宮沢賢治文学碑住所 稚内市宗谷岬(宗谷岬公園内)稚内観光協会 稚内の由来は、アイヌ語のヤム・ワッカ・ナイ、「冷たい水の流れる沢」という意味である。 宗谷の由来は、アイヌ語の「シヨウヤ」(海獣の止まる磯の丘)この磯の丘にアイヌコタンがあったことから地名にした。他にも、宗谷岬の北にある弁天島は「ソーヤシュマ」(岩礁の海岸にある島)と呼ばれていた。また、「ソ(ショ)・ヤ」(岩礁の多い海岸)と呼び、これらが「ソーヤ」の由来とされている。現在の宗谷は「ウエン・トマリ」(悪い・入り江)というところで、うっかり舟を入れると岩礁で舟を壊すところだった。 大岬の由来は、旧宗谷村時代からの地名だが、「稚内市大字宗谷村字大岬」は観光客に紛らわしいということもあり、2003(平成15)年に「稚内市宗谷岬」に変更された。それ以前は「シリシユツ」(地・島、蔭)岬の陰になっているので付けられたもので、その後尻臼と改められ、大岬となった。 国道238号線の宗谷岬の交差点から宗谷岬公園方向に約220mほどの公園内にある。 宗谷岬公園内にある。1923(大正12)年8月に宮沢賢治が稚泊航路に乗った際に「宗谷」を詠んだとされている。 はだれに暗く 緑する宗谷岬の たゞずみと 北はま蒼に うち唾るサガレン島の 東尾や 1986(昭和61)年に碑を建立。宗谷要塞重砲連隊宗谷会の人たちが建立したもので、裏には平和を願う碑文が刻まれている。 裏の碑文 平和祈念碑 昭和十六年八月宗谷海峡警儀のため 宗谷要塞重砲兵連隊が創設され、ク サンルに司令部、大岬に連隊本部及 第一中隊、西能登呂に第二中隊、野 寒布の第三中隊、声問に第四中隊が 配置された。我らは部隊要員として 召集され、昭和二十年敗戦の日まで ある者は妻子と別れ、ある者は青春 を空しくし、寝食を忘れて任務に就 き北辺の護りに励んだ。更に西能登 呂要員は敗戦後もシベリアに抑留の 身となり四年有余の辛苦の日夜を送 った。この間再び故国の土を踏むこ となく白玉楼中の人となった七名の 僚友の霊に対し深く哀悼し、魂鎮ま らんことを念ずる。 戦後四十年余の歳月は我らに望外の 平和と繁栄をもたらしたが、それは 無事の同胞らの償いのない犠牲の上 に築かれたものであることを肝銘し 不戦平和の祈りと、願いをこめて、 この碑を建立する。 昭和六十一年十月吉日 宗谷要塞重砲兵連隊宗谷会一同 |