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北緯45度国際広場

住所 枝幸郡枝幸町問牧865-1
駐車場 20台程度・無料

枝幸町観光協会

枝幸(えさし)町の由来は、アイヌ語の「エサウシ」(岬)から。2006(平成18)年3月20日旧枝幸町と旧歌登町が合併し、現在の枝幸町となった。
問牧の由来は、問牧川に付いた名で、アイヌ語の「トイ・マク」(土の後ろ、奥、山手の方)、「トゥイ・パケ」(崩れた・出崎)が由来とされるがはっきりしない。江戸期から「トヱマキ」として地名に見られた好漁場であった。
国道238号線沿いにあり、浜頓別町市街地の国道275号線との交差点から枝幸町方向に約20.0kmを問牧市街地方向に側道を入り約700mに看板あるので左折。枝幸町北浜町の国道238号線と道道1069号ウエンナイ幌内保線との交差点から浜頓別町方向に約6.5kmを問牧市街地方向に側道を約700m右手に駐車場。

道北の幌延町と枝幸町には、北緯45度を通過することを記念したモニュメントや表示看板を見ることができる。日本海側には北緯45度モニュメントがあり、オホーツク海側にも国道沿いに見落としそうなモニュメントがある。

問牧地区の旧道を問牧小学校方向に走った海側には「北緯45度国際広場」がある。とくに何もない広場で電子基準点とトイレがあった。
広場の標高は15m程度で、電子基準点(全国に約1300ヶ所あり、国土地理院が設置したポイントで衛星からの電波を受けて地殻変動を監視する)が目立つ。国際広場の名が付いたのは、ここを作った当時枝幸町がスウェーデンのソレフテオ市と1996(平成8)年に姉妹都市提携を結び交流を持っていたことから国際という名称がついたと言われている。しかしそれらしいものは何もない。

ここ問牧地区は、古くから栄えた場所で好漁場として知られていた。天保郷帳(江戸幕府の命で天保年間に作成されたもので、北は松前から南は琉球にいたる郡別の村々の生産高が記載されている。原本は「重要文化財」に指定されている)には、「ソウヤ持場之内、トエマキ」とある。1846(弘化3)年、松浦武四郎が樺太探険の帰途、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。このときの「再航蝦夷日誌」にはヘラエウシ、ヲレタロには小屋5軒、トエマキには小屋2軒、エサシには小屋10軒、ホロベツ・トウシベツ・チカフトムシには小屋2軒と出稼ぎ小屋が3〜4軒と記載がある。安政の頃問牧川は馬で渡り、アイヌの家が二軒あったようである。
 1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道とし、11国86郡を定め、北見国枝幸郡となる。9月北見国を分領(宗谷・枝幸・礼文は金沢藩領) 10月場所請負人の名目を廃し、漁場持と改める。1870(明治3)年、枝幸郡は金沢藩から開拓使直轄となる。1875(明治8)年には、ヲレタル、ヲチキリ、トヨマキ、ウエントマリ、ノツカの地名が巡回誌という本に載っていた。1878(明治11)年、枝幸郡に枝幸・頓別・歌登・礼文の4村を設置する。1896(明治29)年にはトイマキに番屋と小屋掛けが15戸、オチキリには10戸あった。トイマキ、トエマキの通称字名は明治期以降も残っていく。1899(明治32)年には寺子屋式の教育所が開設される。1909(明治42)年2級町村制施行により頓別、歌登、礼文、枝幸が枝幸村に併合。1911(明治44)年にはトイマキ集落を山火事が襲う。
 1923(大正12)年、4月一級町村制施行する。
 1931(昭和6)年にはトイマキ〜ウソタン(現・宇曽丹)への林道が開削される。1936(昭和11)年興浜北線開通し、北見枝幸・問牧・目梨泊駅新設する。1940(昭和15)年落切小学校が問牧小学校と改称する。1944(昭和19)年11月興浜線全レールが撤去される。1945(昭和20)年12月興浜北線復元開通する。1947(昭和22)年10月町制施行し、町内の3大字を再編する。 枝幸村は、本町、栄町、幸町、梅ヶ枝町、目梨泊、問牧、ウスタイベ、ウエンナイ、幌内保。礼文村は、乙忠部、風烈布、音標、上音標。歌登村は、ケモマナイ、下幌別、岡島、徳志別、山臼となる。1954(昭和29)年幌内ダムの幌内川発電所完成により未点灯地域解消される。
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