北海道応援サイト!がんばれ北海道!!

ウソタンナイ砂金採掘公園

住所 枝幸郡浜頓別町宇曽丹
TEL  01634-2-2346
開設期間 6月1日〜9月30日
営業時間 9時〜16時30分
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日)、7・8月は無休
川掘り 一人500円、時間制限無し(大人・こども共通)、ゆり板、カッチャ、特長靴貸与。(川が増水した時や悪天候の場合は水槽掘りのみとなる)
水槽掘り 一人30分 500円(大人・こども共通)、ゴールドパン貸与
キャンプ場 料金一人 200円(小学生以下100円)設備 トイレ・炊事場有り、バーベキュー焼台(無料)、アミ・鉄板貸出し有り(いずれも200円)、車両乗入れ禁止。
駐車場 50台程度

浜頓別町観光協会

枝幸(えさし)の由来は、アイヌ語の「エサウシ」(岬)から。
浜頓別の由来はアイヌ語「トー・ウン・ペッ」(湖沼に入る(行く)川)。「頓別川」からできた名前で、当時はトンベツと呼ばれ頓別川に河口に集落があった。1878(明治11)年には枝幸郡に枝幸、頓別、歌登、礼文の4ヶ村が設けら漢字が当てられる。1909(明治42)年に2級町村制施行により頓別、歌登、礼文、枝幸が枝幸村に併合となる。1916(大正5)年枝幸村(現・枝幸町)より分村し、2級町村制施行。頓別村となり役場を設置する。1918(大正7)年8月天北線の中頓別〜浜頓別間を延伸開業。下頓別駅・浜頓別駅を新設。駅名を「浜頓別」にした、以来この一帯を浜頓別と呼ぶようになる。1951(昭和26)年頓別村を浜頓別町と改め町制施行。
宇曽丹の由来は、頓別川の支流である宇曽丹川の下流一帯を宇曽丹と呼んだ。古い地図にはウソタンナイと表記されていた。
ウソタンナイとは、アイヌ語で「ウ・ソ・タ・アン・ナイ」(お互いに滝が掘っている川)という意味だがどういう状態を指しているか不明である。
国道275号線道道586号豊牛下頓別停車場線の下頓別市街の交差点から枝幸・豊牛方向へ約2.0kmを右折し、約1.2kmを右折し、約550mほどの交差点を左折し、約210mを右折し直進すると駐車場。(各所交差点に看板があるので迷うことはないだろう)

1986(昭和61)年6月ウソタンナイ砂金発見90周年を記念して、ウソタンナイ砂金採掘公園ゴールドハウスがオープンした。これはウソタンナイ川上流域一帯を史蹟として位置づけると共に、公園内を流れるウソタンナイ川で伝統的な道具を用い、実際に砂金採取の体験ができるようにしたものである。ユリイタやカッチャの使い方はかつてこの川で砂金を掘っていた半沢長十郎氏が指導した。
ここの砂金地は、かつて「枝幸砂金」と呼ばれ、1898(明治31)年8月ウソタンナイ川の上流で砂金が発見され、ゴールドラッシュが沸き「東洋のクロンダイク」といわれた。とうじ採取人はペイチャン川(中頓別町)と合せ約1万6千人を数え、それまで賑わっていたパンケナイ川周辺の採掘者がウソタンナイに殺到し人影が消えたという話もあるほど。
1899(明治32)年5月枝幸郡頓別村字ペーチャンの砂金地発見される。(期間限定ではあるがペーチャン川砂金堀体験場もある)
1900(明治33)年には、ウソタンナイ砂金区より205 匁(768.75g)の日本最大の金塊発掘。ウソタンナイ〜枝幸間の砂金山に通ずる道を整備する。ウソタンナイの砂金鉱区出願が殺到する。このころ密採者が多く、一部の地域を除くと無法地帯となっていた。これに憂慮した北海道庁は警部1人・警察官10人などを派遣し対応するが山間地が広大であまり効果は上げられなかった。この年のウソタンナイ砂金山の正式に登録された採取者は570人・ペーチャンは500人・パンケナイ320人・オムルシュベツ100人・ケモマナイ200人。その他は密採取者は約2000〜3000人とも推定される。
1901(明治34)年、9月ウソタンナイ砂金山の正式に登録された採取者は442人・ペーチャンは242人・パンケナイ213人・オチキリ67人・トイマキ36人・ケモマナイ22人。ウソタンナイのゴールドラッシュはこの頃までと言われているがまだこれだけの人が採掘していたが、密採者の把握は出来ていない為わからない。

ゴールドハウス内にはウソタンナイ砂金地の歴史・物語・写真を展示、周辺には砂金採掘最盛時代をしのばせる遺跡、流し掘りなどに使用された「石垣」や金鉱跡が残っているが行くのは困難である。
砂金堀体験をするならまずゴールドハウスに行こう。


砂金掘りの用具は全てここで借りられる。川堀なら時間制限はない。
砂金堀は、カッチャと呼ばれる鍬で川底の土砂を取り、ゆり板の上に乗せ砂を洗い流していく、初心者にはかなりの重労働でもある。
うまくいけば、砂の中から黄色い小さな粒が現れる。公園ではキャンプもできるようになっているので朝から夕方まで掘ることも可能である。
川の増水時・悪天候・時間が無い人の為に水槽堀体験もでき、ゴールドパンという道具を使って水槽の中から砂金を採る体験ができる。(私は水槽堀を体験してきました)
どちらも専門のインストラクターがおり、安心して体験ができる。
2002(平成14)年、世界砂金掘り日本大会IN浜頓別を開催している。



敷地内には、金山神社の標柱と百年記念碑があり、その奥には復元された当時の家屋があった。

ウソタン砂金地
蝦夷地といわれた北海道
で松前藩が砂金採取を
許可したのは、元和三年
(一六一七)といわれ寛文九年
シャクシャインの乱まで約
五十年間で以後衰退し
ていく
明治二十九年(一八九六)ユーコ
ン河の支流クロンダイク
(カナダ)で砂金が発見さ
れゴールドラッシュがおきた
その三年後の明治三一
年夏ウソタン川上流で豊
富な砂金が発見され「東
洋のクロンダイク」と謳わ
れ空前のゴールドラッシュ
がはじまる


金山神社
平成三年七月一日再建
証明
明治三十年代、東洋のク
ロンダイクと評されるほ
ど、砂金掘りを中心に多
くの人々が、このウソタ
ンナイに入った。
明治四十五年七月、砂金
掘りの信仰は神社を建立
し以来、今日まで保持さ
れて来た。
神社は一般神社の概念と
異り鳥居、社はなく標柱
と石碑だけの素朴なもの
である。

ここウソイタンナイに砂金採取者として正式に入った人たちは出身地の調査も行われている。この調査を行ったのは札幌鉱山監督署監督官工学士である西尾_治郎氏で、ウソタンナイ川の廣谷・ペーチャン川の輪島事務所の鉱区で1900(明治33)年6月時点で稼働していた350人が対象となった。
北海道は廣谷96人・輪島52人と断トツに多いが、次いで山形県廣谷96人・輪島2人の98人と他の地方からみると圧倒的に多い。ちなみに、青森は廣谷17人・輪島6人、秋田は廣谷11人・輪島3人、岩手は廣谷1人・輪島14人、宮城は廣谷2人・輪島3人、東京から廣谷9人・輪島2人、その他から廣谷16人・輪島23人だった。
 1909(明治42)年の産出量は最盛期の僅か5.3%ほどの9600匁(明治32年は17万6000匁)と激減し、鉱区は45あったが鉱区主は4人しか居なかった。他は商業や漁業従事者で、砂金採取する場合は一定の鉱区料を徴収したり、採取高に応じた歩合制をもって料金を徴収して鉱区を解放していた。各地の砂金採掘も次第に静けさを取り戻していったが、所有権は転々としていくのである。主要な所は茂呂泰定、片倉十右衛門が所有していたが、1918(大正7)年までの産出量は累計で550貫(約2650kg)ほどだった。これ以降は大手鉱業会社である藤田組が一括して買収した。
 その後白金が着目され1933(昭和8)年には茂呂泰定を管理人として砂金採取が行われた。砂金採取時に混じって白色の金属鉱物が古くから知られ「ハク」と呼び利用価値も当時は無く、砂金だけが注目されていたのである。ウソタンナイやペーチャンでは砂白金はほとんどそれまで採取はされていなかったが昭和8年頃には350人ほどの採取人が訪れる。1937(昭和12)年頃まで採掘は行われ、ゴールドラッシュの再現を思わせる賑わいをみせた。戦後にも採取したようである。
1949(昭和24)年10月藤田組の子会社、北海道金山鰍創立し、ウソタンナイ砂金の機械掘り開始する。電気ショベル、グラベルポンプなどを導入し、従業員13人を配置し、機械力を最大限に生かした事業だった。1954(昭和29)年には60馬力のディーゼルショベルと1日300tの砂礫を処理できる移動型の選鉱機を導入し、従業員も28人に増員したが、採算が取れないことから休業しその後、鉱業権は1965(昭和40)年5月に同和鉱業に移った。


旧石器時代の石刃核がポン仁達内遺跡で発見され、また、山軽台地遺跡からは、細石刃核と細石刃が出土し、今から1万2000年以上前からヒトの足跡が見られる。
1296(永仁4)年、日持上人宗谷より渡樺の伝説がある。この頃和人の勢力が宗谷地方に及ぶ。
1645年〜1648(正保)年間、「ツウヘチエソ」と正保御国絵図に記される。
1669(寛文9)年、6月シャクシャインの乱が起こり、宗谷地方にも影響が及ぶ。
1670(寛文10)年、「つんへつ村」と頓別の地名が津軽一統志に記録される。
1685(貞享2)年、松前藩が宗谷場所を開設する。樺太は松前藩家臣の知行地として開かれたソウヤ場所に含まれた。
1700(元禄13)年、松前藩が幕府に呈上した元禄御国絵図に「つうへち」で図示される。
1706(宝永3)年、村山伝兵衛、宗谷場所を請負う。
1750(寛延3)年、村山伝兵衛、宗谷場所を請負う。
1752(宝暦2)年、ソウヤ場所から樺太場所が分立する。
1756(宝暦6)年、浜屋や近江商人が宗谷場所を請負う。
1761(宝暦11)年、宗谷場所が松前藩の直轄となる。
1765(明和2)年、松前の商人恵比須屋半兵衛が宗谷場所を請負う。
1775(安永4)年、飛騨屋久兵衛が宗谷場所を請負う。
1785(天明5)年、幕府の樺太探検隊長庵原弥六一行、宗谷で越年するも、翌年3月に病死する。(墓碑現存)
1787(天明7)年、フランスのラ・ペルーズの艦隊が世界周航の途中、宗谷海峡を通過、樺太が島であることを確認。
1789(寛政元)年、最上徳内らが宗谷を巡視。飛騨屋が宗谷場所をやめ、村山伝右兵衛が請負う。
1790(寛政2)年、松前藩は、宗谷に勤番所を設置する。
1796(寛政8)年、村山伝兵衛は宗谷場所を罷免され、小山屋権兵衛が請負う。
1801(亨和元)年、奉行松平忠明、宗谷を巡視し、台場を築く。奉行一行の磯谷則吉が宗谷に滞在する。高橋壮四郎が宗谷場所を管理する。「蝦夷道中記」に「トンベツ夷家7戸、酋長シリメキシュ」と記述。
1806(文化3)年、遠山金四郎、村垣左太夫樺太を巡視して宗谷に滞在。
1807(文化4)年、トンベツにアイヌの家12軒、男女67 人(アイヌの長シリメキシュヱ)と戸口について西蝦夷地日記に記録あり。幕吏近藤重蔵ら宗谷を巡視。宗谷場所幕府直轄領となる。幕府が宗谷に駄馬30頭余を送る。斜内山道開削される。津軽藩宗谷警備に付くが、多くの藩兵が水腫病で亡くなる。
1808(文化5)年、最上徳内、松田伝十郎が宗谷に来る。松田伝十郎は樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の国境標を建てる。間宮林蔵ら、樺太探検のため宗谷を出帆。会津藩が津軽藩と宗谷警備を交代する。宗谷警備中の会津藩士が次々と病死する。
1809(文化6)年、間宮林蔵は樺太が島であることを確認し、呼称を北蝦夷地と正式に定め、宗谷に戻る。松田伝十郎が樺太アイヌ住民の問題解決に貢献し、北蝦夷地詰を命ぜられる。山丹人との貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。
1815(文化12)年、宗谷・斜里場所藤野喜兵衛の単独請負となる。
1817(文化14)年、藤野喜兵衛千島国後場所を請負う。
1821(文政4)年、蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。松田伝十郎が宗谷詰となり着任する。
1846(弘化3)年、松浦武四郎、トンベツ川を舟で渡りシヨナイ(斜内)に泊まると再航蝦夷日記に記載あり。知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。
1854(安政元)年、藤野喜平衛が枝幸郡トンベツ・ホロベツ・トクシベツに渡船を設ける。
1855(安政2)年、3月宗谷場所、再び天領となる。秋田藩が宗谷警備を行う。
1856(安政3)年、松浦武四郎、トンベツ、ショナイについて具体的に記録、武四郎廻浦日記に絵図あり。箱館奉行所支配組頭向上源太郎が宗谷場所を引き継ぐ。7月佐倉藩士窪田子蔵(「協和私役」として残す)が猿払で一泊する。松浦武四郎ら、樺太調査のため宗谷を出帆。
1867(慶応3)年、宗谷地方は箱館奉行所の直轄地に編入される。
1869(明治2)年、8月蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定める。9月金沢藩支配に宗谷・枝幸・利尻・礼文を含む。10月21日朝、プレーキストン氏枝幸を出発、斜内に2泊(熱のため休息)23日朝頓別を通過、夕方猿拂着宿泊とある(プラキストン著「蝦夷の中の日本」)。開拓使が宗谷出張所を開設する。場所請負人を漁場持ちとし漁場経営を認める。
1870(明治3)年、6月金沢藩所轄の宗谷・礼文・枝幸3郡は開拓使の直轄となる。8月藤野喜平衛が宗谷場所を返上する。
1871(明治4)年、判官松本十郎、北見国各郡を巡視トンベツ、アイヌの家2戸あり川守をしている(北見州経験誌)と書く。栖原角兵衛が宗谷外四郡の漁場を受け持つ。
1872(明治5)年、宗谷支庁設置、開拓判官大山重が主任となる。10月佐藤正克がトンベツで一泊する。
1873(明治6)年、宗谷支庁を廃し、留萌支庁の管轄となる。
1874(明治7)年、アメリカの地質学者ライマン氏が、9月22日枝幸出発シヨセフの沢より馬で斜内山道を越え斜内・猿払に一泊する。
1875(明治8)年、3月宗谷に開拓使出張所を置く。樺太千島交換条約締結。樺太原住民841名を稚内に移住させる。5月カナ地名を漢字地名に改める。
1878(明治11)年、枝幸郡に枝幸、頓別、歌登、礼文の4ヶ村が設けられ、斜内にアイヌの家6戸。
1879(明治12)年、宗谷外3郡役所、6村戸長役場の支配下に置かれる。
1882(明治15)年、2月開拓使を廃し、函館・札幌・根室の三県一局を置く。枝幸郡は札幌県に属する。
1884(明治17)年、斜内において和人(姓不詳)1人漁業を営む。
1886(明治19)年、北海道庁を置き、三県一局を廃しする。
1888(明治21)年、大橋良次が斜内で初めて鰊網を試みる。
1889(明治22)年、佐藤子之助頓別川渡船場管理人となる。
1891(明治24)年、枝幸村に枝幸外3ヶ村(頓別・歌登・礼文)戸長役場を設置。
1893(明治26)年、頓別駅逓所創設、取扱人土佐久三郎となる。
1894(明治27)年、斜内に松本忠太郎の漁場1ヶ所開設、佐藤長五郎定置漁場にし定住の始めとする。
1895(明治28)年、渡船場管理人佐藤子之助、頓別駅逓所取扱人となり定住する者が増える。山軽駅逓所新設し、取扱人成田徳蔵となる。頓別川口に駅舎新設。頓別川の渡し守を川端多助・川村広太が請負う。
1896(明治29)年、斜内に私設の寺子屋式児童教育所が新設される。河野常吉氏が植民状況調査で頓別村に来る。
1897(明治30)年、11月斜内山道開削。郡役所を改め、宗谷支庁を開設。
1898(明治31)年、6月歌登パンケナイで砂金発見される。8月頓別川の支流ウソタンナイ川上流に豊富なる砂金の産出あり、採取人がペイチャン川(中頓別町)と合せ約1万6千人を数えたという。頓別原野6線まで約500町歩の植民地区設定される。頓別川上流の支流ウツナイで石炭が見つかる。
1899(明治32)年、5月枝幸郡頓別村字ペーチャンの砂金地発見される。ウソタンナイの採取許可を受け、事務所1棟、物品販売所1棟、巡査発出所1棟建てられる。大谷三五郎がブタウス(現・豊牛)に入植する。橋本直吉・田中新兵衛が鮭漁を始める。
1900(明治33)年、9月頓別駅逓所に官馬と手当支給される。ウソタンナイ砂金区より205 匁(768.75g)の日本最大の金塊発掘。ウソタン砂金地に外国人砂金採取者が入山。ウソタンナイ〜枝幸間の砂金山に通ずる道を整備する。ウソタンナイの砂金鉱区出願が殺到する。頓別原野39線まで植民区画設定する。
1901(明治34)年、9月ウソタンナイ砂金山の採取者は442人。その他は密採取者は約2000〜3000人とも推定される。ウソタンナイのゴールドラッシュはこの頃までと言われている。大谷又三郎が叔父を頼ってブタウス(現・豊牛)に入植する。
1904(明治37)年、頓別原野19線(現・下頓別市街)に高藤嘉平氏定住する。
1905(明治38)年、斜内簡易教育所開設(現・枝幸郡浜頓別町斜内、斜内小学校の前身で斜内小学校は2010(平成22)年3月末で閉校となった)。頓別地区は木材業隆盛となる。浅野常松ら数名がブタウシに定住する。
1906(明治39)年、5月菅野栄助が頓別に住み林業に従事する。6月中村卯太郎が小樽木材株式会社の森林の譲渡を受け、独立し、木材業を経営する。伊瀬谷清吉が頓別で造材業を始める。11月佐藤弥作とその家族と小作併せて7戸28人が頓別原野25線に入植する。松永富男が商店を始める。頓別村字ウソタンナイに宇曽丹簡易教育所設置する。
1907(明治40)年、6月頓別で寺子屋式教育を始める。鎌田与三郎が頓別で商店を始める。向田清吉が茂宇津内に入植する。田辺馬之助が常磐に入植する。北又次郎が頓別港で商店を開く。
1908(明治41)年、斜内教育所第1教授所(現・枝幸郡浜頓別町字頓別の頓別小学校の前身)開設。近藤勝之助が頓別村に移住する。道徳安二氏が36線に500町歩の国有未開地払い下げを受けて、7戸36人を率いて入植する。
1909(明治42)年、2級町村制施行により頓別、歌登、礼文、枝幸が枝幸村に併合。岡田友吉が頓別で雑貨店を開業する。小林順七が豊牛の国有未開地45町歩を宗谷支庁から払下げ、牛2頭・馬15頭で牧場を経営する。牛乳の販売が始まる。
1910(明治43)年、5月斜内教育所第3教授所開設(現、枝幸郡浜頓別町下頓別、下頓別小学校の前身で、下頓別小学校は1968(昭和43)年現在地に移転している)。斜内教育所第4 教授所開設(現・枝幸郡浜頓別町宇曽丹、宇曽丹小学校の前身で、2011(平成23)年廃校となった)。小林林蔵夫婦が豊牛に入植する。橋本直吉が頓別で旅館を経営する。
1911(明治44)年、頓別郵便局開局。5月稚内山火が延焼し恐怖する。9月頓別原野6線に頓別川渡船場開設する。頓別原野14線まで植民道路を開削する。
1912(明治45)年、頓別原野22線(現・下頓別)に駅逓開設し、取扱人は近藤勝之助となる。金山神社建立。
1912(大正元)年、斜内教育所第1教授所(現・枝幸郡浜頓別町字頓別の頓別小学校の前身)が頓別尋常小学校と改称して独立。7月頓別原野駅逓所開設する。取扱人は近藤勝之助。11月枝幸水産組合のウソタンナイ支流ヌルイ川にさけ・ますふ化場創設。原野39線まで道路開削する。豊寒別地区の植民区画が実施される。
1913(大正2)年、5月宮下節三が斜内に入植する。近藤勝之助が下頓別に商店を開店する。
1914(大正3)年、11月天北線、(宗谷線)の音威子府〜小頓別間を延伸開業する。
1915(大正4)年、クッチャロ湖畔にて三井物産株式会社頓別木挽工場操業開始。頓別で金井貝灰工場操業。頓別村農会設立。12月高山由太郎がオンネカラマップ(鬼河原、現・高砂)に木工工芸品工場を設立する。下頓別〜宇曽丹間の刈分け道路を部落民が開削する。中頓別〜小頓別間の開拓道路を開削する。松音知にて砂金採取人増加し、私学学校開設する。金井貝灰工場が頓別で開業する。石田コタカが頓別にて金物雑貨を開店する。
1916(大正5)年、1月笠原木工場を頓別川口に操業する。4月枝幸村(現・枝幸町)より分村、2級町村制施行し、頓別村となり役場設置する。10月小頓別〜中頓別間を延伸開業し、敏音知駅・松音知駅・中頓別駅を新設する。12月頓別沿岸に高潮あり、家屋、商品流失、市街の大半が被害を受ける。永岡長治が下頓別ウツナイの石炭試掘する。
1917(大正6)年、学校令により教育所から尋常小学校に改称する(下頓別、宇曽丹、斜内、豊寒別)。浜頓別にて栗沢農場経営の為長縄辰次郎が移住する。頓別〜浜頓別間の道路開削する。
1918(大正7)年、3月高橋萩三が喜茂別より宇曽丹に入植する。浜頓別特別教授所開設。西尾英蔵下頓別に木材工場創設。8月中頓別〜浜頓別間を延伸開業し、下頓別駅・浜頓別駅を新設する。ウソタンナイ砂金区を藤田組に一括買収、砂金地から砂金掘りは途絶えた。11月佐々木熊吉ら秋田団体がウツナイ(宇津内)地区に入植する。北又次郎が頓別川支流にて99万8850坪の石炭鉱区の試掘を出願する。ウソタン川で水力発電工事に着手する。西尾英蔵が下頓別にて木工場設立し操業する。今忠吉がはじめて発動機付きの船で漁業を営む。
1919(大正8)年、山火事で浜頓別市街312戸、木材7万石焼失。10月宗谷線を宗谷本線に改称。11月浜頓別〜浅茅野間を延伸開業し、山軽駅・浅茅野駅を新設する。8月第七師団工兵隊により斜内山道を改修され、馬車が通行できるようになる。9月浜頓別、音威子府線の道路完成する。10月宇曽丹の水力発電所完成する。11月江別の河合才一郎がレカセウシュウナイ(不明)に農場を設立する。11月浜頓別〜浅茅野間が延伸開業し、山軽駅、浅茅野駅を新設する。菅野栄助と村民の篤志により頓別神社を造営する。祭神は大山祇神である。下頓別神社を移転し、下頓別八幡神社(現・枝幸郡浜頓別町下頓別)と称する。
1920(大正9)年、1月菅野栄助が家屋を村に貸して浜頓別特別教授所を設置する。5月下頓別郵便局開局。10月浜頓別郵便局開局。11月浅茅野〜鬼志別間を延伸開業し、猿払駅・芦野駅・鬼志別駅を新設する。12月頓別水電株式会社が、宇曽丹川にて水力発電所建設し、浜頓別、下頓別、中頓別市街に送電する。清水農場に花田幸太郎他15戸入植する。頓別原野駅逓所が下頓別市街地に移転する。取扱人は近藤勝之助。
1921(大正10)年、4月中頓別(現・中頓別町)が分村。岩橋源之助が宇曽丹にて水田試作、良好な成績をあげる。
1922(大正11)年、1月頓別村役場庁舎新築落成する。11月鬼志別〜稚内(現・南稚内)間を延伸開業し、小石駅・曲淵駅・沼川駅・樺岡駅・幕別駅・声問駅・稚内駅を新設する。11月宗谷線を宗谷本線に改称する。12月下頓別〜宇津内、下頓別〜茂宇津内の道路が完成する。
1923(大正12)年、12月宇津内沢に馬鉄の森林軌道を設置する。浜頓別〜頓別間の乗り合い馬車運行される。浜頓別〜枝幸間の発動機船運行する。
1927(昭和2)年、6月浜頓別神社拝殿上棟式挙行。7月頓別酪農組合経営の集乳所設置する。
1928(昭和3)年、清水農場廃止となる。頓別水電が北洋電気に改称する。
1930(昭和5)年、4月音威子府駅〜浜頓別〜稚内駅間を宗谷本線から削除し線路名を北見線に改称。天塩線を宗谷本線に編入する。12月下頓別に集乳所設置する。山軽〜安別間の刈分け道を開削する。
1931(昭和6)年、9月頓別炭鉱が操業開始する。林道が完成し、再びウソタンナイ川にゴールドラッシュが巻き起こる。
1932(昭和7)年、10月頓別駅逓所廃止となる。
1933(昭和8)年、6月興浜北線の第一工区(浜頓別〜斜内間)が起工する。9月仁達内駅逓所開設する。取扱人は塚本源太郎となる。宇津内炭鉱操業開始。
1934(昭和9)年、8月興浜北線の第二工区(斜内〜目梨泊間)起工する。9月頓別原野駅逓所(下頓別)廃止となる。ウソタン砂金山に入山者約500人ほどとなる。
1935(昭和10)年、4月興浜北線の第三工区(目梨泊〜枝幸間)起工する。ヤシュベツ(現・共和)に入植者が入る。
1936(昭和11)年、ヤシュベツを共和と改める。7月浜頓別〜北見枝幸間を興浜北線として開業し、豊牛駅・斜内駅・目梨泊駅・問牧駅・北見枝幸駅を新設する。9月浜頓別神社建立する。
1937(昭和12)年、11月仁達内に酪連頓別工場に牛乳出荷を始める。頓別船入間5ヵ年計画にて河口を改修する。
1939(昭和14)年、12月ソ連船「インディギルカ号」(4500t)が浜鬼志別沖合い1km付近で座礁する。1125人を乗せた船は寒さで凄惨を極め救助数は395人。死体収容数は180体となる。イ号の生存者28名。頓別村の海岸にも死体が上がり、浜頓別市街に移送する。金井貝灰工場は芦野工場を閉鎖。
1940(昭和15)年、日本鋼管会社が砂礦工場を開設し、砂クローム採取を行う。頓別炭鉱閉山となる。
1942(昭和17)年、12月浅茅野陸軍飛行場造設工事に着手する。
1944(昭和19)年、9月浅茅野陸軍飛行場の土地を陸軍省で買収する。1月興浜北線全線を休止し、全レールが撤去される。
1945(昭和20)年、12月政府への復旧陳情が行われ認可がおり、興浜北線全線の営業を再開する。
1949(昭和24)年、10月藤田組の子会社、北海道金山鰍創立し、ウソタンナイ砂金の機械掘り開始(昭和27年世界一の移動選金機導入)。
1951(昭和26)年、4月宇曽丹地区に秋田県より6戸入植する。6月頓別漁港第1種漁港の指定を受け整備始まる。10月頓別村を浜頓別町と改め町制施行。浅茅野陸軍飛行場解体される。
1953(昭和28)年、4月安別部落に岐阜県より入植者が入る。
1958(昭和33)年、浜頓別市街大火(35戸全半焼)。8月クッチャロ湖畔竪穴遺跡発掘調査(北海道大学、大場教授)
1961(昭和36)年、北見線を天北線と改称する。
1962(昭和37)年、1月歌登村が町制施行する。
1963(昭和38)年、6月神威岬灯台設置。7月第1回クッチャロ湖水まつり開催。11月宇津内、安別、ポン仁達内、共和に電気導入工事完了する。
1966(昭和41)年、浜頓別クッチャロ湖畔竪穴群が北海道史跡に指定。
1968(昭和43)年、クッチャロ湖、ベニヤ原生花園、斜内山道が北オホーツク道立自然公園に指定。
1973(昭和48)年、3月下頓別のハルニレ群が北海道記念保護木に指定する。7月環境庁鳥類観測一級ステーション開設する。
1974(昭和49)年、ウソタン砂金地現地調査が始まる。7月金鉱口発見。
1975(昭和50)年、栄和地区から注口土器(続縄文時代)出土。11月郷土資料館が開館する。
1976(昭和51)年、8月金山神社発見。
1981(昭和56)年、国設浜頓別クッチャロ湖鳥獣保護区指定
1983(昭和58)年、クッチャロ湖鳥獣保護区に指定。
1984(昭和59)年、北海道農協乳業鰹@谷工場製造開始(現・よつ葉乳業株式会社)。10月クッチャロ湖畔に野鳥観察休憩所完成する。
1985(昭和60)年、観光協会が砂金掘りプロジェクトを発足し、体験観光を開始した。7月興浜北線全線を廃止し、宗谷バスに転換される。
1986(昭和61)年、ウソタンナイ砂金採掘公園ゴールドハウスオープン。
1987(昭和62)年、ウソタン砂金共和国建国。第一回ウソタン砂金フェスティバル開催。
1989(平成元)年、JR天北線廃止。頓別小学校校舎新築落成。クッチャロ湖ラムサール条約登録湿地指定。
1991(平成3)年、ウソタンナイ砂金遺跡が浜頓別町文化財に指定。
1992(平成4)年、第1回全日本砂金掘大会開催。
1994(平成6)年、山軽台地遺跡出土遺物「細石刃核」「細石刃」が浜頓別町有形文化財に指定。ポン仁達内遺跡出土遺物「石刃核」が浜頓別町有形文化財に指定。
1995(平成7)年、水鳥観察館開館する。温泉掘削成功(掘削 1073m、温度47.5度、湯量毎分150リットル)。
1996(平成8)年、はまとんべつ温泉「ウイング」オープン。
1998(平成10)年、郷土資料館オープン。
2001(平成13)年、「コモチカナヘビ」が浜頓別町文化財に指定。
2002(平成14)年、世界砂金掘り浜頓別大会開催。
2005(平成17)年、民間風力発電所1基建設
浜頓別町史参考

Copyright (C) がんばれ北海道 All Rights Reserved.
inserted by FC2 system