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松浦武四郎宿営地 サコカイシ

住所 天塩郡幌延町元町2番地(総合スポーツ公園)

幌延町

天塩の由来は天塩川、アイヌ語の「テシ・オ」「テシュオ」(梁(やな)・ある)から。
幌延とは、アイヌ語の「ポロ・ヌプ」(大きい・野原)が「ほろのぶ」と転訛しこれに「幌延」の漢字が当てられ、ほろのべと呼んだ。
元町の由来は旧市街地だったことから。
サコカイシの由来は、アイヌ語の「サク・カ・イ・ウシ」(夏になると湖水が増水する)に由来し、1915(大正4)年刊行された「新天地の天塩」に掲載されたものには、「ブイコトイ」又「サロベツ」ともいう。ブイコトイは、ブイコトイ・サクカエシ・上サクカエシの三部に別れるとある。産士と近接した当時の円山地区かとも思ったのですが、詳細はわかりませんでした。
幌延町元町の道道121号稚内幌延線道道256号豊富遠別線の交差点から中川町方向に約600mほど右手のスポーツ公園のトイレ横に設置されている。天塩町雄信内の国道40号線と道道256号豊富遠別線の交差点から幌延方向に約15.4km左手。

1857(安政4)年、幕末の探検家・松浦武四郎の北海道探検としては第5回目にあたり、4人のアイヌたちとともに、石狩川河口からハママシケ(浜益)を経由して天塩川河口に至り、その後は川筋をたどる形でポロヌプ(幌延)、(オヌプナイ)雄信内、(ポンピラ)中川、(オトイネプ)音威子府、(ピウカ)美深と歩き、(ナイプト)名寄をベースキャンプにしてさらに本流、支流を探検し、ペンケヌカナン(現・朝日町の御科三線)源流近くまで到達した。天塩日誌には当時の天塩川流域の様子や、アイヌの風俗・習慣なども描かれている。
6月6日、堀奉行から革沓一足、薬品(解毒丸三〇、風邪薬五〇)木綿五反(五色)などをもらい受ける。この日は天塩川を遡る準備をし、糧食や舟についてアイヌの方々(アエリンテンカ・トセツ・エコレ・トキコサン)に命じて急がせる。
6月7日、縄をとき舟を出す。舟を進めるとホンヘルニ(ブナ科のコナラの木)が生い茂っている。さらに進むとトウブト(右、沼の口)そばには渡し場(右岸)、その向かいにはコイトイ(烽火場、越問)、モヤシヤン(右岸)、ニイツエイ(北)を過ぎる。この辺りは平地である。またこの辺りはホンキキリ(ぬか蚊)が多く、これが群がってきてやりきれない。これに刺されると出血して腫れあがり痛む。さらに進み、オタヒラ(砂岸)、サルブト(サロベツ川口)このあたりシイキナ(蒲)が多い。ウコイトイ(ブイコトイ?)では小屋があり、鮭の漁場とのこと。オコツナイ(右川)、ヘニツエイ(平地)、この辺りから流れが屈曲してくる。ホロッヌプ(岬、天塩郡幌延町)、キウシナイ(右川)を過ぎて、サコカイシ(小川の上の沼、天塩町作返)で野宿する。
昼はホンキキリが多かったが、日が暮れるとヌマキキリ(夜蚊)が群れてやってくるようなので、先日頂いた油紙帳でしのいだ。今日の行程は凡そ九里である。


6月8日、サコカイシから出発する。ウフシテ(左川、天塩町産士)、ヘンケウフシテ(左川)、オチヨホッテ(右川、法華)、ペンケオチヨホッテ(右川)、タツカリトウフト(右川)、タカヤシリ(左山)、オオチヨウヌ(左中川)、を過ぎてフレヒラ(平地)、モシウナイ(左川)、オンカンランマ(平地、幌延町安牛)で野宿する。蚊は前日よりも増しており食事中は火の煙でしのいだが、トイレにも事欠いて着物の裾をまくりあげて川で用を足さないといけないほどだったという。それにもまして気温が低く、火に当たっているのが心地よかったほど寒く、本土とかなりの差があると書いてある。

6月29日、行程を折り返してきた武四郎一行は、ペンケナイ(中川郡中川町)からタカヤシリ(天塩郡幌延町)に野宿する。この日鶴が多く居て一晩中その鳴き声を聞いた。

6月30日、夕方には天塩の役所に着く。

多くの方に知ってもらうため、天塩川歴史紀行表示板は幌延町の総合スポーツ公園に設置されている。
サコカイシは天塩町と幌延町に架かる天塩大橋の約1.8km程上流に注ぐ作返川河口付近と思われるが、当時と現在ではかなり河口の位置が変わっていると思われ、近づくには堤防沿いを徒歩で行くしかない。
写真は作返から天塩川堤防(作返川河口付近を撮影したもの)付近。

文章は、丸山道子訳・松浦武四郎著「手塩日誌」を優先し参考としています。


1797(寛政9)年、松前藩士高橋壮四郎等西蝦夷地を調査し、天塩川を遡り石狩川にでる。
1798(寛政10)年、幕吏三橋藤右エ門等4名が宗谷探検の帰路に天塩川を遡り石狩にでる。
1800(寛政12)年、間宮林蔵が函館に来ていた伊能忠敬と師弟の約を結び、普請役雇となり、測量技術を学ぶ。
1803(享和3)年、間宮林蔵が東蝦夷地、南千島の測量をした。
1805(文化2)年、遠山金四郎が西蝦夷地を巡察する。
1807(文化4)年、近藤重蔵が、天塩川を遡り上川に入り周辺の平野を探検する。西蝦夷地が松前藩領から天領(幕府直轄領)になる。
1811(文化8)年、間宮林蔵天塩川を遡って実測をする。
1840(天保11)年、西蝦夷地増毛以北の漁民の出稼ぎを許可する。
1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。
1856(安政3)年、6月佐倉藩士窪田子蔵・佐治岱次郎・佐波銀次郎等三人を派し、子蔵等は函館を発して西海岸を北上して宗谷に到る。その後北海道を一周して帰った記録を日記体の報告書「協和私役」として残した。
1857(安政4)年、松浦武四郎が天塩川を遡り天塩国、上川郡、中川郡を踏査する。旧暦6月7日天塩出発、9日ホロビリブト(パンケ築堤下流)に1泊、10日アベシナイに1泊し美深方向に向かう。
1858(安政5)年、松浦武四郎が6回目の蝦夷地探査をする。蝦夷地のほぼすべての海岸及び道東地域の内陸部である十勝、阿寒、日高地方の河川などを巡る。
1869(明治2)年、8月15日蝦夷を改め北海道と名づけ開拓使を設置。11国86郡を設定し、天塩国に上川・中川・利尻・天塩・苫前・焼尻の6郡を定め水戸藩が支配する。幌延は天塩国天塩郡に属する。
1870(明治3)年、ワカサカナイ(現・稚咲内)に官設宿所が設けられる。
1875(明治8)年、3月留萌支庁を廃し、札幌本庁に統合する。6月留萌出張所を設置する。(増毛・苫前を派出所とする)
1876(明治9)年、4月留萌出張所を廃し、留萌分署とする。
1878(明治11)年、10月天塩国に沙流(現・豊富)・幌延・天塩・遠別を置く。
1879(明治12)年、留萌外5郡役所に属する。
1881(明治14)年、7月留萌外5郡役所を増毛外5郡役所と改める。
1882(明治15)年、札幌県、天塩戸長役場に属する。
1886(明治19)年、苫前戸長役場天塩派出所に属する。
1888(明治21)年、道庁技師内田瀞がトイカンベツ(現・問寒別)、ウブシ(産士)原野の殖民地選定実施する。
1890(明治23)年、8月道庁から200万町歩を皇室財産として引き渡す。これに伴いトイカンベツの一部が御料地となる。10月東京の岩谷松平が大曲付近左右419万6500坪の貸付を受ける。
1893(明治26)年、天塩郡各村戸長役場に属する。
1897(明治30)年、オヌブナイ(現・雄信内)、ウブシ・上サロベツに密居宅地を設く。増毛支庁に属す。
1898(明治31)年、6月北門新報社主中野天民(二郎)が天塩(ウブシ)にて炭礦に着手する。11月天塩(ウブシ)炭礦採掘着手する。
1899(明治32)年、下サロベツ原野に福井団体15戸入地するも寒さが厳しくほとんどが去ってしまう。5月佐藤周造ら60戸が上幌延に入植する。ほとんどが去るが定着者12戸が残る。9月本願寺(下サロベツ原野に289万1552坪貸付許可される)、天塩(関谷和三郎がオノブナイ原野117万8020坪貸付許可される)、11月法華宗(古谷日新外5、ウブシ原野243万3498坪の貸付許可される)の各農場設置する。天塩(ウブシ)炭礦閉山する。
1900(明治33)年、法華宗農場に小作農90戸、357人入地する。目黒常吉ら32名が法華宗農場に入植する。9月山田権左衛門が下サロベツ100万坪を借り受けて入植し、山田農場を経営する。
1901(明治34)年、瓦木萬槌が大曲に瓦木商店を経営する。6月曽根恒右衛門ら90戸が法華宗農場に入植する。藤井竹次郎らが入地する。
1902(明治35)年、4月法華宗農場の私学校は幌延簡易教育所(上幌延)となる。6月大曲農場の管理人である西田三郎が入植する。
1903(明治36)年、4月天塩村外2ヶ村戸長役場が設置される。5月伊藤佑市などがトイカンベツ原野に263万0113坪の貸付の許可をもらい有井農場を設置する。本願寺農場(大曲農場)主任である西田三郎の発起により私学校を建設(幌延小学校の前身)する。梅村庄次郎が12戸と共に兜沼へ入植する。7月オトンルイ駅逓所設置する。
1904(明治37)年、豊田義仁が問寒別の石炭層を発見する。大曲農場に20戸入植する。
1905(明治38)年、5月問寒別御料地に遠藤椛太郎、玉井留三郎らが入植する。他にも地域は不明だが目黒政吉、蔵谷金蔵、加藤市三郎らが入地する。
1906(明治39)年、3月菱田房吉が狩太(現・ニセコ町)から70戸を引き連れて沙流村(現・豊富)に入植する。5月本願寺にて本流の炭礦試掘する。
1907(明治40)年、4月愛知団体トイカンベツ原野に31万5175坪の貸付を受けて入地する。幌延炭礦(本流)採掘開始する。下サロベツ駅逓(山田)設置する。久保善蔵が下エベコロベツ(現・幌延町北進)に入植する。嘉納久三郎が480町歩を借り受け沙流村に入植する。11月源長佐吉、留萌藤山から下エコロベツに入植する追分に八幡神社建立する。
1908(明治41)年、9月沙流村に太田松次郎が入植する。吉田鉄治らが問寒別に入植する。
1909(明治42)年、4月幌延村外1ヶ村戸長役場が大曲に設置される。兜沼に官設駅逓設置される。取扱人は梅村庄次郎。幌延炭礦閉鎖となる。5月下沼付近で大火発生し駅逓焼失する。
1910(明治43)年、6月新田深志ら岩手団体20戸入地する。
1911(明治44)年、赤松小太郎が入植し、官設駅逓大曲の取扱人となる。
1912(明治45)年、5月エベコロベツ(現・幌延町北進)に秋田団体入植する。下沼の山田権左衛門宅に郵便継立所を設ける。官設駅逓下沼に開設する。
1913(大正2)年、農会ができる。問寒別8線に駅逓設置する。取扱人は有井加代太。山谷佐太郎が下沼で酒・煙草・雑貨店を開く。
1914(大正3)年、天塩線(後の宗谷本線)の稚内〜音威子府間が着工する。問寒別で吉田鉄治が澱粉工場を始める。
1915(大正4)年、幌延市街に初めて水道施設ができる(現・元町)。
1919(大正8)年、2級町村制を施行する。幌延と沙流を合わせて幌延村とする。7月安田平助が上幌延で荒物雑貨店をひらく。
1922(大正11)年、天塩〜幌延間の電話架設する。
1923(大正12)年、11月手塩線の誉平〜問寒別間が延伸開業し、宇戸内駅、問寒別駅を新設する。
1924(大正13)年、6月天塩線を天塩南線に線名を改称する。天塩北線の稚内(初代)〜兜沼間が開業し、抜海駅、勇知駅、兜沼駅を新設する。
1925(大正14)年、7月天塩南線の問寒別〜幌延間が延伸開業し、雄信内駅、安牛駅、上幌延駅、幌延駅を新設する。
1926(大正15)年、4月豊富背斜軸、大曲背斜軸で村井石油がボーリングを行い、温泉湧出する。9月天塩南線の幌延〜兜沼間が延伸開業し、下沼駅、豊富駅、徳満駅、芦川駅を新設する。音威子府〜幌延〜稚内間が全通したことにより、当該区間を天塩線に改称する。
1930(昭和5)年、4月天塩線が宗谷本線に編入され、旭川〜幌延〜稚内港間が宗谷本線となる。
1931(昭和6)年、上問寒別に比布団体入地する。
1932(昭和7)年、9月幌延村から沙流を分村する建議案が決議される。
1935(昭和10)年、6月天塩線として幌延〜天塩駅間が開業し、振老駅・北川口駅・天塩駅を新設する。
1937(昭和12)年、6月豊富、日曹炭礦開坑。
1938(昭和13)年、12月酪連幌延工場操業開始(雪印乳幌延工場の前身)。
1940(昭和15)年、9月大字沙流村以北の区域を分村し、豊富町が誕生する。
1941(昭和16)年、10月役場を宮園町へ移転する。12月大字名を廃止する。
1943(昭和18)年、8月トイカンベツ駅逓廃止となる。
1945(昭和20)年、帰農者大阪から問寒別に6戸、下沼に1戸入地する。
1952(昭和27)年、7月幌延神社新築落成。
1955(昭和30)年、問寒別地区に電燈灯る。
1958(昭和33)年、10月初山別〜遠別間を延伸開業し、天塩線を羽幌線に編入。羽幌線が全通する。幌延炭礦閉山する。11月乳牛1千頭達成記念式典挙行。
1959(昭和34)年、4月字名の改正を行う。
1960(昭和35)年、9月町制施行。開拓記念碑建立。11月町制施行記念式典挙行。
1962(昭和37)年、スキージャンプ台竣工する。
1965(昭和40)年、北進、幌延、北下沼の電化完成する。幌延澱粉合理化工場閉鎖となる。
1967(昭和42)年、8月サロベツ原野開発協議会開催する。11月町立病院落成式挙行。
1970(昭和45)年、8月サロベツ展望台(名山台)完成する。
1971(昭和46)年、8月幌延観光協会発足する。パンケ沼までの道路完成する。下沼、サロベツ、浜音類農電施設北電移管する。開拓地農道等補修音類橋工事完了する。
1972(昭和47)年、12月幌延駅舎新築落成式挙行。
1974(昭和49)年、9月利尻・礼文・サロベツ国立公園指定される。
1980(昭和55)年、名山台展望台の歌碑と東屋他改修する。
1981(昭和56)年、名山台で歌碑「天塩川」の除幕式。9月幌延町天然ガス試すい調査で、上幌延十線沢掘削する。深度800m。
1982(昭和57)年、2月低レベル放射性廃棄物施設誘致が報道される。5月浜里の海岸にて150年前の人骨発見する。6月遠別〜幌延〜豊富間の沿岸バス運行開始。7月幌延町原子力関連施設誘致期成会発足する。
1984(昭和59)年、4月町の高レベル放射性廃棄物貯蔵研究施設誘致報道される。7月第五回町議会で「原子力関連施設誘致の請願」を採択する。「原子力関連施設誘致」を議決する。11月動燃が開進地区で現地調査を行う。12月森林公園「ふるさとの森」完成する。
1986(昭和61)年、12月動燃開進地区にて深層ボーリング開始する。翌年8月にボーリングは終了。
1987(昭和62)年、3月羽幌線廃止となり、沿岸バスに転換される。12月サロベツ国立公園のパンケ沼園地に野鳥観察舎完成する。
1988(昭和63)年、3月トナカイ飼育事業推進準備会設置する。5月郷土資料館が農村事業改善センター内に設置される。8月「21世紀をひらく原子力技術」国際シンポジウムを開催する。12月「北緯45度のまち」づくりキャッチフレーズ・石碑・シンボルデザインを公募し決定する。
1989(平成元)年、2月フィンランドからトナカイ10頭を導入し、トナカイ飼育始まる。トナカイファーム有限会社を設立する。5月幌延ビジターセンター開設する。10月動燃・役場前に放射線モニタリングポスト設置する。12月道道稚内天塩線に浜里パーキングシェルター完成する。字幌延の北緯45度線に記念碑建立する。花卉栽培調査研究事業開始する。
1990(平成2)年、4月名山台展望台の休憩所・レストラン・売店などが開館する。
1991(平成3)年、3月トナカイ173頭がフィンランドから新たに到着する。9月役場庁舎新築落成する。11月役場庁舎新築落成式挙行。
1992(平成4)年、3月幌延町農協と問寒別農協が合併し、幌延町農業協同組合を設立する。7月動燃展示室新築オープンする。12月東ヶ丘スキー場リフト運行開始。
1993(平成5)年、旧天北化学株式会社は日東エフシー株式会社天北工場となる。10月通産省の石油天然ガス埋蔵調査の為基礎掘削する。(字北進)翌年6月まで5500m掘削する。
1995(平成7)年、4月トナカイファームが上問寒に移転する。5月町営トナカイ観光牧場がオープンする。
1997(平成9)年、7月総合スポーツ公園完成する。
1998(平成10)年、2月科学技術庁が道に核抜き深地層試験場建設を提案する。9月トナカイ牧場に着工する。10月サイクル機構が道と町に「深地層研究所計画」の申し入れを行う。開基百年記念式典挙行。北電が可変速型の風力発電所を幌延に建設すると発表する。
1999(平成11)年、3月浜里地区に国内最大級の風力発電所を計画していることが明らかとなる。6月北電が可変速型風力発電の建設着工する。12月サロベツ風力発電所竣工式挙行。トナカイ観光牧場北進地区に移転しオープンする。
幌延町史・新幌延町史参考



作返川の河口付近
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