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天塩運上屋跡

住所 天塩郡天塩町海岸通4丁目3875番(裏手)

天塩町

天塩の由来は天塩川、アイヌ語の「テシ・オ」「テシュオ」(梁(やな)・ある)から。
海岸通の由来は、1895(明治28)年3月道庁告示で天塩村予定市街地を設定し、天塩川左岸地区に海岸通り、山ノ手通り、山ノ手裏通りの字名を置いたことに始まる。いずれも1丁目〜11丁目までで、1896(明治29)年天塩村の土地貸付始まる。これが天塩の街づくりの始まりで、当時戸長役場が置かれた時の住民は、アイヌが4戸、和人が14〜15戸だった。
道の駅 てしおそばの、国道232号線道道551号円山天塩停車場線交差点から道道106号稚内天塩線を手塩川方向に約500mほど直進した右手。

ここ運上屋は主に天塩場所の事務所として利用された。使用人はアイヌがほとんどで、後に菊地和三郎が番人となる。
建物は、1912(大正元)年まで現存していたが、風で屋根が飛ばされ危険と判断され、取り壊され現在は民家となっている(裏手に標柱があるだけで案内板などはない)。1982(昭和57)年1月に天塩町文化財に指定された。
ここから見る利尻富士は見事だった。手塩川方向に降りていくと「天塩川河川公園」があり、雄大な天塩川河川敷に約1km余りにわたり整備された公園。開放感にあふれ、天塩川を下るカヌーポートや、子どもたちが遊ぶ親水広場もあり、対岸の砂洲から広がる日本海に沈む夕日は圧巻だ。


標柱そばから見た景色

松前藩成立当初から天塩アイヌとの交易があったようで、約70日の行程を経てアイヌが交易品を持って松前に来ており、交易品の中には大陸の物と思われる物もあった。
この天塩アイヌは、樺太との交易を通じて、大陸の品を入手し、松前での交易で日本製品を入手していた。当時の松前藩はアイヌとの交易で藩経済が成り立っているといっても過言ではなく、家臣は知行地の代わりに、各場所(漁場)を割り当てられ、そこでの収益が封禄となっていた。主な交易品はアイヌの望む米・酒・煙草・鉄器など、その見返りとして獣皮・熊胆・鹿角・鮭鱒・干物などだったようである。
手塩に場所が設置されたのは、1596(慶長元)年〜1615(慶長20)年の慶長年間と言われているが年代は定かではない。当時の場所の範囲は、苫前場所の境界であるヲタコシベツ(現・歌越)から宗谷場所の境界であるエキコマナイ(現・勇知)までだった。当時の知行主の名前は不明で、当時の交易は年に1回から2回程度だったようで、関係も対等だった。
しかし対等だった関係も、シャクシャインの蜂起以後はアイヌの勢力も松前藩に削がれアイヌが従属化されていくこととなる。
津軽一統志によると、当時の天塩は「大川有、狄あり、家二十軒」と記され、他にも「天塩の大埒一人」「天塩酋長トミウヘワイン一人」ともい記されている。二十軒ほどのアイヌがトミウヘワインによって統率されていることが書かれている。

テシホ場所は、1781(天明元)年〜1789(天明9)年の天明年間には、松前藩の一門である松前貢の知行地だった。松前貢は松前のキタムラ(不明)、ツイシカリ(現・江別市対雁対雁付近)、トママイ(現・苫前町)、テウレ(現・天売)、ヤンケシリ(現・焼尻)も所有していたようである。1786(天明6)年場所請負制が始まり、紀伊国商人の栖原屋角兵衛を請負人とした、場所請負が始まった。この場所請負は、知行主に代わり商人が交易を請負、知行主に運上金(租税の一種)を支払うもので、1876(明治9)年に場所請負制度が廃止されるまで続いた。当時の運上金は353両ほどだったと言われている。
 1807(文化4)年西蝦夷地が松前藩領から天領(幕府直轄領)になるが、1821(文政4)年幕府は、蝦夷地を松前藩に返還する。1846(弘化3)年松浦武四郎が天塩に訪れる。「再航蝦夷日誌」では「天塩には栖原屋の運上屋は無く、番屋のみがあり、運上屋は苫前にあった。「テシは川筋大にかわり来り、鮭漁もなき様に変じたるが故に此処へ皆曳しもの也」「此川源より材木多く流れ来り網に懸りて鮭網なり難き故に、今の場所に移せしもの也」とあり天塩川の河口が変化し港として不便であり、流木などが多く鮭網が掛けられず鮭の漁獲が減少したようである。
 1855(安政2)年蝦夷地が再び松前藩領から天領になり、天塩が秋田藩領になる。1856(安政3)年には箱館奉行を置き、天塩場所には勤番所が置かれ、詰合役人(下役に伊藤多仲・同心に鈴木三六・足軽に福士清三郎)が常駐するようになり、天塩場所は宗谷詰の管轄下におかれる。栖原屋の場所請負いは継続となった。テシホ場所とトママイ場所は分割となり、天売・焼尻はテシホ場所に編入された。
協和私役には、「テシホ所領凡十五里、旧来「テシオ」「トママイ」同一場所ニシテ運上屋「トママイ」に在り、「テシオ」ハ番屋在ルノミニシテ総テ廿八里一連ナリシヲ、昨年官裁トナリシヨリ裂テ二場所ト為セリ。而シテ「テウレ」「ヤンキシリ」二島、「トママイ」ノ前洋ニ在リテ「トママイ」隷属スヘキ地勢ナレトモ、「テシオ」場所漁獲ナキヲ以テ二嶋「テシオ」の管轄ナル由。」と書かれている。
松浦武四郎が天塩内陸踏査のため再び訪れ、「詰合伊藤多仲なるもの甚しく威張る。如此事にては蝦夷地開拓は思ひやられるるなり」と武四郎自伝に書かれている。その後詰合は庵原勇三郎に代わっている。1857(安政4)年6月6日松浦武四郎が天塩川河口からさかのぼり、源流近くまでを探検する。
1859(安政6)年天塩、苫前、留萠、天売、焼尻が庄内藩領になり、詰合役人も廃止となった。
庄内藩領になってもトママイ、テシホ場所は栖原屋の場所請負となっていた。当時はまだテシホ場所では永住は見られず、出稼ぎがほとんどだった。
1869(明治2)年8月天塩地方は水戸藩領となる。1870(明治3)年留萠郡は山口藩の支配となる。天塩郡など一帯の場所持だった栖原屋は権利を失うが出稼ぎという名目で事業は継続される。1871(明治4)年各藩の分轄統治が廃され、天塩地方は水戸藩支配から開拓使の管轄となる。12月栖原屋は天塩国一円、焼尻、天売地区の漁場持を開拓使より許可され、1895(明治28)年事業不振に陥るまで広い範囲の漁場経営を継続した。

天塩市街は、明治初年の頃漁撈季節労働者の他、菊池和三郎の一軒とアイヌの家が天塩川沿岸に数軒散在していただけだという。その後1887(明治20)年に大村長治が農牧と造材事業をするために入植するまで人家は雑然とし、市街地というのは遠いものであった。大村長治氏は栖原屋で働き、天塩漁場の責任者でもあった菊池和三郎の船頭として迎えられている。
手塩漁場は明治に入っても、栖原屋の勢力のもと運営されている。1882(明治15)年4月天塩村に天塩・中川・上川三郡を管轄する戸長役場が設置されるが、1886(明治19)年4月天塩村の戸長役場が苫前に移される。天塩には派出所が置かれる。1893(明治26)年6月天塩郡の各村にあった戸長役場を天塩に再び設置し、天塩川左岸地区に1895(明治28)年3月天塩村予定市街地を設定し、海岸通り、山ノ手通り、山ノ手裏通りの字名を置き、市街地を設置。1896(明治29)年天塩村の土地貸付始まり天塩市街が形成されていった。
ちなみに、1876(明治9)年に場所請負制度が廃止されるまで続き、1895(明治28)年栖原屋が事業不振に陥るまで広い範囲の漁場経営を継続したとある、運上屋は、1869(明治2)年11月開拓使が幕府時代の会所、運上屋を本陣と称させた。1872(明治5)年1月本陣を廃し、旅籠屋並と改称する。4月旅籠屋並を廃し、本陣、会所、旅籠屋いずれの名称を名乗ってもいいようになったが、8月これを全て改め駅逓扱所とした。これが駅逓の始まりである。


約3000年前(紀元前10世紀)、先住民族天塩川河口に竪穴住居を営み始める。
1596(慶長元)〜1614(慶長19)年、この頃テシホ場所設置される。
1689(元禄2)年、松前藩士蛎崎七之丞が藩命で西蝦夷地である留萠、天塩海岸を調査する。
1690(元禄3)年、松前藩が藩士と工夫を羽幌地区に派遣し、砂金を採取する。
1700(元禄13)年、2月松前藩は全島地図「松前郷帳」(小川養甫作成)を幕府に提出する。同地図に「テシホ」の地名が初めて載る。
1719(享保4)年、飛騨屋久兵衛が、石狩、天塩国の蝦夷松を伐採し、用材を本州に出す。
1786(天明6)年、場所請負制が始まり、紀伊国商人の栖原屋角兵衛を請負人とする。
1798(寛政10)年、松平忠明が東西蝦夷地を巡視し、天塩を経て宗谷に達する。
1801(享和元)年、4月松平忠明が再び天塩を経て宗谷に達する。
1804(文化元)年、栖原屋の支配人(栖原彦兵衛)天塩台地に小堂を建て弁財天をまつる。(厳島神社の創始)
1804(文化元)〜1818(文政元)年、この頃間宮林蔵この沿岸を測量(伊能忠敬の全島沿岸実測図として完成)
1807(文化4)年、西蝦夷地が松前藩領から天領(幕府直轄領)になる。
1821(文政4)年、幕府、蝦夷地を松前藩に返還する。
1833(天保4)年、栖原屋の天塩番人平八郎がはじめて越冬する。天塩の和人越冬の始まり。
1840(天保11)年、マシケ以北の出稼許可され、江差・福山・南部・津軽地方の漁民この地方に姿を見せはじめる。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が天塩に訪れる。
1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。天塩が秋田藩領になる。
1856(安政3)年、松浦武四郎が天塩内陸踏査のため再び訪れる。
1857(安政4)年、6月6日松浦武四郎が天塩川河口からさかのぼり、源流近くまでを探検する。
1859(安政6)年、天塩、苫前、留萠、天売、焼尻が庄内藩領になる。
1869(明治2)年、8月天塩地方は水戸藩領となる。
1870(明治3)年、留萠郡は山口藩の支配となる。天塩郡など一帯の場所持だった栖原屋は権利を失うが出稼ぎという名目で事業は継続される。
1871(明治4)年、各藩の分轄統治が廃され、天塩地方は水戸藩支配から開拓使の管轄となる。12月栖原屋角兵衛は、天塩国一円、焼尻、天売地区の漁場持を開拓使より許可される。
1872(明治5)年、9月開拓使宗谷支庁がおかれ、天塩国、北見国の宗谷、枝幸、利尻、礼文がその管轄下となる。宗谷支庁の中主典佐藤正克が天塩川を遡り、沿岸の地勢や現地人の事情を調査する。10月天塩所在の会所が駅逓扱所となる。
1873(明治6)年、2月開拓使宗谷支庁が留萠に移され留萠支庁となる。
1874(明治7)年、天塩郵便取扱所開設する。駅逓(通行屋)の川村能右衛門が取扱人となる。
1875(明治8)年、3月開拓使留萠支庁が廃され、開拓使札幌本庁の管轄下となる。出張所を置く。
1876(明治9)年、天塩の厳島神社が村社となる。
1878(明治11)年、7月郡区町村編成法により、天塩郡の天塩・幌延・遠別・沙流の村名が創設される。
1879(明治12)年、7月留萠に留萠、増毛、苫前、天塩、中川、上川の郡役所を置く。
1882(明治15)年、4月天塩村に天塩・中川・上川三郡を管轄する戸長役場が設置された。
1886(明治19)年、4月天塩村の戸長役場が苫前に移される。天塩には派出所が置かれる。天塩地方は道庁札幌管内に属する。宗谷から利尻、礼文の定期航路運航始まる。
1893(明治26)年、6月天塩郡の各村にあった戸長役場を天塩に再び設置する。
1895(明治28)年、3月道庁告示で天塩村予定市街地を設定し、海岸通り、山ノ手通り、山ノ手裏通りの字名を置く。
1896(明治29)年、天塩村の土地貸付始まる。
1897(明治30)年、6月天塩村の戸長役場管轄から中川・上川両郡を分離する。天塩材時代と呼ばれ、林業が盛んになる。剣渕村に戸長役場を設ける。11月郡役所廃止に伴い増毛支庁を設置する。苫前村から羽幌村が分離する。
1898(明治31)年、6月天塩炭砿着業する。12月四原野(オヌプナイ、ウブシ、サラキシ、天塩川口)の1263.3万坪払い下げられ、越中・岩手・山形・宮城から入植する。武田与八郎らが川口原野に入植する。島地譲が団体を組織し更岸地区(現・天塩郡天塩町更岸)に入植する。
1899(明治32)年、5月増毛支庁管内の天塩国上川郡を上川支庁に移管する。10月私立天塩教育所を設置する。福井県寺本久左衛門が27戸を連れウブシ地区に土地貸付受ける。
1900(明治33)年、4月寺本久左衛門がウブシ原野西線南六号に入地する。秋田県人泉波為治小作人をオヌプナイ地区に入植する。
1901(明治34)年、3月富山県人藤沢仁左衛門・石沢初次郎が50万坪の貸付を受け下サロベツに入植する。12月天塩〜名寄間、天塩〜苫前間の仮定県道の全線開通う。円山〜オヌプナイ道路完成する。下沼の農会代表(天塩・苫前・留萠・増毛)に山田権左衛門がなる。
1902(明治35)年、天塩水産組合ができる。羽幌村が二級村となる。12月ウブシに官設駅逓設置する。のちにオヌプナイに移設。この年最初の牛が導入される。天塩市街〜下サロベツ間の道路開通する。
1903(明治36)年、4月遠別村分立。天塩村外2ヶ村戸長役場になる。
1905(明治38)年、宮城県人工藤勘兵衛らがコクネップ(現・天塩郡天塩町下コクネップ)御料地に入地する。
1908(明治41)年、4月更岸に遠藤金之助ら山形団体30戸が入植する。6月旭川営林区署天塩分署が設置される。
1909(明治42)年、4月幌延、沙流の2村が分立して天塩村戸長役場となる。羽幌村が一級村となる。
1910(明治43)年、1月オヌプナイ市街予定地に字名設置する。7月厳島神社を現在地に遷宮。天塩市街で大火。
1914(大正3)年、8月天塩電灯株式会社支店が開設、市街と川口原野に電灯が点く。9月留萌支庁の管下に入る。留萠管内農会議会に山田権左衛門が当選する。
1915(大正4)年、4月天塩村に二級町村制が施行される。苫前村に町政を施行する。500ワットの港湾照明塔を河口南側岸壁に設置する。
1917(大正6)年、4月村内の更岸、川口、第一、第二、啓徳、産士、幌萠の各教育所は尋常小学校に昇格となる。10月市街地で大火。市街全滅といわれた大火でのあと離村者続出する。
1919(大正8)年、4月遠別と幌延に二級町村制施行。
1921(大正10)年、4月羽幌に町制施行。
1922(大正11)年、11月宗谷線が宗谷本線に改称。天塩線の音威子府〜誉平間が開業し、筬島駅、神路駅、佐久駅、誉平駅を新設する。
1923(大正12)年、1月天塩郵便局で電話交換業務を開始した。国鉄羽幌線建設工事着工。11月手塩線の誉平〜問寒別間が延伸開業し、宇戸内駅、問寒別駅を新設する。
1924(大正13)年、4月一級町村制が施行され、町制を施行し「天塩町」となった。6月天塩線を天塩南線に線名を改称する。天塩北線の稚内(初代)〜兜沼間が開業し、抜海駅、勇知駅、兜沼駅を新設する。
1925(大正14)年、7月天塩南線の問寒別〜幌延間が延伸開業し、雄信内駅、安牛駅、上幌延駅、幌延駅を新設する。
1926(大正15)年、9月天塩南線の幌延〜兜沼間が延伸開業し、下沼駅、豊富駅、徳満駅、芦川駅を新設する。音威子府〜幌延〜稚内間が全通したことにより、当該区間を天塩線に改称する。沙流(現・豊富町)で石油掘削中に温泉噴出する。
1928(昭和3)年、8月天塩市街大火。
1930(昭和5)年、4月天塩線が宗谷本線に編入され、旭川〜幌延〜稚内港間が宗谷本線となる。それと同時に、音威子府〜浜頓別〜稚内間を分離、北見線(後の天北線)に改称する。
1935(昭和10)年、6月天塩線として幌延〜天塩駅間が開業し、振老駅・北川口駅・天塩駅を新設する。
1936(昭和11)年、10月天塩〜遠別駅間が延伸開業し、更岸駅・丸松駅・遠別駅を新設する。
1939(昭和14)年、日本鉱業が北川口で石油試掘する。
1941(昭和16)年、6月沙流村(現・豊富町)が幌延村より分離し豊富村として独立する。8月天塩海岸に津波襲来、番屋十数戸流出、8人死亡する。12月国有鉄道羽幌線羽幌〜築別間延伸開業する。12月羽幌炭礦鉄道線開業する。
1947(昭和22)年、4月留萠に市制施行。
1949(昭和24)年、4月遠別町に町制施行。帝国石油が北川口で石油の試掘を行う。
1952(昭和27)年、天塩港が地方港湾の指定を受け本格的な河口改修に着手した。
1953(昭和28)年、天塩保健所が開設される。
1955(昭和30)年、4月天売村が羽幌町に編入合併。
1957(昭和32)年、11月築別〜初山別駅間延伸開業し、天塩有明・天塩栄・初山別の各駅を新設する。
1958(昭和33)年、10月初山別〜遠別間を延伸開業し、天塩線を羽幌線に編入。羽幌線が全通する。豊岬駅・天塩大沢駅・共成駅・歌越駅・天塩金浦駅を新設する。
1959(昭和34)年、4月焼尻村が羽幌町に編入合併。豊富村に町制施行。
1960(昭和35)年、9月幌延村が町制施行。
1964(昭和39)年、5月中川村に町制施行。温泉資源の調査始める。
1965(昭和40)年、6月天塩川口遺跡調査の為、北大の大場博士らが発掘にあたる。12月産士地区電化となる。
1967(昭和42)年、5月天塩川改修切替えによる幌延町との境界を変更。11月天塩電報電話局が開局。水道が通る。
1971(昭和46)年、1月北川口にスキー場が完成する。
1973(昭和48)年、1月西産士にスキー場がオープンする。9月利尻・礼文・サロベツの一部を加えて国立公園となる。
1975(昭和50)年、第1回天塩川港まつり開催。
1980(昭和55)年、3月天塩町運動公園が設置される。9月天塩町開基100年記念式典挙行。
1982(昭和57)年、天塩町の文化財に「運上屋跡」(海岸通り4丁目)「天塩駅逓跡」(海岸通り2丁目)が指定される。
1983(昭和58)年、鏡沼海浜公園オープン。
1984(昭和59)年、2月羽幌線全線の貨物営業を廃止。9月石油資源開発公社が北川口・産士地区で石油・天然ガスの試掘をする。
1985(昭和60)年、8月第2次特定地方交通線として廃止承認。9月幌延町高レベル放射性廃棄物施設誘致反対天塩町民の会が設立される。
1987(昭和62)年、3月羽幌線の廃線に伴い廃止となる。沿岸バスにバス転換。5月川口遺跡風景林がオープンする。8月第一回日本海オロロンライントライアスロン国際大会が開催される。
1989(平成元)年、6月天塩川歴史資料館落成。
1990(平成2)年、2月動燃の高レベル放射性廃棄物貯蔵研究施設貯蔵工学センター誘致反対、天塩町民総決起大会が開催される。
1992(平成4)年、天塩新港開港。
1997(平成9)年、天塩消防100周年記念式典挙行。
1999(平成11)年、鏡沼海浜公園オートキャンプ場内で温泉湧出。
2000(平成12)年、てしお温泉夕映オープン。
2003(平成15)年、道の駅「てしお」オープン。
天塩町史参考・新天塩町史参考

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