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旧丹波屋旅館和館・洋館

住所 枝幸郡中頓別町字小頓別91-1
一般公開はしていない

中頓別町

枝幸(えさし)の由来は、アイヌ語の「エサウシ」(岬)から。2006(平成18)年3月20日旧枝幸町と旧歌登町が合併し、現在の枝幸町となった。
中頓別の由来は、アイヌ語の「トー・ウン・ペッ(湖から出る川)」からであり、頓別川の中流に位置するため「中」が付いた。
小頓別の由来は、アイヌ語の「トー・ウン・ペッ(湖から出る川)」からであり、付近の地名と区別するために「小」が付いた。当時この辺りはシートンベツ原野と呼ばれていた。
音威子府市街地の国道40号線国道275号線の分岐から浜頓別方向に約14.4km右手。

登録有形文化財で、以前は個人所有の建造物だったが、現在は旧丹波屋旅館 保存会が管理・保存している。
一般への公開はしていない。外観のみの撮影しかできないので注意。


こんな山の中に和洋折衷な建物が見えてくる。旧丹波屋旅館である。この旧丹波屋旅館は旧天北線小頓別駅の開業に合わせて建設された駅前旅館で、和館は1913(大正2)年頃に建てられ、当時は菅井旅館と称していた。洋館は1927(昭和2)年頃建設された。
写真でも分かるように、左側は洋風で右側は和風の和洋折衷。
当時の菅井旅館を経営していた菅井鉄之助氏は、新潟県の出身で板前修業をしてから小頓別で旅館を開いた。旅館の傍ら道庁から官馬を借受けて、小頓別と枝幸に馬宿を設けて毎日双方から車馬を一便ずつ出して旅行者の便を図っていた。1927(昭和2)年頃には稚内にもないという三階建ての洒落た洋館を建築する。
この頃の小頓別は大変な賑わいだった。列車が到着すると、迎えを出した。雨の日には屋号の入った傘で、夜には提灯をもって駅まで客引きに出向いた。部屋は8室あったが、造材ブームの頃には間に合わず廊下に布団を敷いて寝てもらうほどだったという。この頃小頓別には芸者もおり付近の待合で遊んだり、ガス灯も点いていたこともあり夜遅くまで賑やかだったという。
写真は2018(平成30)年8月の外観。

写真は以前に訪問した際の写真で現在は建物内部の写真を撮るのは不可能である。

主屋としての和館は小頓別駅開業時に合わせて建設されたもので、かなり年季の入った作りになっている。木造2階建、切妻屋根(豪雪地帯においては、屋根の上に雪が積もりにくいため、雪の重量による倒壊の危険が小さいという利点がある屋根)。
構造、和館は、木造2階建、亜鉛メッキ鋼板葺、建築面積102m2。1913年(大正2年)頃建築。洋館は、木造2階建、亜鉛メッキ鋼板葺、建築面積50m2。1927年(昭和2年)頃建築。屋根裏部屋付き、下見板張(外壁に横板を下部から数センチずつ重なり合うように張ったもののこと)の洋館で、縦長窓が特徴的でなんとも美しい作りとなっている。

ここは和館の2階、廊下があり横には雨戸を収納する戸袋もあり、かつてはここが全開に開いたというのがわかる。ここからの眺めは、悠久の時を感じずには居られなかった。

2階の欄間には、綺麗な欄間彫刻が掘り込まれていていい味出していましたね。いたるところに手の込んだ建築が施されているのが垣間見れた。

3階にはちょっと変わったお部屋があり、部屋の中も白く塗られた土壁で、一風変わった作りに圧倒された。

当時、このような歴史的価値のある、美しい建物を個人の方がそこに居住しながら保存されていることに尊敬すると共に、突然のアポ無しの訪問にも快く受け入れてくださった御夫婦には感謝致します。この登録有形文化財というのは、助成制度などというものは無いそうで、生前のご主人は「古くなって直そうにも、住みにくい使いにくいから改築しようにも、元の建物に手を加えることは一切御法度だし、年も年だから解体してしまおうかと思っているんだ」と仰っていました。
しかし保存会の方がしっかりとこの遺構を大事に保存していることを知り安心しました。
内部の写真は、当時まだここに住んでいた御夫婦の方に案内していただき撮った貴重な写真です。現在は外観しか見られません。末永く保存されることを心から願います。

小頓別地方の開拓は、1914(大正3)年11月宗谷線(天北線)の音威子府〜小頓別間を延伸開業から始まるまでは美深町恩根内から徒歩か川舟でサクル(音威子府村咲来)にでて、ここから頓別原野(現・枝幸郡枝幸町歌登)から北見山地を越えて上頓別原野に出るか、天北峠からシートンベツ原野にでて入植した。
ここシートンベツ原野は、1911(明治44)年秋田県雄勝郡(現・秋田県湯沢市)出身の柿崎磯治が秋田地区に入植したことから始まる。特定地71戸分を出願し、1912(大正元)年8月に先発の秋田団体8戸を率いてシートンベツ原野に入植した。9月には斎藤利吉が秋田県由利郡(現・秋田県にかほ市)から55戸を率いて入植した。しかし入植翌年の1913(大正2)年の大凶作で食料が欠乏し、大半が開拓を諦めて郷里へ帰ってしまった。残った者は造材人夫として山に入った。このとき柿崎氏は私財を投げうって団員の救済に当たった。さらに郷里から32戸の開拓団を補充する。さらに自宅を寺子屋として提供し、部落有志と共に説教所を建設し、曹洞宗の僧を招いた。
 岩手地区は、1912(大正元)年5月岩手団体の及川末吉、藤倉三次郎、千葉敬一郎、菊池定蔵ら6戸16人が特定地に貸付を受けて、小頓別から北東6kmの原野に入ったのが由来となった。
入植当時は、頓別川の氾濫が毎年のように起こり悩まされたが森林資源が豊富だったこともあり、炭焼きでしのいだという。1913(大正2)年には三上直太朗、吉田千代吉ら8人が入植し、部落開拓の基礎を作った。
1914(大正3)年11月宗谷線(後の天北線)の音威子府〜小頓別間を延伸開業し、秋田・岩手の中間に小頓別駅が出来るのを前後に商店、旅館などができ、駅周辺は市街化が進み駅周辺には20戸以上の家が立ち並び、周辺の秋田・岩手部落の住民を加えると100戸を超える市街地となり、人馬取次所も含めて枝幸、中頓別方向への交通の要衝だった。


1645年〜1648(正保)年間、「ツウヘチエソ」と正保御国絵図に記される。
1670(寛文10)年、「つんへつ村」と頓別の地名が津軽一統志に記録される。
1684(貞享元)年、松前藩直領の漁場、宗谷場所が開設される。(場所は、対アイヌ交易のため和人が訪れる所定の場所)
1700(元禄13)年、松前藩が幕府に呈上した元禄御国絵図に「つうへち」で図示される。
1706(宝永3)年、村山伝兵衛が宗谷場所請負となる。
1756(宝暦6)年、浜屋与三右衛門ら3人が、ソウヤ場所を請負う。
1775(安永4)年、ソウヤ場所を飛騨屋久兵衛が請負う。(村山伝兵衛が8年間下請けする)
1782(天明2)年、飛騨屋久兵衛が宗谷斜里場所を請け負う。
1785(天明5)年、最上徳内が、金山を開く目的で蝦夷地を調査する。幕吏・庵原(いはら)弥六、佐藤玄六郎、下役松前藩の協力者らで、蝦夷地西岸を渡り、宗谷からカラフトを踏査するが寒さと飢えで宗谷に戻った。宗谷到着後、佐藤玄六郎は庵原と別れ、蝦夷地東北海岸を検分し、東蝦夷地へ向かい厚岸に着いた。
1789(寛政元)年、国後、目梨のアイヌ反乱。和人70人を殺害。飛弾屋を免じ、村上伝兵衛に場所請負を命ず。
1790(寛政2)年、ソウヤ場所からカラフト場所独立、シャリ場所を分設。
1791(寛政3)年、 枝幸の北見神威岬ににのろしをあげる烽火台を設置する。
1796(寛政8)年、村山伝兵衛の場所請負没収、ソウヤ・シャリ・カラフトの3場所、小山屋権兵衛の請負となる。
1797(寛政9)年、松前藩が「松前東西地理」を作成し、トンベツの地理が記載される。小山屋にかわり板垣豊四郎が3場所を請負う。
1800(寛政12)年、ソウヤ・シャリ・カラフトの3場所、松前藩の直営とし柴屋長太夫に任せる。
1801(享和元)年、 頓別・徳志別などに漁場の番屋を設置する。
1807(文化4)年、トンベツにアイヌの家12軒、男女67 人(アイヌの長シリメキシュヱ)と戸口について西蝦夷地日記に記録あり。蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。択提島を荒らしたロシア船知床半島近くに現われる。宗谷・斜里警備の津軽藩兵水腫病にかかり翌春へかけて死亡者多数におよぶ。
1808(文化5)年、会津、仙台藩の兵が蝦夷地に派遣される。柏屋喜兵衛(後の藤野)ほか、共同で宗谷・斜里場所の請負となる。
1815(文化12)年、宗谷・斜里場所藤野喜兵衛の単独請負となる。
1817(文化14)年、藤野喜兵衛千島・クナシリ場所を請負う。
1819(文政2)年、青森県閉伊郡大畑村字島沢(現・青森県むつ市大畑町付近)の住人吉井茂兵衛氏が主家藤野家の信仰に係る厳島の御分霊を奉遷し、小社を建立した。(厳島神社由緒、現・枝幸郡枝幸町新栄町536番地1)
1821(文政4)年、幕府、東・西蝦夷地を松前藩に返領。
1846(弘化4)年、松浦武四郎、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。トンベツ川を舟で渡りシヨナイ(斜内)に泊まると再航蝦夷日記に記載あり。
1850(嘉永3)年、枝幸沿岸で鰊漁が盛んとなる。
1854(安政元)年、藤野喜兵衛がホロベツ(現・幌別)とトプシュベツ(現・徳志別)に渡舟を設ける。幕府、箱舘奉行をおく。
1856(安政3)年、松浦武四郎、トンベツ、ショナイについて具体的に記録、武四郎廻浦日記に絵図あり。
1859(安政6)年、蝦夷地を分領し、ソウヤ・リシリ・レブンは秋田藩領となる。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道とし、11国86郡を定め、北見国枝幸郡となる。9月北見国を分領(宗谷・枝幸・礼文は金沢藩領) 10月場所請負人の名目を廃し、漁場持と改める。北見国枝幸郡が正式に置かれエサシが枝幸となる。10月21日朝、プレーキストン氏枝幸を出発、斜内に2泊(熱のため休息)23日朝、頓別を通過、夕方猿拂着宿泊とある(プラキストン著「蝦夷の中の日本」)。
1867(慶応3)年、宗谷地方は箱館奉行所の直轄地に編入される。
1870(明治3)年、枝幸郡は金沢藩から開拓使直轄となる。
1871(明治4)年、判官松本十郎、北見国各郡を巡視トンベツ、アイヌの家2戸あり川守をしている(北見州経験誌)と書く。栖原半七・伊達林右衛門の両名枝幸郡の漁場持となる。
1872(明治5)年、北海道開拓使宗谷支庁設置する。枝幸出張所が開設される。枝幸郡戸口36戸、人口153人(男85人、女68人)とある。開拓判官大山重が主任となる。10月佐藤正克がトンベツで一泊する。
1873(明治6)年、宗谷支庁を廃し、留萌支庁の管轄となる。
1874(明治7)年、アメリカの地質学者ベンジャミン・スミス・ライマン氏が、9月22日枝幸出発シヨセフの沢より馬で斜内山道を越え斜内に一泊。
1875(明治8)年、3月宗谷に開拓使出張所を置く。判官松本十郎北見国巡回、これが最後となる。白坂藤吉が枝幸で鮭漁を営む。樺太千島交換条約締結。樺太原住民841名を稚内に移住させる。5月カナ地名を漢字地名に改める。
1876(明治9)年、漁場持の制度を廃止し、大小区制度施行。枝幸は28大区1小区となる 。
1878(明治11)年、枝幸郡に枝幸、頓別、歌登、礼文の 4 ヶ村が設けられる。斜内にアイヌの家6戸。
1879(明治12)年、宗谷外3郡役所、6村戸長役場の支配下に置かれる。
1882(明治15)年、2月開拓使を廃止し函館・札幌・根室の三県が置かれ、枝幸は札幌県に属する。
1884(明治17)年、斜内において和人(姓不詳)1人漁業を営む。
1886(明治19)年、1月3県を廃して北海道庁設置、函舘・根室に支庁をおく。
1887(明治20)年、谷梯東太が、寺子屋式教育はじめる。枝幸小学校私設教授の開設となる。
1888(明治21)年、大橋良次が斜内で初めて鰊網を試みる。
1889(明治22)年、天塩北見漕運会社設立。増毛〜網走間の航路。香深(礼文島にある港湾)に寄港。冬季定期航路の開設。佐藤子之助が官名で頓別川の渡船管理人となる。
1890(明治23)年、簡易小学校の認可がおり、枝幸小学校の前身が開校となる。
1891(明治24)年、宗谷・枝幸両郡の戸長役場より分離・枝幸外3ヶ村(頓別・歌登・礼文)戸長役場を設置する。電信線開通。
1893(明治26)年、頓別駅逓所創設、取扱人土佐久三郎となる。菅原某が砂金を採取する。
1894(明治27)年、斜内に松本忠太郎の漁場1ヶ所開設、佐藤長五郎定置漁場にし定住の始めとする。枝幸〜旭川の道路開設調査を行う。礼文村オレタンラップ(現・枝幸郡枝幸町乙忠部モオレタラップ川付近)に駅逓所建築する。
1895(明治28)年、渡船場管理人佐藤子之助、頓別駅逓所取扱人となり定住する者が増える。山軽駅逓所新設し、取扱人成田徳蔵となる。頓別川口に駅舎新設。頓別川の渡し守を川端多助・川村広太が請負う。
1896(明治29)年、斜内に私設の寺子屋式児童教育所が新設される。河野常吉氏が植民状況調査で頓別村に来る。石川要三がフーレップ川(枝幸郡枝幸町風烈布)で砂金採集を行う。
1897(明治30)年、砂金発見される。産金数は100貫・1万8000余人の採集者が集まり集まり賑わう。下幌別原野植民地区画測量する。郡役所を改め、宗谷支庁を開設。11月斜内山道開削。
1898(明治31)年、6月堀川泰宗らパンケナイ(現・枝幸郡枝幸町歌登パンケナイ)、8月頓別川の支流ウソタンナイ川上流で新金田発見しゴールドラッシュとなる。頓別川の支流ペイチャン川に豊富なる砂金の産出あり、採取人がウソタンナイ川と合せ約1万6千人を数えたという。頓別原野6線まで約500町歩の植民地区設定される。頓別川上流の支流ウツナイで石炭が見つかる。
1899(明治32)年、5月枝幸郡頓別村字ペーチャンの砂金地発見される。ウソタンナイの採取許可を受け、事務所1棟、物品販売所1棟、巡査発出所1棟建てられる。大谷三五郎がブタウス(現・豊牛)に入植する。橋本直吉・田中新兵衛が鮭漁を始める。
1900(明治33)年、9月頓別駅逓所に官馬と手当支給される。ウソタンナイ砂金区より205 匁(768.75g)の日本最大の金塊発掘。ウソタン砂金地に外国人砂金採取者が入山。ウソタンナイ〜枝幸間の砂金山に通ずる道を整備する。ウソタンナイの砂金鉱区出願が殺到する。頓別原野39線まで植民区画設定する。
1901(明治34)年、9月ウソタンナイ砂金山の採取者は442人。その他は密採取者は約2000〜3000人とも推定される。ウソタンナイのゴールドラッシュはこの頃までと言われている。
1904(明治37)年、5月楢原民之助氏が頓別原野36線(現・中頓別市街)に定住し、農耕に従事する。これが中頓別の農業の始まり。上幌別駅逓所開設。(現・枝幸町歌登中央)
1907(明治40)年、咲来に通ずる仮定県道工事はじまる。
1909(明治42)年、2級町村制施行により頓別、歌登、礼文、枝幸が枝幸村に併合。10月道徳安二氏が枝幸郡第10部(中頓別町区域)の部長となり、この日を中頓別町開拓の日と定めた。12月頓別原野36線(現・中頓別市街地)に頓別第二特別教授場を創立。(寺子屋の始まりとなる)
1912(明治45)年、橋本正義ら4人が福島県田村村(現・福島県郡山市田村町)から上頓別へ入植する。
1912(大正元)年、8月柿崎磯治が秋田団体8戸を率いてシートンベツ原野(小頓別)に入植した。
1913(大正2)年、2月福島県三春(現・福島県田村郡三春町)の52戸が上頓別に入植する。9月頓別〜中頓別間の道路が開通する。
1914(大正3)年、1月柿崎氏が私宅を教育所にする。11月宗谷線(後の天北線)音威子府〜小頓別間が延伸開業し、上音威子府駅、小頓別駅を新設する。家入平次郎が熊本団体9戸を率いて敏音知に入植する。天野太一郎が福島団体7戸を率いて知駒内に入植する。福島県三春から50戸が上頓別に入植する。北見金山が弥生で操業する。
1916(大正5)年、4月枝幸村(現・枝幸町)より分村、2級町村制施行し、頓別村となり役場設置する。中頓別は頓別村に編入される。鈴木春蔵が宮城団体の12戸を率いて敏音知に入植する。10月小頓別〜中頓別間を延伸開業し、敏音知駅・松音知駅・中頓別駅を新設する。12月頓別沿岸に高潮あり、家屋、商品流失、市街の大半が被害を受ける。
1917(大正6)年、2月中頓別郵便局設置。4月中頓別小学校、小頓別小学校が開校。11月中頓別〜小頓別間の道路を開通する。
1918(大正7)年、8月中頓別〜浜頓別間を延伸開業し、下頓別駅・浜頓別駅を新設する。ウソタンナイ砂金区を藤田組に一括買収、砂金地から砂金掘りは途絶えた。北又次郎が頓別川支流にて99万8850坪の石炭鉱区の試掘を出願する。ウソタン川で水力発電工事に着手する。西尾英蔵が下頓別にて木工場設立し操業する。今忠吉がはじめて発動機付きの船で漁業を営む。
1919(大正8)年、8月第七師団工兵隊により斜内山道を改修され、馬車が通行できるようになる。9月浜頓別〜音威子府線の道路完成する。10月宇曽丹の水力発電所完成する。宗谷線を宗谷本線に改称。11月浜頓別〜浅茅野間が延伸開業し、山軽駅、浅茅野駅を新設する。菅野栄助と村民の篤志により頓別神社を造営する。祭神は大山祇神である。下頓別神社を移転し、下頓別八幡神社(現・枝幸郡浜頓別町下頓別)と称する。
1920(大正9)年、5月酒井酉松が村内で水稲を直播で栽培する。12月頓別水電株式会社が、宇曽丹川にて水力発電所建設し、浜頓別、下頓別、中頓別市街に送電する。頓別原野駅逓所が下頓別市街地に移転する。取扱人は近藤勝之助。
1921(大正10)年、4月頓別村より中頓別(現・中頓別町)分村し、二級町村制を施行。11月中頓別警察分署開庁する。
1922(大正11)年、1月頓別村役場庁舎新築落成する。12月下頓別〜宇津内、下頓別〜茂宇津内の道路が完成する。
1929(昭和4)年、8月中頓別神社が造営される。11月小頓別〜上幌別六線(歌登)間に植民軌道が完成し馬鉄が走る。
1930(昭和5)年、4月音威子府駅〜浜頓別〜稚内駅間を宗谷本線から線路名を北見線に改称し、天塩線を宗谷本線に編入する。
1932(昭和7)年、7月小頓別〜枝幸間の植民軌道が開通する。
1933(昭和8)年、中頓別鍾乳洞が発見される。
1938(昭和13)年、12月中頓別鍾乳洞、天然記念物の指定を受ける。
1942(昭和17)年、小頓別市街の電燈施設が完成する。
1943(昭和18)年、2月中頓別神社が雪の為崩壊する。
1949(昭和24)年、11月町制施行、中頓別町となる。
1955(昭和30)年、7月中頓別役場の新庁舎が落成する。豊泉・兵安地区が電化となる。
1956(昭和31)年、1月森永乳業の前身、町営製酪事業が操業開始。これにより農業の中心が畑作から酪農になる。
1957(昭和32)年、6月中頓別市街地に水道施設が完成する。
1961(昭和36)年、4月北見線を天北線に改称する。
1964(昭和39)年、7月上頓別市街に飲料水供給施設が完成する。12月神崎地区が電化となる。
1965(昭和40)年、11月敏音知に簡易水道完成する。12月上頓別・旭台地区が電化となる。
1967(昭和42)年、12月松音知に簡易水道施設完成する。
1971(昭和46)年、7月北日本産業中頓別石灰工場が操業する。
1972(昭和47)年、3月美瑛製割箸工場中頓別工場が操業を開始する。
1980(昭和55)年、12月寿スキー場オープン。
1982(昭和57)年、4月主要道々浜頓別音威子府線が国道275号線に昇格。
1984(昭和59)年、1月第1回中頓別冬まつり開催。翌年からしばれまつりと改称する。
1985(昭和60)年、8月運輸省、天北線廃止を正式に承認。9月郷土資料館完成。
1986(昭和61)年、7月敏音知冷泉試験導水に成功する。
1988(昭和63)年、3月森永乳業株中頓別工場閉鎖。6月ペーチャン川砂金掘体験場オープンする。
1989(平成元)年、4月天北線廃止。5月代替バス運行開始。ピンネシリ温泉オープン。
1990(平成2)年、天然記念物、中頓別鍾乳洞内整備。
1992(平成4)年、4月ピンネシリ温泉宿泊施設オープン。
1993(平成5)年、7月ピンネシリオートキャンプ場がオープン。
1996(平成8)年、10月敏音知道の駅オープン。
1999(平成11)年、8月第四回全日本砂金掘大会が中頓別町で開催。
枝幸町史・浜頓別町史・中頓別町史参考

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