り営業時間 10時30分〜21時
日帰り入浴料金 大人380円、小人160円
定休日 毎月第2・4月曜日
駐車場 施設前に数十台程度

中頓別町

ピンネシリ温泉「ホテル望岳荘」

枝幸(えさし)の由来は、アイヌ語の「エサウシ」(岬)から。2006(平成18)年3月20日旧枝幸町と旧歌登町が合併し、現在の枝幸町となった。
中頓別の由来は、アイヌ語の「トー・ウン・ペッ(湖から出る川)」からであり、頓別川の中流に位置するため「中」が付いた。
敏音知の由来は、アイヌ語の「ピン・ネ・シリ」(男である山)に由来する。頓別川上流東側に松音知(女である山)山と並んでいる。
音威子府市街地の国道40号線国道275号線の分岐から浜頓別方向に約26.0km。

国道275号沿い道の駅ピンネシリの向かいにある。
ピンネシリ温泉の一軒宿で「ホテル望岳荘」が、日帰り入浴も扱っている。客室は、全室和室(3〜4名まで宿泊可)で、トイレ洗面所は共同となっている。
敏音知岳や松音知岳への登山、スキー、フィッシング、キャンプなどのアウトドアを楽しむ利用者が多い温泉である。
男女別内風呂2つ・男女別サウナ1つ・男女別水風呂が1つという浴場。
1989(平成元)年に開湯し、1992(平成4)年からホテルが開業した。
泉質 ナトリウム・マグネシウム−炭酸水素塩・塩化物泉(中性低張性冷鉱泉)(旧泉質名:含塩土類 - 重曹泉)
源泉温度4.8℃、pH 7.0
効能 神経痛、筋肉痛、関節痛、冷え性、慢性婦人病など。


ここ敏音知地区は、入植当時美深町恩根内などから中川村ポンピラ(誉平)からポンピラ峠を越えてワッカウエンに出て、そこからさらに頓別川に出て入植地に落ち着いたという。陸路は全くなく、川筋から離れると藪の中を歩くしかなかった。
1906(明治39)年歌登に住む石井伝次が敏音知の下見に訪れる。
1907(明治40)年には咲来に通ずる仮定県道工事はじまる。1908(明治41)年には松音知に村上専太郎が、敏音知に家入清次郎他8戸27人が入植する。このとき枝幸出身の村上氏が枝幸の木材部の依頼で頓別原野でドロノキの調査をした際に、敏音知岳に登り、豊かな原野を望んだ際「頓別原野にまだ手付かずの土地が眠っている、ここなら100戸くらいの農家が入植できるのではないか」と当時の枝幸村役場の松山丈之助(鹿児島出身)に話したのがきっかけとなった。
その後松山氏は農場名目で546町歩の原野の貸付を受け、農場の管理は松山氏が請負っていた。さらに秋田の村山金次郎の名義で、上流の1100町歩を勅令286号「北海道国有林野及物産払下令」による不要林払名目で払下げを受け、関係者で権利を等分に分配した。
1909(明治42)年には2級町村制施行により頓別、歌登、礼文、枝幸が枝幸村に併合。
1913(大正2)年松山丈之助は薩摩農場の管理人となり、小作人を入れる。しかし小作人たちには支給などは一切なく、小屋、井戸などの一切は自費だったという。 薩摩農場に入ったのは35戸170人。懇地は100町歩ほどと農場の開拓は順調ではなかったようである。
1914(大正3)年8月石井伝次氏が敏音知に入植する。11月宗谷線(後の天北線)音威子府〜小頓別間が延伸開業し、上音威子府駅、小頓別駅を新設する。家入平次郎が熊本団体9戸を率いて敏音知に入植する。敏音知駅前で商店を開いた熊本県阿蘇の出身である家入利作(平次郎の弟)が農具から食料、種子まで移住者にとって欠かせない存在となった。
富山県出身の代蔵六次郎(恵三郎)は北越屋旅館を駅前に開く。商店も開き雑穀の仲買、米穀、雑貨なども扱った。木材ブームもあり代蔵木材部を開き貢献した。
当時敏音知での物品販売業は15戸、旅館3戸、料理・飲食店は7戸、請負業は3戸だったが現在はその面影はない。

温泉開発はかなりの苦労があったようで、頓別原野に宗谷線(後の天北線)が開通した後は、天塩側から天塩山地を越えて敏音知に至る「ポンピラ街道越え」が宗谷線と結ぶ最短ルートでもあった時期がある。その山道の途中に昔から冷泉があり、それが敏音知温泉の源泉である。
古くから知られていたこの冷泉を「このままにしておくのはもったいない。なんとか温泉に活用できないものか。」という地元民の要望もあり、道立衛生研究所に成分分析を依頼するのは1965(昭和40)年を過ぎてからである。
分析結果が出て、浴用・飲用の効能があるのは分かったのだが、泉源が山中にあることと、湧出量が少ないこともあり、敏音知まで導水して温泉として活用するには多額の費用がかかるため立ち消えになっていた。
その後、1985(昭和60)年6月に石井行雄氏が会長となり、敏音知の住民と共に「敏音知温泉開発促進期成会」を立ち上げ現地調査を行った。この頃既に「ポンピラ街道越え」は消えてなくなっていたが、一行は国道から林道に入り、その終点から徒歩で冷泉が沸いているところまで向かい発見する。期成会では有志がその冷泉を20リットルのポリタンクに入れ、源泉から川伝いに何度も往復し、約1000リットルを運び出し、福祉まつりの際に町民センターの岩風呂で、冷泉2割・水8割の湯を沸かし、試浴会なるものを開催する。その後「冷泉開発検討会」を設置し、冷泉の泉質の調査を再度道衛生部に依頼する。
分析表を受け取った開発委員会は着手を決定し、1986(昭和61)年には試験導水工事に着手した。導水管は約1.9km。毎分7.3リットルの導水に成功する。受水槽も設置したことにより、地元や近郊から冷泉をもらいに来るものが増え、口コミでその人気が広まった。
1987(昭和62)年8月に「中頓別観光開発会社」を設立した。その後1989(平成元)年4月敏音知307番地に木造平屋建て448平方メートルの保養センター「ピンネシリ・コミュニティ・センター」(通称・ピンネシリ温泉)をオープンした。
しかし日帰り入浴だけでは採算が合わなかったこともあり、1992(平成4)年4月に鉄筋コンクリート2階建て800平方m。収容人員30名の宿泊棟をオープンさせ「ピンネシリ温泉・ホテル望岳荘」と名付けた。
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