宗谷厳島神社住所 稚内市大字宗谷村字宗谷99-2稚内観光協会 稚内の由来は、アイヌ語のヤム・ワッカ・ナイ、「冷たい水の流れる沢」という意味である。 宗谷の由来は、アイヌ語の「シヨウヤ」(海獣の止まる磯の丘)この磯の丘にアイヌコタンがあったことから地名にした。他にも、宗谷岬の北にある弁天島は「ソーヤシュマ」(岩礁の海岸にある島)と呼ばれていた。また、「ソ(ショ)・ヤ」(岩礁の多い海岸)と呼び、これらが「ソーヤ」の由来とされている。現在の宗谷は「ウエン・トマリ」(悪い・入り江)というところで、うっかり舟を入れると岩礁で舟を壊すところだった。 国道238号線の宗谷岬から稚内市街方向へ約7.1kmを左折し、約280mほど左手。 宗谷の歴史は古く、1582(天正10)年、松前藩領となり、1685(貞享2)年、松前藩が宗谷場所を開設している。 宗谷村のはじまりは、1879(明治12)年7月1日に戸長役場が設置されたことによる。当時、宗谷は宗谷村・泊内村・猿払村・稚内村・声問村・抜海村の中心地で、戸長役場と共に宗谷・枝幸・利尻・礼文郡の宗谷外三郡役所も置かれていた。 宗谷は、北方の要衝として栄え、重要視されてきた地域であったが、遠浅で岩礁の多い宗谷海岸が敬遠されたことと、当時唯一の交通機関であった船舶の大型化・蒸気船化などもあり、対岸の稚内村に賑わいが移りつつあった。 1888(明治21)年、9月に戸長役場・郡役所・警察署・郵便局が稚内に移り、1955(昭和30)年、2月1日宗谷村を編入し、今日に至っている。 近くには、稚内発祥の地碑、宗谷三百年記念之碑、津軽・会津・秋田藩陣屋跡、宗谷護国寺跡、津軽藩兵詰合の記念碑、旧藩士の墓、間宮林蔵顕彰碑、中千島方面戦没者慰霊碑がある。 宗谷厳島神社は、宗谷公園内にあり1782(天明2)年、奉納と記された「鰐口」、銘に表面「奉納 天明寅壬月吉日 宗谷御場処」、裏面「奥州南部大畑 武川氏敬白 支ハイ人向井金蔵」が現存するところから一応、天明元年(1781年)頃建立されたものと考えられ、祭神は市杵島姫命(いつくしまひめのみこと)という。 神社のいわれは、1515(永正12)年松前藩の祖先である武田光広が「夢」のお告げ、蝦夷地海浜の要衝に、「弁財天」を祭るようにといわれ、その子孫である蛎崎慶広が、1561(永禄4)年、姓を「松前」と改めた際、宗谷の地に「弁財天堂」を寄進したのがそのはじまりとされている。 江戸幕末期の宗谷場所を描いた「宗谷絵図」や「宗谷孟仙里図」などの絵図資料の中には南を向いた厳島神社が描かれている。 鳥居の向こうに見える狛犬は、1923(大正12)年、稲川長七・石上市太郎ほか6名が奉納したもので、さらに狛犬を彫った石工の名と代金らしき「金五十…」という銘文が残されている。 厳島神社は、はじめ現在の宗谷小学校の下にあり、100基を超える鳥居がトンネルのように並んでいた。 しかし、海岸に近かったため腐食が著しく、1970(昭和45)年保全のために現在地に移され、6月に神社と奉納品の数々は市の有形文化財に指定された。 現在の社殿は、1870(明治3)年、開拓判官竹田信順により修築され現在の形に近づけたという。 説明板 宗谷厳島神社は奉納されている 鰐口の記録から天明元年(一七八一)に 創立されたと思われる。 祭神は「市杵島姫命」であって 水の神様である。 多くの商人が 唯一の交通路であった海上を航海 し、海上安全を祈って多くの奉納 物があり信仰の厚い神社である。 その昔木造も含めて鳥居がトンネ ルの様に立てられたが現在花崗岩 の2基だけが残る。 懸額、彫刻 手洗鉢鰐口等百年以上も歴史があ る数々の什物があって昭和四十一年に 全域が稚内市の文化財に指定された。 1296(永仁4)年、日持上人宗谷より渡樺の伝説がある。この頃和人の勢力が宗谷地方に及ぶ。 1582(天正10)年、松前藩領となる。 1603(慶長8)年、宗谷に役宅を設置し、利尻、礼文、唐太を司る。 1635(寛永12)年、佐藤嘉茂左衛門、蠣崎蔵人、村上掃部左衛門を宗谷珊内より樺太巡察に派遣し、ウッシャム(サハリンの最南端・クリリオン岬(日本統治時代の名称は西能登呂岬付近)に渡る。 1651(慶安4)年、蛎崎伝右衛門主命により樺太を巡視する。 1685(貞享2)年、松前藩が宗谷場所を開設する。樺太は松前藩家臣の知行地として開かれたソウヤ場所に含まれた。 1689(元禄2)年、藩士蛎崎七之丞が宗谷を巡視する。 1706(宝永3)年、村山伝兵衛、宗谷場所を請負う。 1750(寛延3)年、村山伝兵衛、宗谷場所を請負う。 1752(宝暦2)年、ソウヤ場所から樺太場所が分立する。 1756(宝暦6)年、浜屋や近江商人が宗谷場所を請負う。 1761(宝暦11)年、宗谷場所が松前藩の直轄となる。 1765(明和2)年、松前の商人恵比須屋半兵衛が宗谷場所を請負う。 1775(安永4)年、飛騨屋久兵衛が宗谷場所を請負う。 1781(天明元)年、宗谷に厳島神社建立。(現・内市宗谷村宗谷、宗谷歴史公園内) 1782(天明2)年、飛騨屋支配人が厳島神社に鰐口を奉納する。 1785(天明5)年、幕府の樺太探検隊長庵原弥六一行、宗谷で越年するも、翌年3月に病死する。(墓碑現存) 1787(天明7)年、フランスのラ・ペルーズの艦隊が世界周航の途中、宗谷海峡を通過、樺太が島であることを確認。 1789(寛政元)年、最上徳内らが宗谷を巡視。飛騨屋が宗谷場所をやめ、村山伝右兵衛が請負う。 1790(寛政2)年、松前藩は、宗谷に勤番所を設置する。 1796(寛政8)年、村山伝兵衛は宗谷場所を罷免され、小山屋権兵衛が請負う。 1800(寛政12)年、藤原時畝が、宗谷にて弥六の墓碑を建立する。松前藩は宗谷場所を直営。柴屋長太夫が宗谷場所の仕入れを任ぜられる。 1801(亨和元)年、奉行松平忠明、宗谷を巡視し、台場を築く。奉行一行の磯谷則吉が宗谷に滞在する。高橋壮四郎が宗谷場所を管理する。 1806(文化3)年、遠山金四郎、村垣左太夫樺太を巡視して宗谷に滞在。 1807(文化4)年、幕吏近藤重蔵ら宗谷を巡視。宗谷場所幕府直轄領となる。津軽藩宗谷警備に付くが、多くの藩兵が水腫病で亡くなる。 1808(文化5)年、最上徳内、松田伝十郎が宗谷に来る。松田伝十郎は樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の国境標を建てる。間宮林蔵ら、樺太探検のため宗谷を出帆。会津藩が津軽藩と宗谷警備を交代する。宗谷警備中の会津藩士が次々と病死する。 1809(文化6)年、間宮林蔵は樺太が島であることを確認し、呼称を北蝦夷地と正式に定め、宗谷に戻る。松田伝十郎が樺太アイヌ住民の問題解決に貢献し、北蝦夷地詰を命ぜられる。山丹人との貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。 1810(文化7)年、藤原義行鋳造の釣り鐘を宗谷護国寺に奉納する。宗谷の越冬警備を止め、増毛まで退避越冬をする。 1821(文政4)年、全蝦夷地を松前藩に返還し、宗谷場所も松前藩領になる。 1823(文政6)年、厳島神社に藤野家船頭の松本金蔵らが石鳥居、宗谷番人達が石灯篭を奉納する。 1824(文政7)年、宗谷支配人嘉吉らが厳島神社に手洗鉢を奉納する。 1832(天保3)年、藤野喜平衛が厳島神社を改築する。 1846(弘化3)年、松浦武四郎が声問に立ち寄り、宗谷から樺太に渡る。 1855(安政2)年、宗谷場所、再び天領となる。秋田藩が宗谷警備を行う。 1856(安政3)年、箱館奉行所支配組頭向上源太郎が宗谷場所を引き継ぐ。松浦武四郎ら、樺太調査のため宗谷を出帆。この年クワヘヒル(ストーブ)が役宅につけられる。 1858(安政5)年、松浦武四郎が声問川を遡り踏査。 1859(安政6)年、宗谷、秋田藩の領下となるが、抜海とノシャップは幕府直轄。 1867(慶応3)年、宗谷地方は箱館奉行所の直轄地に編入される。 1869(明治2)年、宗谷、開拓使に属す。金沢藩支配に宗谷・枝幸・礼文を含む。 1870(明治3)年、1月宗谷、金沢藩に属す。6月宗谷は開拓使の直轄とする。8月藤野喜平衛が宗谷場所を返上する。 1871(明治4)年、7月松本十郎が宗谷を調査する。栖原角兵衛が宗谷外四郡の漁場を受け持つ。 1872(明治5)年、宗谷支庁設置、開拓判官大山重が主任となる。 1873(明治6)年、宗谷支庁を廃し、留萌支庁の管轄となる。 1874(明治7)年、開拓使雇技師ライマンが稚内地方を巡視する。 1875(明治8)年、3月宗谷に開拓使出張所を置く。樺太千島交換条約締結。樺太原住民841名を稚内に移住させる。 1876(明治9)年、1月宗谷郵便局を設置。 1879(明治12)年、7月宗谷に郡役所が置かれ宗谷郡となる。宗谷村に戸長役場設置し稚内市の開基となる。 1880(明治13)年、3月宗谷郡役所開庁する。 1885(明治18)年、宗谷村尻臼に灯台設置、日本郵船会社小樽・稚内間に定期航路を開く。 1888(明治21)年、宗谷郵便局を稚内郵便局に改称。郡役所、戸長役場、警察署、郵便局など、その他諸官公庁が稚内に移転する。 1891(明治24)年、宗谷測候所閉鎖となる。9月枝幸村開村となる。 1892(明治25)年、声問神社創建する。 1893(明治26)年、10月杖苫内駅逓所設置する。 1895(明治28)年、更喜苫内に入植者が入る。 1897(明治30)年、郡役所を改め、宗谷支庁を開設。 1900(明治33)年、7月宗谷郡稚内村、抜海村、声問村の区域を稚内村と称し1級町村制施行。宗谷、泊内、猿払三村戸長役場を宗谷コタンバに設置する。12月稚内灯台設置される。 1901(明治34)年、稚内村を稚内町に改める。11月夕来駅逓所を設置する。 1902(明治35)年、散在していた宗谷旧藩士の墓を一か所に祭祀する。宗谷岬に海軍望楼所設置する。7月勇知神社創建される。増幌に市島、福沢農場開設。幕別に大竹農場開設する。12月山下通2に稚内町役場新築落成する。 1903(明治36)年、福沢桃介が福沢農場に牧場を開設する。これにより増幌地区に移住者が増加。 1906(明治39)年、小樽、稚内、樺太定期航路を開設。 1907(明治40)年、宗谷護国寺がウエントマリ川西岸に移築される。 1909(明治42)年、4月宗谷村は二級町村制を施行する。幕別神社創建される。 1911(明治44)年、5月山火が延焼し、稚内町724戸・宗谷村71戸・その他諸官庁、学校、病院等消失する。 1912(大正元)年、秋田木材会社が声問で自家発電を始める。宗谷支庁庁舎新築落成する。樺岡(声問村字樺岡)に宮城県開拓者集団入植する。 1913(大正2)年、秋田木材会社が声問発電所を設置し、稚内にはじめて電灯がともる。勇知に埼玉県団体が入植する。上声問・沼川に開拓者が多数入植する。11月更喜苫内駅逓所設置される。 1917(大正6)年、5月岐阜団体が曲淵・沼川に入植する。6月福島団体が曲淵に入植する。相馬団体が曲淵・沼川に入植する。 1919(大正8)年、川西(声問村川西)に開拓民入植する。8月上声問駅逓所設置される。 1920(大正9)年、川南(声問村川南)に開拓民入植する。曲淵にて水稲試作する。稚内築港工事着手する。 1921(大正10)年、村井北部鉱業所、声問石油鉱場設立。上勇知に開拓民入植する。 1922(大正11)年、曲淵に伊藤農場を開設する。村井石油会社が増幌で採油事業を開始する。稚内運送会社設置する。曲淵・沼川の地名が誕生する。11月鬼志別〜稚内(現在の南稚内)間を延伸開業。宗谷線(天北線)開通。11月宗谷線を宗谷本線に改称。曲淵神社創建する。 1923(大正12)年、稚泊連絡船運行開始。 1924(大正13)年、北見線開通(現・宗谷本線)、稚斗連絡船運航開始。猿払村が宗谷村から分村し村制施行する。沓形村(利尻郡)が一級町村制施行する。 1925(大正14)年、稚内にタクシーが走る。坂の下に中丸牧場を開設する。7月秋田木材会社が稚内に発電所を設置する。10月秋田木材会社の声問発電所を閉鎖する。 1926(大正15・昭和元)年、7月稚内発電所を建設し、秋田木材は稚内から離れる。稚泊連絡船対馬丸ノシャップ沖で座礁。9月天塩線(音威子府〜幌延〜稚内間)全通。 1928(昭和3)年、5月声問岬に浮標灯を設置する。6月宗谷旧藩士の墓を山上に移転する。12月稚内〜稚内港間を延伸開業。稚内港駅開駅(現・稚内駅)。 1930(昭和5)年、4月天塩線を宗谷本線に編入し、音威子府〜浜頓別〜稚内間を分離し、北見線(後の天北線)に改称。 1932(昭和7)年、国費にて声問川河口の築設工事に着手する。7月沼川〜幌延間の拓殖軌道敷設工事を着手し、翌年完成する。8月歌人斎藤茂吉が稚内に来て木谷旅館に投宿する。 1935(昭和10)年、11月声問貝塚・クサンル竪穴郡が北海道史蹟に指定される。12月文部省が宗谷護国寺を史蹟に指定する。9月興浜南線が開通する。 1936(昭和11)年、宗谷港築港工事に着手する。宗谷炭礦汽船会社が天北炭田発掘に着手する。7月興浜北線が開通する。 1937(昭和12)年、1月稚内測候所を設置。 1939(昭和14)年、2月稚内駅を南稚内駅に改称(同時に稚内港駅を稚内駅に改称)。 1941(昭和16)年、9月宗谷村各部落名を改称する。 1942(昭和17)年、10月北海道配電会社、声問火力発電所設置。 1945(昭和20)年、8月樺太居留民引揚船稚内に入港。米軍稚内に進駐。 1949(昭和24)年、4月稚内市制施行、稚内市となる。 1955(昭和30)年、2月宗谷村を編入する。 1956(昭和31)年、9月稚内空港建設工事着手。11月宗谷旧藩士の墓を山上より旧護国寺跡地に移転する。 1957(昭和32)年、稚内測候所気象台に昇格。 1958(昭和33)年、7月間宮林蔵渡樺出航の記念碑を建立する。8月間宮林蔵胸像を建立する。 1959(昭和34)年、2月曲淵稚内炭鉱閉山を宣言。5月稚内空港開港する。8月稚内港中央埠頭起工する。10月東京大学が宗谷村清浜のオンコロマナイ遺跡発掘調査行う。 1960(昭和35)年、7月南極観測樺太犬記念碑建立。10月声問沖灯標設置する。 1961(昭和36)年、4月北見線を天北線に改称。宗谷岬に日本最北の地碑を建立する。10月樺太犬慰霊塔建立する。 1963(昭和38)年、7月幕別の字名を恵北に改称する。8月抜海先住民族遺跡を調査する。氷雪の門、九人の乙女の像建立。 1964(昭和39)年、2月三井沢宗谷炭鉱閉山 1965(昭和40)年、9月稚内新駅舎完成。 1968(昭和43)年、7月宗谷岬の日本最北の地碑を建て直す。ノシャップ寒流水族館開館。 1971(昭和46)年、ノシャップ米軍基地閉鎖発表。 1973(昭和48)年、稚内空港定期便就航。 1974(昭和49)年、利尻礼文サロベツ国定自然公園が利尻礼文サロベツ国立公園となる。青少年科学館完成。 1975(昭和50)年、郷土資料館設置。 1978(昭和53)年、にしん資料館完成。稚内沖海底石油ボーリング開始。 1979(昭和54)年、船員保険保養所「宗谷パレス」完成。 1980(昭和55)年、日ソ友好会館完成。探検家間宮林蔵の立像建立。東洋一を誇る稚内港北防波堤ドーム全面改築工事完成。 1982(昭和57)年、宗谷岬展望台完成。 1983(昭和58)年、大韓航空機撃墜事件発生。宗谷黒牛の生産を開始する。 1984(昭和59)年、2月天北線全線の貨物営業を廃止。 1985(昭和60)年、大韓航空機事故の祈念碑「祈りの塔」完成。 1987(昭和62)年、稚内空港がジェット化。 1988(昭和63)年、世界平和の鐘、子育て平和の鐘が宗谷岬平和公園に設置。「動物ふれあいランド」が空港公園に完成。 1989(平成元)年、5月天北線廃止に伴い、代替輸送バス運行開始。そうや竜ふるさと歴史館完成。 1991(平成3)年、宗谷丘陵展望休憩施設「ゲストハウスアルメリア」完成。 1992(平成4)年、映画「南極物語」で主役の樺太犬を演じた、犬のタロが死亡。声問川大曲遺跡の発掘調査開始。 1994(平成6)年、大沼野鳥観察館完成。 1995(平成7)年、サハリン定期航路就航(稚内港〜コルサコフ(旧大泊)間)。 1998(平成10)年、風力発電施設稼動。「タロ・ジロ里帰り展」開催。 1999(平成11)年、サハリン定期航路再開。 2000(平成12)年、サハリン州考古学者ら15名、丸木舟で宗谷海峡横断。富士見地区の石油天然ガス基礎試錐「チカップ」本格的な掘削開始。 2004(平成16)年、宗谷丘陵の周氷河地形が北海道遺産に認定される。 2005(平成17)年、国内最大規模の風力発電「宗谷岬ウィンドファーム」(57基)が稼動開始。 2007(平成19)年、稚内メガソーラー実証実験施設の起工式挙行。稚内副港市場開業。ラ・ペールズ顕彰記念碑が建立される。 2008(平成20)年、国際・国内フェリーターミナル完成。 稚内市史、稚内市史第二巻参考 |