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下頓別のハルニレ

住所 枝幸郡浜頓別町下頓別

浜頓別町観光協会

枝幸(えさし)の由来は、アイヌ語の「エサウシ」(岬)から。
浜頓別の由来はアイヌ語「トー・ウン・ペッ」(湖沼に入る(行く)川)。「頓別川」からできた名前で、当時はトンベツと呼ばれ頓別川に河口に集落があった。1878(明治11)年には枝幸郡に枝幸、頓別、歌登、礼文の4ヶ村が設けら漢字が当てられる。1909(明治42)年に2級町村制施行により頓別、歌登、礼文、枝幸が枝幸村に併合となる。1916(大正5)年枝幸村(現・枝幸町)より分村し、2級町村制施行。頓別村となり役場を設置する。1918(大正7)年8月天北線の中頓別〜浜頓別間を延伸開業。下頓別駅・浜頓別駅を新設。駅名を「浜頓別」にした、以来この一帯を浜頓別と呼ぶようになる。1951(昭和26)年頓別村を浜頓別町と改め町制施行。
下頓別の由来は、頓別川中流域にあり、かつて国鉄(JR北海道)駅に下頓別の名がついたことから下頓別となった。それまでは19線と呼ばれていたようである。
国道275号線道道586号豊牛下頓別停車場線の下頓別市街の交差点から浜頓別方向へ約500mほどの交差点を左折し、約230m左手。

旧下頓別小学校向いの生活改善センター隣に大きな木と案内板がある。下草は刈っておらず近くまでは行けなかった。
そばにも何本か大きな木があり、1973(昭和48)年3月下頓別のハルニレ群が北海道記念保護木に指定された。
この下頓別小学校は、1910(明治43)年5月に頓別第三教授所として開校したのが始まりである。1917(大正6)年4月下頓別尋常小学校と改称する。1920(大正9)年4月校舎を新築落成。1968(昭和43)年6月に新校舎を新築落成する。2014(平成26)年3月に浜頓別小学校への統合により閉校した。

案内板
下頓別のハルニレ記念保護樹木
 この木は、樹齢500年と推定されるハルニレです。
明治37年に高藤嘉平氏が入植する以前からあり、この
地を開拓した人々から開拓記念木として大切に保護され
てきた樹木です。
 昭和42年に下頓別小学校を建てる際に、この大自然
の遺産を後世に伝えるとともに、「この木のように大地
にしっかりと根を張り天に向かって立つように」との願
いから、この木をもとに現校舎の位置を定めたといわれ
ています。           昭和48年3月17日指定
北海道

下頓別地区は、1900(明治33)年頓別原野39線まで植民区画設定し、39線(中頓別市街地)まで設定された。当時の植民区画は、海岸近くに1線〜2線、3線と基盤の目のように割り、線と線の間隔は300間(約545.4m)間隔だった。
これにより内陸にも開拓の緒が開かれ、1904(明治37)年に頓別原野19線(現・下頓別市街)に高藤嘉平氏が300町歩の貸付を受けて入植したことに始まる。
鉄道開通までの物資輸送は、頓別川を利用する長門船だった。当時は頓別河口から中頓別まで2日間の行程だった。
当時この辺りの農場は、清水、野坂、有隣農場があり、木工場は北一下頓別分工場、西尾木工場があり造材ブームに沸いていた。
1918(大正7)年、8月宗谷線(後の天北線)中頓別〜浜頓別間を延伸開業し、下頓別駅・浜頓別駅を新設し、市街地は活気づいた。


旧石器時代の石刃核がポン仁達内遺跡で発見され、また、山軽台地遺跡からは、細石刃核と細石刃が出土し、今から1万2000年以上前からヒトの足跡が見られる。
1296(永仁4)年、日持上人宗谷より渡樺の伝説がある。この頃和人の勢力が宗谷地方に及ぶ。
1645年〜1648(正保)年間、「ツウヘチエソ」と正保御国絵図に記される。
1669(寛文9)年、6月シャクシャインの乱が起こり、宗谷地方にも影響が及ぶ。
1670(寛文10)年、「つんへつ村」と頓別の地名が津軽一統志に記録される。
1685(貞享2)年、松前藩が宗谷場所を開設する。樺太は松前藩家臣の知行地として開かれたソウヤ場所に含まれた。
1700(元禄13)年、松前藩が幕府に呈上した元禄御国絵図に「つうへち」で図示される。
1706(宝永3)年、村山伝兵衛、宗谷場所を請負う。
1750(寛延3)年、村山伝兵衛、宗谷場所を請負う。
1752(宝暦2)年、ソウヤ場所から樺太場所が分立する。
1756(宝暦6)年、浜屋や近江商人が宗谷場所を請負う。
1761(宝暦11)年、宗谷場所が松前藩の直轄となる。
1765(明和2)年、松前の商人恵比須屋半兵衛が宗谷場所を請負う。
1775(安永4)年、飛騨屋久兵衛が宗谷場所を請負う。
1785(天明5)年、幕府の樺太探検隊長庵原弥六一行、宗谷で越年するも、翌年3月に病死する。(墓碑現存)
1787(天明7)年、フランスのラ・ペルーズの艦隊が世界周航の途中、宗谷海峡を通過、樺太が島であることを確認。
1789(寛政元)年、最上徳内らが宗谷を巡視。飛騨屋が宗谷場所をやめ、村山伝右兵衛が請負う。
1790(寛政2)年、松前藩は、宗谷に勤番所を設置する。
1796(寛政8)年、村山伝兵衛は宗谷場所を罷免され、小山屋権兵衛が請負う。
1801(亨和元)年、奉行松平忠明、宗谷を巡視し、台場を築く。奉行一行の磯谷則吉が宗谷に滞在する。高橋壮四郎が宗谷場所を管理する。「蝦夷道中記」に「トンベツ夷家7戸、酋長シリメキシュ」と記述。
1806(文化3)年、遠山金四郎、村垣左太夫樺太を巡視して宗谷に滞在。
1807(文化4)年、トンベツにアイヌの家12軒、男女67 人(アイヌの長シリメキシュヱ)と戸口について西蝦夷地日記に記録あり。幕吏近藤重蔵ら宗谷を巡視。宗谷場所幕府直轄領となる。幕府が宗谷に駄馬30頭余を送る。斜内山道開削される。津軽藩宗谷警備に付くが、多くの藩兵が水腫病で亡くなる。
1808(文化5)年、最上徳内、松田伝十郎が宗谷に来る。松田伝十郎は樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の国境標を建てる。間宮林蔵ら、樺太探検のため宗谷を出帆。会津藩が津軽藩と宗谷警備を交代する。宗谷警備中の会津藩士が次々と病死する。
1809(文化6)年、間宮林蔵は樺太が島であることを確認し、呼称を北蝦夷地と正式に定め、宗谷に戻る。松田伝十郎が樺太アイヌ住民の問題解決に貢献し、北蝦夷地詰を命ぜられる。山丹人との貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。
1815(文化12)年、宗谷・斜里場所藤野喜兵衛の単独請負となる。
1817(文化14)年、藤野喜兵衛千島国後場所を請負う。
1821(文政4)年、蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。松田伝十郎が宗谷詰となり着任する。
1846(弘化3)年、松浦武四郎、トンベツ川を舟で渡りシヨナイ(斜内)に泊まると再航蝦夷日記に記載あり。知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。
1854(安政元)年、藤野喜平衛が枝幸郡トンベツ・ホロベツ・トクシベツに渡船を設ける。
1855(安政2)年、3月宗谷場所、再び天領となる。秋田藩が宗谷警備を行う。
1856(安政3)年、松浦武四郎、トンベツ、ショナイについて具体的に記録、武四郎廻浦日記に絵図あり。箱館奉行所支配組頭向上源太郎が宗谷場所を引き継ぐ。7月佐倉藩士窪田子蔵(「協和私役」として残す)が猿払で一泊する。松浦武四郎ら、樺太調査のため宗谷を出帆。
1867(慶応3)年、宗谷地方は箱館奉行所の直轄地に編入される。
1869(明治2)年、8月蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定める。9月金沢藩支配に宗谷・枝幸・利尻・礼文を含む。10月21日朝、プレーキストン氏枝幸を出発、斜内に2泊(熱のため休息)23日朝頓別を通過、夕方猿拂着宿泊とある(プラキストン著「蝦夷の中の日本」)。開拓使が宗谷出張所を開設する。場所請負人を漁場持ちとし漁場経営を認める。
1870(明治3)年、6月金沢藩所轄の宗谷・礼文・枝幸3郡は開拓使の直轄となる。8月藤野喜平衛が宗谷場所を返上する。
1871(明治4)年、判官松本十郎、北見国各郡を巡視トンベツ、アイヌの家2戸あり川守をしている(北見州経験誌)と書く。栖原角兵衛が宗谷外四郡の漁場を受け持つ。
1872(明治5)年、宗谷支庁設置、開拓判官大山重が主任となる。10月佐藤正克がトンベツで一泊する。
1873(明治6)年、宗谷支庁を廃し、留萌支庁の管轄となる。
1874(明治7)年、アメリカの地質学者ライマン氏が、9月22日枝幸出発シヨセフの沢より馬で斜内山道を越え斜内・猿払に一泊する。
1875(明治8)年、3月宗谷に開拓使出張所を置く。樺太千島交換条約締結。樺太原住民841名を稚内に移住させる。5月カナ地名を漢字地名に改める。
1878(明治11)年、枝幸郡に枝幸、頓別、歌登、礼文の4ヶ村が設けられ、斜内にアイヌの家6戸。
1879(明治12)年、宗谷外3郡役所、6村戸長役場の支配下に置かれる。
1882(明治15)年、2月開拓使を廃し、函館・札幌・根室の三県一局を置く。枝幸郡は札幌県に属する。
1884(明治17)年、斜内において和人(姓不詳)1人漁業を営む。
1886(明治19)年、北海道庁を置き、三県一局を廃しする。
1888(明治21)年、大橋良次が斜内で初めて鰊網を試みる。
1889(明治22)年、佐藤子之助頓別川渡船場管理人となる。
1891(明治24)年、枝幸村に枝幸外3ヶ村(頓別・歌登・礼文)戸長役場を設置。
1893(明治26)年、頓別駅逓所創設、取扱人土佐久三郎となる。
1894(明治27)年、斜内に松本忠太郎の漁場1ヶ所開設、佐藤長五郎定置漁場にし定住の始めとする。
1895(明治28)年、渡船場管理人佐藤子之助、頓別駅逓所取扱人となり定住する者が増える。山軽駅逓所新設し、取扱人成田徳蔵となる。頓別川口に駅舎新設。頓別川の渡し守を川端多助・川村広太が請負う。
1896(明治29)年、斜内に私設の寺子屋式児童教育所が新設される。河野常吉氏が植民状況調査で頓別村に来る。
1897(明治30)年、11月斜内山道開削。郡役所を改め、宗谷支庁を開設。
1898(明治31)年、6月歌登パンケナイで砂金発見される。8月頓別川の支流ウソタンナイ川上流に豊富なる砂金の産出あり、採取人がペイチャン川(中頓別町)と合せ約1万6千人を数えたという。頓別原野6線まで約500町歩の植民地区設定される。頓別川上流の支流ウツナイで石炭が見つかる。
1899(明治32)年、5月枝幸郡頓別村字ペーチャンの砂金地発見される。ウソタンナイの採取許可を受け、事務所1棟、物品販売所1棟、巡査発出所1棟建てられる。大谷三五郎がブタウス(現・豊牛)に入植する。橋本直吉・田中新兵衛が鮭漁を始める。
1900(明治33)年、9月頓別駅逓所に官馬と手当支給される。ウソタンナイ砂金区より205 匁(768.75g)の日本最大の金塊発掘。ウソタン砂金地に外国人砂金採取者が入山。ウソタンナイ〜枝幸間の砂金山に通ずる道を整備する。ウソタンナイの砂金鉱区出願が殺到する。頓別原野39線まで植民区画設定する。
1901(明治34)年、9月ウソタンナイ砂金山の採取者は442人。その他は密採取者は約2000〜3000人とも推定される。ウソタンナイのゴールドラッシュはこの頃までと言われている。大谷又三郎が叔父を頼ってブタウス(現・豊牛)に入植する。
1904(明治37)年、頓別原野19線(現・下頓別市街)に高藤嘉平氏定住する。
1905(明治38)年、斜内簡易教育所開設(現・枝幸郡浜頓別町斜内、斜内小学校の前身で斜内小学校は2010(平成22)年3月末で閉校となった)。頓別地区は木材業隆盛となる。浅野常松ら数名がブタウシに定住する。
1906(明治39)年、5月菅野栄助が頓別に住み林業に従事する。6月中村卯太郎が小樽木材株式会社の森林の譲渡を受け、独立し、木材業を経営する。伊瀬谷清吉が頓別で造材業を始める。11月佐藤弥作とその家族と小作併せて7戸28人が頓別原野25線に入植する。松永富男が商店を始める。頓別村字ウソタンナイに宇曽丹簡易教育所設置する。
1907(明治40)年、6月頓別で寺子屋式教育を始める。鎌田与三郎が頓別で商店を始める。向田清吉が茂宇津内に入植する。田辺馬之助が常磐に入植する。北又次郎が頓別港で商店を開く。
1908(明治41)年、斜内教育所第1教授所(現・枝幸郡浜頓別町字頓別の頓別小学校の前身)開設。近藤勝之助が頓別村に移住する。道徳安二氏が36線に500町歩の国有未開地払い下げを受けて、7戸36人を率いて入植する。
1909(明治42)年、2級町村制施行により頓別、歌登、礼文、枝幸が枝幸村に併合。岡田友吉が頓別で雑貨店を開業する。小林順七が豊牛の国有未開地45町歩を宗谷支庁から払下げ、牛2頭・馬15頭で牧場を経営する。牛乳の販売が始まる。
1910(明治43)年、5月斜内教育所第3教授所開設(現、枝幸郡浜頓別町下頓別、下頓別小学校の前身で、下頓別小学校は1968(昭和43)年現在地に移転している)。斜内教育所第4 教授所開設(現・枝幸郡浜頓別町宇曽丹、宇曽丹小学校の前身で、2011(平成23)年廃校となった)。小林林蔵夫婦が豊牛に入植する。橋本直吉が頓別で旅館を経営する。
1911(明治44)年、頓別郵便局開局。5月稚内山火が延焼し恐怖する。9月頓別原野6線に頓別川渡船場開設する。頓別原野14線まで植民道路を開削する。
1912(明治45)年、頓別原野22線(現・下頓別)に駅逓開設し、取扱人は近藤勝之助となる。金山神社建立。
1912(大正元)年、斜内教育所第1教授所(現・枝幸郡浜頓別町字頓別の頓別小学校の前身)が頓別尋常小学校と改称して独立。7月頓別原野駅逓所開設する。取扱人は近藤勝之助。11月枝幸水産組合のウソタンナイ支流ヌルイ川にさけ・ますふ化場創設。原野39線まで道路開削する。豊寒別地区の植民区画が実施される。
1913(大正2)年、5月宮下節三が斜内に入植する。近藤勝之助が下頓別に商店を開店する。
1914(大正3)年、11月天北線、(宗谷線)の音威子府〜小頓別間を延伸開業する。
1915(大正4)年、クッチャロ湖畔にて三井物産株式会社頓別木挽工場操業開始。頓別で金井貝灰工場操業。頓別村農会設立。12月高山由太郎がオンネカラマップ(鬼河原、現・高砂)に木工工芸品工場を設立する。下頓別〜宇曽丹間の刈分け道路を部落民が開削する。中頓別〜小頓別間の開拓道路を開削する。松音知にて砂金採取人増加し、私学学校開設する。金井貝灰工場が頓別で開業する。石田コタカが頓別にて金物雑貨を開店する。
1916(大正5)年、1月笠原木工場を頓別川口に操業する。4月枝幸村(現・枝幸町)より分村、2級町村制施行し、頓別村となり役場設置する。10月小頓別〜中頓別間を延伸開業し、敏音知駅・松音知駅・中頓別駅を新設する。12月頓別沿岸に高潮あり、家屋、商品流失、市街の大半が被害を受ける。永岡長治が下頓別ウツナイの石炭試掘する。
1917(大正6)年、学校令により教育所から尋常小学校に改称する(下頓別、宇曽丹、斜内、豊寒別)。浜頓別にて栗沢農場経営の為長縄辰次郎が移住する。頓別〜浜頓別間の道路開削する。
1918(大正7)年、3月高橋萩三が喜茂別より宇曽丹に入植する。浜頓別特別教授所開設。西尾英蔵下頓別に木材工場創設。8月中頓別〜浜頓別間を延伸開業し、下頓別駅・浜頓別駅を新設する。ウソタンナイ砂金区を藤田組に一括買収、砂金地から砂金掘りは途絶えた。11月佐々木熊吉ら秋田団体がウツナイ(宇津内)地区に入植する。北又次郎が頓別川支流にて99万8850坪の石炭鉱区の試掘を出願する。ウソタン川で水力発電工事に着手する。西尾英蔵が下頓別にて木工場設立し操業する。今忠吉がはじめて発動機付きの船で漁業を営む。
1919(大正8)年、山火事で浜頓別市街312戸、木材7万石焼失。10月宗谷線を宗谷本線に改称。11月浜頓別〜浅茅野間を延伸開業し、山軽駅・浅茅野駅を新設する。8月第七師団工兵隊により斜内山道を改修され、馬車が通行できるようになる。9月浜頓別、音威子府線の道路完成する。10月宇曽丹の水力発電所完成する。11月江別の河合才一郎がレカセウシュウナイ(不明)に農場を設立する。11月浜頓別〜浅茅野間が延伸開業し、山軽駅、浅茅野駅を新設する。菅野栄助と村民の篤志により頓別神社を造営する。祭神は大山祇神である。下頓別神社を移転し、下頓別八幡神社(現・枝幸郡浜頓別町下頓別)と称する。
1920(大正9)年、1月菅野栄助が家屋を村に貸して浜頓別特別教授所を設置する。5月下頓別郵便局開局。10月浜頓別郵便局開局。11月浅茅野〜鬼志別間を延伸開業し、猿払駅・芦野駅・鬼志別駅を新設する。12月頓別水電株式会社が、宇曽丹川にて水力発電所建設し、浜頓別、下頓別、中頓別市街に送電する。清水農場に花田幸太郎他15戸入植する。頓別原野駅逓所が下頓別市街地に移転する。取扱人は近藤勝之助。
1921(大正10)年、4月中頓別(現・中頓別町)が分村。岩橋源之助が宇曽丹にて水田試作、良好な成績をあげる。
1922(大正11)年、1月頓別村役場庁舎新築落成する。11月鬼志別〜稚内(現・南稚内)間を延伸開業し、小石駅・曲淵駅・沼川駅・樺岡駅・幕別駅・声問駅・稚内駅を新設する。11月宗谷線を宗谷本線に改称する。12月下頓別〜宇津内、下頓別〜茂宇津内の道路が完成する。
1923(大正12)年、12月宇津内沢に馬鉄の森林軌道を設置する。浜頓別〜頓別間の乗り合い馬車運行される。浜頓別〜枝幸間の発動機船運行する。
1927(昭和2)年、6月浜頓別神社拝殿上棟式挙行。7月頓別酪農組合経営の集乳所設置する。
1928(昭和3)年、清水農場廃止となる。頓別水電が北洋電気に改称する。
1930(昭和5)年、4月音威子府駅〜浜頓別〜稚内駅間を宗谷本線から削除し線路名を北見線に改称。天塩線を宗谷本線に編入する。12月下頓別に集乳所設置する。山軽〜安別間の刈分け道を開削する。
1931(昭和6)年、9月頓別炭鉱が操業開始する。林道が完成し、再びウソタンナイ川にゴールドラッシュが巻き起こる。
1932(昭和7)年、10月頓別駅逓所廃止となる。
1933(昭和8)年、6月興浜北線の第一工区(浜頓別〜斜内間)が起工する。9月仁達内駅逓所開設する。取扱人は塚本源太郎となる。宇津内炭鉱操業開始。
1934(昭和9)年、8月興浜北線の第二工区(斜内〜目梨泊間)起工する。9月頓別原野駅逓所(下頓別)廃止となる。ウソタン砂金山に入山者約500人ほどとなる。
1935(昭和10)年、4月興浜北線の第三工区(目梨泊〜枝幸間)起工する。ヤシュベツ(現・共和)に入植者が入る。
1936(昭和11)年、ヤシュベツを共和と改める。7月浜頓別〜北見枝幸間を興浜北線として開業し、豊牛駅・斜内駅・目梨泊駅・問牧駅・北見枝幸駅を新設する。9月浜頓別神社建立する。
1937(昭和12)年、11月仁達内に酪連頓別工場に牛乳出荷を始める。頓別船入間5ヵ年計画にて河口を改修する。
1939(昭和14)年、12月ソ連船「インディギルカ号」(4500t)が浜鬼志別沖合い1km付近で座礁する。1125人を乗せた船は寒さで凄惨を極め救助数は395人。死体収容数は180体となる。イ号の生存者28名。頓別村の海岸にも死体が上がり、浜頓別市街に移送する。金井貝灰工場は芦野工場を閉鎖。
1940(昭和15)年、日本鋼管会社が砂礦工場を開設し、砂クローム採取を行う。頓別炭鉱閉山となる。
1942(昭和17)年、12月浅茅野陸軍飛行場造設工事に着手する。
1944(昭和19)年、9月浅茅野陸軍飛行場の土地を陸軍省で買収する。1月興浜北線全線を休止し、全レールが撤去される。
1945(昭和20)年、12月政府への復旧陳情が行われ認可がおり、興浜北線全線の営業を再開する。
1949(昭和24)年、10月藤田組の子会社、北海道金山鰍創立し、ウソタンナイ砂金の機械掘り開始(昭和27年世界一の移動選金機導入)。
1951(昭和26)年、4月宇曽丹地区に秋田県より6戸入植する。6月頓別漁港第1種漁港の指定を受け整備始まる。10月頓別村を浜頓別町と改め町制施行。浅茅野陸軍飛行場解体される。
1953(昭和28)年、4月安別部落に岐阜県より入植者が入る。
1958(昭和33)年、浜頓別市街大火(35戸全半焼)。8月クッチャロ湖畔竪穴遺跡発掘調査(北海道大学、大場教授)
1961(昭和36)年、北見線を天北線と改称する。
1962(昭和37)年、1月歌登村が町制施行する。
1963(昭和38)年、6月神威岬灯台設置。7月第1回クッチャロ湖水まつり開催。11月宇津内、安別、ポン仁達内、共和に電気導入工事完了する。
1966(昭和41)年、浜頓別クッチャロ湖畔竪穴群が北海道史跡に指定。
1968(昭和43)年、クッチャロ湖、ベニヤ原生花園、斜内山道が北オホーツク道立自然公園に指定。
1973(昭和48)年、3月下頓別のハルニレ群が北海道記念保護木に指定する。7月環境庁鳥類観測一級ステーション開設する。
1974(昭和49)年、ウソタン砂金地現地調査が始まる。7月金鉱口発見。
1975(昭和50)年、栄和地区から注口土器(続縄文時代)出土。11月郷土資料館が開館する。
1976(昭和51)年、8月金山神社発見。
1981(昭和56)年、国設浜頓別クッチャロ湖鳥獣保護区指定
1983(昭和58)年、クッチャロ湖鳥獣保護区に指定。
1984(昭和59)年、北海道農協乳業鰹@谷工場製造開始(現・よつ葉乳業株式会社)。10月クッチャロ湖畔に野鳥観察休憩所完成する。
1985(昭和60)年、観光協会が砂金掘りプロジェクトを発足し、体験観光を開始した。7月興浜北線全線を廃止し、宗谷バスに転換される。
1986(昭和61)年、ウソタンナイ砂金採掘公園ゴールドハウスオープン。
1987(昭和62)年、ウソタン砂金共和国建国。第一回ウソタン砂金フェスティバル開催。
1989(平成元)年、JR天北線廃止。頓別小学校校舎新築落成。クッチャロ湖ラムサール条約登録湿地指定。
1991(平成3)年、ウソタンナイ砂金遺跡が浜頓別町文化財に指定。
1992(平成4)年、第1回全日本砂金掘大会開催。
1994(平成6)年、山軽台地遺跡出土遺物「細石刃核」「細石刃」が浜頓別町有形文化財に指定。ポン仁達内遺跡出土遺物「石刃核」が浜頓別町有形文化財に指定。
1995(平成7)年、水鳥観察館開館する。温泉掘削成功(掘削 1073m、温度47.5度、湯量毎分150リットル)。
1996(平成8)年、はまとんべつ温泉「ウイング」オープン。
1998(平成10)年、郷土資料館オープン。
2001(平成13)年、「コモチカナヘビ」が浜頓別町文化財に指定。
2002(平成14)年、世界砂金掘り浜頓別大会開催。
2005(平成17)年、民間風力発電所1基建設
浜頓別町史参考

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