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豊富町発祥の地碑

住所 天塩郡豊富町字上サロベツ3863

豊富町観光協会

天塩の由来は天塩川、アイヌ語の「テシ・オ」「テシュオ」(梁(やな)・ある)から。
豊富の由来は、初めは川の名称をとって、エベコロベツ(現・下エベコロベツ川流域)又は旧村名である沙流と二つの地名をよんでいたが、1908(明治41)年、エコロベツ住民会で村名を豊富と決定する。エベコロベツはアイヌ語で(魚(食物)を持つ川・なんでも豊富にある川(場所))という意味で「豊富」と称するようになった。
サロベツの由来は、アイヌ語の「サルオペツ」(アシの生える川)由来する。サロベツ原野は、上サロベツ原野と下サロベツ原野に分かれていて、後者は利尻礼文サロベツ国立公園の特別保護地区であり、ペンケ沼、パンケ沼といった大小様々な沼地が点在する。
兜沼の市街地、道道1118号兜沼停車場線沿いにある。JR宗谷本線の兜沼駅から約120mほど。

兜沼駅から徒歩で2分ほどに位置している。
当時は道路は無く、付近にアイヌの家も無く鬱蒼たる原野であった。この兜沼湖畔には1896(明治29)年頃からアイヌの音吉(抜海に住んでいた)なるものが狩猟のため小屋を構え、狩猟や魚を獲ったり、木の実を採取するなどしていた。抜海から兜沼までは、月に1度か2か月に1回くらい往来する程度で踏み分け山路があるのみで、道らしい道はなかった。
梅村庄次郎は、1902(明治35)年3月に単身で北海道に渡り、石狩、十勝、天塩の各農耕地を視察して回り、6月抜海に来た際に偶然音吉と会う。意気投合した彼らは、連れ立って実地調査として兜沼に入った。付近を調査探検し、農耕適地が広大で、湖水があることに将来の楽園地になるものと、同年8月に一度郷里に戻り、移民の勧誘に勤めたのである。 その後未開地460町歩の無償貸付を受け、1903(明治36)年、岐阜団体梅村庄次郎ほか12戸が兜沼に入植した。
しかし小作人等は、米、味噌は約8里余りも離れている稚内〜抜海を通り、難渋な道を人の背で運搬する不便さや、開墾の苦労、熊の危険に恐れて、その後全ての人が各方面に離散してしまったが、梅村氏はアイヌの音吉と共に力を合わせ農耕に従事した。
一人開墾していた梅村氏はサロベツ川沿いの立木の少ない場所を開墾していたようだが、作物が実る前の初秋に洪水でみんな流されたようである。その後音吉氏の所にきてまた開墾に従事した。
1906(明治39)年工藤多喜太他4名が入植。12月開拓への自信も付き、一度郷里に戻り、1907(明治40)年には妻子を伴い定住した。 沼の端(現・兜沼)特別教授所を開設した。
1908(明治41)年、上サロベツ(兜沼)郵便取扱所が創設された。
1909(明治42)年、3月官設上サロベツ駅逓の取扱人に梅村庄次郎が命ぜられる。こうして兜沼の辺りは沼の端と称し発展していく。
1912(大正元)年、梅村庄次郎氏は73町6反歩の付与許可を得ている。その後も農業の傍ら、旅人宿業や、人馬継立業を兼営していた。
1918(大正7)年、6月梅村庄次郎氏は兜沼郵便局長に任命される。
庄次郎は、1927(昭和2)年に郵便局を開設、1934(昭和9)年に梅村幸久三が建物を新築した。
梅村庄次郎氏の自宅は当時郵便局として利用されていたが現在は、兜沼郷土資料館となっている。


開拓記念碑も同じ敷地内にある。


句碑がそばにあったが、詳細はわからず。


敷地内には、1934(昭和9)年に建築され、1992(平成4)年に部分改修し郷土資料室として再生した兜沼郷土資料室がある。
ここは、町の開拓者梅村庄次郎氏の郷土資料などを保存してあるとともに、郵便局の歴史・局長の所有物・兜沼地区に関連した資料が展示されている。
建物外観は斬新で、関東甲信越式木造「兜造り」となっている。
旭川の養蚕民家も同じ形式。
かつては旧兜沼郵便局の建物であり、1981(昭和56)年に郵便局としての役割は終わった。
開館日 5月から10月の9時〜16時 土日限定。
入館料 無料

碑文
豊富町は明治三十五年(1902)
岐阜県人、梅村庄次郎氏が兜沼(元、
サルベットウ・沼の端)に入植してか
ら百年を迎えた。
当時、この地は笹深く大木の茂る原
始林におおわれ、昼なお暗く、往来の困
難さは筆紙に尽くし難い状況であった。
熊の彷徨する中、先住者の音吉氏を
案内役に調査探検を試みたところ、農
耕適地として広大であり、風致に富む
一大湖水を見て、将来の楽園地になる
ものと確信し、一旦帰郷、翌、明治三
十六年、岐阜団体長として十二戸を伴
い、再び兜沼に入り、開墾に従事した。
しかし、食糧、雑貨等の入手に困難
を極め、内地からの移住者にとっては
筆舌に尽くし難い生活を強いられた為
年半ばにして全ての人達がこの地を去
り、梅村団長独り当初の望みを捨てず
音吉氏と力を合わせ、開拓の礎となる。
 その後、幾多の曲折を経ながら、多
くの先人達のたゆまぬ努力により、今
日の酪農の里、最北の温泉郷、そして
自然豊かな豊富町を築いてきたのであ
る。
入植から百年、先人の功績を讃える
とともに、豊富町の歴史を後世に残す
べく「発祥の地記念碑」を町民各位の
支援により、ここに建立する。
平成十四年十月吉日
豊富町発祥の地記念碑建立協賛会


約7000〜5500年前、サロベツ原野に人が住み始める。
1596(慶長元)〜1614(慶長19)年間、この頃テシホ場所設置される。
1700(元禄13)年、2月松前藩は全島地図「松前郷帳」(小川養甫作成)を幕府に提出する。同地図に「テシホ」の地名が初めて載る。
1719(享保4)年、飛騨屋久兵衛が、石狩、天塩国の蝦夷松を伐採し、用材を本州に出す。
1786(天明6)年、場所請負制が始まり、紀伊国商人の栖原屋角兵衛を請負人とする。
1798(寛政10)年、松平忠明が東西蝦夷地を巡視し、天塩を経て宗谷に達する。
1801(享和元)年、4月松平忠明が再び天塩を経て宗谷に達する。
1804(文化元)〜1818(文政元)年、この頃間宮林蔵この沿岸を測量(伊能忠敬の全島沿岸実測図として完成)
1807(文化4)年、西蝦夷地が松前藩領から天領(幕府直轄領)になる。近藤重蔵が、天塩川を遡り上川に入り周辺の平野を探検する。
1821(文政4)年、幕府、蝦夷地を松前藩に返還する。
1833(天保4)年、栖原屋の天塩番人平八郎がはじめて越冬する。天塩の和人越冬の始まり。
1840(天保11)年、マシケ以北の出稼許可され、江差・福山・南部・津軽地方の漁民この地方に姿を見せはじめる。この頃(天保〜弘化)年代、止宿所が設けられ井戸も掘られた。それ以前は水を天塩より馬で運んだと云う。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が天塩に訪れる。ワッカサクナイ(稚咲内)に立ち寄る。
1855(安政2)年、蝦夷地が再び松前藩領から天領になる。天塩が秋田藩領になる。
1856(安政3)年、松浦武四郎が天塩内陸踏査のため再び訪れる。ワッカサクナイに立ち寄る。
1857(安政4)年、松浦武四郎がサロベツ沿岸を調査、サロベツ川流域を記録する。
1858(安政5)年、ワッカサクナイを通過し、利尻山の雄大な眺めとともに、建物や蔵と井戸があった事を記録に残している。
1859(安政6)年、天塩、苫前、留萠、天売、焼尻が庄内藩領になる。
1869(明治2)年、8月15日蝦夷を改め北海道と名づけ開拓使を設置。11国86郡を設定し、天塩国に上川・中川・利尻・天塩・苫前・焼尻の6郡を定め水戸藩が支配する。
1870(明治3)年、天塩郡など一帯の場所持だった栖原屋は権利を失うが出稼ぎという名目で事業は継続される。ワッカサクナイ(現・稚咲内)に官設宿泊所設置。
1871(明治4)年、各藩の分轄統治が廃され、天塩地方は水戸藩支配から開拓使の管轄となる。12月栖原屋角兵衛は、天塩国一円、焼尻、天売地区の漁場持を開拓使より許可される。
1872(明治5)年、9月開拓使宗谷支庁がおかれ、天塩国、北見国の宗谷、枝幸、利尻、礼文がその管轄下となる。宗谷支庁の中主典佐藤正克が天塩川を遡り、沿岸の地勢や現地人の事情を調査する。
1873(明治6)年、2月開拓使宗谷支庁が留萠に移され留萠支庁となる。
1875(明治8)年、3月開拓使留萠支庁が廃され、開拓使札幌本庁の管轄下となる。出張所を置く。
1878(明治11)年、7月郡区町村編成法により、天塩郡の天塩・幌延・遠別・沙流(豊富村)の村名が創設される。
1879(明治12)年、7月留萠に留萠、増毛、苫前、天塩、中川、上川の郡役所を置く。
1882(明治15)年、開拓使廃止され函館、札幌、根室の三県設置し、この地方は札幌県に属する。4月天塩村に天塩・中川・上川三郡を管轄する戸長役場が設置された。
1886(明治19)年、4月天塩村の戸長役場が苫前に移される。天塩には派出所が置かれる。天塩地方は道庁札幌管内に属する。宗谷から利尻、礼文の定期航路運航始まる。
1893(明治26)年、6月天塩郡の各村にあった戸長役場を天塩に再び設置する。
1897(明治30)年、6月天塩村の戸長役場管轄から中川・上川両郡を分離する。天塩材時代と呼ばれ、林業が盛んになる。剣渕村に戸長役場を設ける。11月郡役所廃止に伴い増毛支庁を設置する。苫前村から羽幌村が分離する。
1899(明治32)年、5月増毛支庁管内の天塩国上川郡を上川支庁に移管する。下サロベツに福井県から団体入植する。
1900(明治33)年、一級町村制施行。上サロベツ、下サロベツ原野の国有未開地の貸下げ始まる。ワッカサクナイ駅逓所開設する。取扱人は和井内輝慶。
1902(明治35)年、羽幌村が二級村となる。梅村庄次郎が兜沼に入り、アイヌの音吉の案内で現地を調査する。
1903(明治36)年、4月遠別村分立。天塩村外2ケ村戸長役場が置かれこれに属す。岐阜団体梅村庄次郎ほか12戸が兜沼に入植した。
1906(明治39)年、奈良県人の加納久三郎が東豊富一帯に数百町歩を得て農場を経営する。越後団体の佐藤久二郎他が入植する。山形団体の工藤多喜太他が入植する。沙流神社建立する。
1907(明治40)年、柏倉玄融大谷派説教所(現・天塩郡豊富町字豊富東1条2丁目 光寿寺)を開設した。沼の端(現・兜沼)特別教授所を開設した。天塩、ペンケ沼間の川ポート初航した。狩太団体が入植する。泡谷牧場開設する。ペンケ沼に長門船の波止場開設する。渡辺左右治が初めて商店兼旅館を開設する。嘉納久三郎農場開設する。足立亀松が兜沼で雑貨商を営む。相馬団体が入植する。成田精作牧場開設する。越後団体入植する。目梨別に太田文次郎らが入植する。
1908(明治41)年、エコロベツ住民会で村名を豊富と決定する。沙流第二簡易教育所創設(兜沼小学校の前身)。天塩尋常小学校付属沙流第一特別教授場創設(現・豊富小学校の前身)。
1909(明治42)年、4月幌延、沙流の2村が天塩村より分村し幌延外1ヶ村戸長役場が幌延に置かれた。羽幌村が一級村となる。官設上サロベツ駅逓所開設。取扱人は梅村庄次郎。
1911(明治44)年、エコロベツ駅逓所開設。取扱人は加藤東三郎。豊富〜兜沼間の道路開通する。
1914(大正3)年、村井吉兵衛が目梨別で石油試掘開始する。
1919(大正8)年、幌延・沙流(現・豊富)両村合併し、幌延村となり2級町村制が施行される。
1922(大正11)年、宗谷線(天北線)全線開通。目梨別駅逓所開設する。
1924(大正13)年、6月天塩北線の稚内〜兜沼間を開業、抜海・勇知・兜沼駅を新設。
1925(大正14)年、7月天塩南線の問寒別〜幌延間を延伸開業、雄信内・安牛・上幌延・幌延駅を新設
1926(大正15)年、幌延、兜沼間鉄道布設工事が竣工し宗谷本線が全通した。東豊富で石油を試掘している最中、天然ガスとともに温泉が湧き出た。
1927(昭和2)年、サロベツ湿原の排水路掘削が始まる。村井鉱業株式会社重役が温泉で浴場経営する。
1928(昭和3)年、目梨別にて村井石油鉱掘削着手。
1930(昭和5)年、電信電話取扱業務開始する。川島旅館創業。兜沼神社移転新築する。
1932(昭和7)年、天塩電灯株式会社が発電所を建設し、ガス発電により豊富温泉・東豊富・豊富市街に電気が点く。有明駅逓所・豊田駅逓所開設する。
1933(昭和8)年、豊富温泉株式会社が創立される。
1937(昭和12)年、6月豊富、日曹炭礦開坑。
1940(昭和15)年、旧沙流村を幌延村より分村し2級町村制を施行、豊富村となる。世帯数 1291戸、人口 7521人。北沢部落を豊幌と改称・大井戸部落を豊徳と改称・ワッカサカナイ部落を稚咲内と改称する。
1943(昭和18)年、8月兜沼公園が景勝地に指定される。
1947(昭和22)年、三菱鉱業株式会社が豊幌において炭鉱採掘開始。
1948(昭和23)年、豊富・兜沼に農業協同組合が設立された。行政区間の変更により宗谷支庁管内となる。
1957(昭和32)年、北海道電力株式会社が日本初の事業用ガスタービン発電所を開設。
1958(昭和33)年、町営元湯館新築。
1959)昭和34)年、1月町政を施行し豊富町となる。
1965(昭和40)年、利尻・礼文・稚内市・豊富町の一部が、利尻礼文サロベツ国定公園に指定される。豊富温泉スキー場が開設。
1967(昭和42)年、10月徳満宮の台展望台が完成する。
1972(昭和47)年、ガスタービン発電所閉鎖。7月日曹炭鉱が閉山した。
1973(昭和48)年、10月豊富温泉天然ガスR-4号井自噴する。
1974(昭和49)年、9月利尻・礼文・サロベツ国立公園指定される。
1976(昭和51)年、2月日本甜菜糖株式会社が泥炭採取開始する。6月サロベツ湿原に木道整備する。有明の奥メナシベツ川の支流オミヤブノサワ川で甌穴発見する。11月豊富町役場兜沼支所移転する。12月豊富温泉スキー場でペアリフト完成する。
1978(昭和53)年、6月レストハウス「サロベツ」新築する。稚内市で温泉(稚内温泉)が湧き出たため、日本最北端温泉では無くなる。
1979(昭和54)年、11月元湯館火災により焼失。
1982(昭和57)年、11月町営ニューホテルサロベツがオープン。
1983(昭和58)年、8月温泉地区でR-9号井天然ガス採掘調査行う。
1984(昭和59)年、9月郷土資料室開設。11月高レベル放射性廃棄物処理施設誘致反対豊富町民の会発足する。
1985(昭和60)年、8月株式会社豊富牛乳公社設立する。
1986(昭和61)年、7月R-10号井ガスボーリング実施する。
1987(昭和62)年、5月サロベツ原生花園ビジターセンター開館。8月温泉レクリエーションランド(パットゴルフ場など)オープンする。9月放射性廃棄物問題調査特別委員会設置する。
1988(昭和63)年、12月元湯館跡地にふれあいセンター新設、営業開始。
1989(平成元)年、幌延ビジターセンター開館。
1990(平成2)年、5月兜沼公園に「やすらぎの湯」オープンする。
1992(平成4)年、3月スキー場ロッジ「ヒルズハウスウエルカム」完成する。6月兜沼郷土資料室開室する。7月国道40号線にバイパス計画出される。
1994(平成6)年、6月国道40号線豊富バイパス着工式挙行。
1995(平成7)年、9月兜沼オートキャンプ場完成。
1996(平成8)年、5月兜沼オートキャンプ場・温泉自然観察館オープンする。
1998(平成10)年、9月天然ガス採掘深査。
1999(平成11)年、1月豊富町温泉保養宿泊所「湯快宿」オープン。
2002(平成14)年、11月豊富町100周年記念式典。
2005(平成17)年、サロベツ原野がラムサール条約湿地となる。幌富バイパス工事着工する。
2004(平成16)年、4月町営ニューホテルサロベツを民間へ譲渡。11月豊富バイパスの豊富サロベツIC〜豊富北IC間が開通する。
2009(平成21)年、町営ニューホテルサロベツ廃業。
2010(平成22)年、3月幌富バイパスの幌延IC〜豊富サロベツIC間が供用開始する。
豊富町史・豊富町史第二巻参考

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