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ウスタイベ千畳岩

住所 枝幸郡枝幸町岬町

枝幸町観光協会

枝幸(えさし)町の由来は、アイヌ語の「エサウシ」(岬)から。2006(平成18)年3月20日旧枝幸町と旧歌登町が合併し、現在の枝幸町となった。
ウスタイベとはアイヌ語で「ウシタイペ」(入江の林の川)」の意。
岬町の由来は分からなかった。
国道238号線を枝幸町北浜町交差点から北へ約1.2kmほどを右折し、約550mほど。

ウスタイベ千畳岩は、1968(昭和43)年5月15日に指定された北オホーツク道立自然公園 に位置し、広さは30.66haで一面に畳を敷きつめたような独特なブロック状の黒色または暗褐色のガラス質安山岩が波打ち際まで広がっている。この地形はマグマが地表に噴出しないで、地下で固結した貫入岩体となっている。節理と流理構造がほぼ水平に発達しているためこのような奇景を生んでいる。
明治時代から地元の人の憩いの場でもあったようで、釣り場、潮干狩りの場としても知られていたようである。現在も千畳岩の岩礁帯は足場もしっかりしているので、磯遊びや釣りには最適の場所である。
270度の視界に広がる海と、背後に迫る山並み。天気の良い日には、北見神威岬も見ることが出来る。冬になると眼前に流氷が千畳岩に直接接岸するため、流氷のビュースポットにもなっている。

ちなみに枝幸町は毛ガニ水上げ量日本一の町でもあり、毎年7月の第一土曜日日曜日にウスタイベ千畳岩キャンプ場そばの特設会場にて枝幸かにまつりが開かれ、カニづくしの催しを行っている。

すぐ近くには、無料のウスタイベ千畳岩キャンプ場がある。手入れの行き届いた大きなキャンプ場は、芝生にそのまま車の乗り入れも可能でシーズン中は多くのキャンパーが訪れる。オートキャンプもできる。
市街地からも近いので便利も良く、近隣のコンビニまで約1kmほど。自由に使えるバーベキューの炉もある。
利用期間 6月〜10月
料金 無料
設備 炊事場、トイレ(水洗・車椅子対応)、バーベキュー炉
お問い合せ 枝幸町役場水産商工課 0163-62-1238

すぐそばには、1973(昭和48)年に建立された海難慰霊碑もある。

オホーツク海で犠牲になった多くの人たちを慰めその功績を後世に残すため水産関係者の尽力により実現したもの。
明治期の開拓以来の海難殉職者131柱が祀られており、高さは2m、横3m、幅2m、稲田花崗岩でできている。
毎年8月11日には、慰霊祭が行われている。


1684(貞享元)年、松前藩直領の漁場、宗谷場所が開設される。(場所は、対アイヌ交易のため和人が訪れる所定の場所)
1706(宝永3)年、村山伝兵衛が場所請負となる。
1756(宝暦6)年、浜屋与三右衛門ら3人が、ソウヤ場所を請負う。
1775(安永4)年、ソウヤ場所を飛騨屋久兵衛が請負う。(村山伝兵衛が8年間下請けする)
1782(天明2)年、飛騨屋久兵衛が宗谷斜里場所を請け負う。
1785(天明5)年、最上徳内が、金山を開く目的で蝦夷地を調査する。幕吏・庵原(いはら)弥六、佐藤玄六郎、下役松前藩の協力者らで、蝦夷地西岸を渡り、宗谷からカラフトを踏査するが寒さと飢えで宗谷に戻った。宗谷到着後、佐藤玄六郎は庵原と別れ、蝦夷地東北海岸を検分し、東蝦夷地へ向かい厚岸に着いた。
1789(寛政元)年、国後、目梨のアイヌ反乱。和人70人を殺害。飛弾屋を免じ、村上伝兵衛に場所請負を命ず。
1790(寛政2)年、ソウヤ場所からカラフト場所独立、シャリ場所を分設。
1791(寛政3)年、 枝幸にのろしをあげる烽火台を設置する。
1796(寛政8)年、村山伝兵衛の場所請負没収、ソウヤ・シャリ・カラフトの3場所、小山屋権兵衛の請負となる。
1797(寛政9)年、小山屋にかわり板垣豊四郎が3場所を請負う。
1800(寛政12)年、ソウヤ・シャリ・カラフトの3場所、松前藩の直営とし柴屋長太夫に任せる。
1801(享和元)年、 頓別・徳志別などに漁場の番屋を設置する。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。択提島を荒らしたロシア船知床半島近くに現われる。宗谷・斜里警備の津軽藩兵水腫病にかかり翌春へかけて死亡者多数におよぶ。
1808(文化5)年、会津、仙台藩の兵が蝦夷地に派遣される。柏屋喜兵衛(後の藤野)ほか、共同で宗谷・斜里場所の請負となる。
1815(文化12)年、宗谷・斜里場所藤野喜兵衛の単独請負となる。
1817(文化14)年、藤野喜兵衛千島・クナシリ場所を請負う。
1819(文政2)年、青森県閉伊郡大畑村字島沢(現・青森県むつ市大畑町付近)の住人吉井茂兵衛氏が主家藤野家の信仰に係る厳島の御分霊を奉遷し、小社を建立した。(厳島神社由緒、現・枝幸郡枝幸町新栄町536番地1)
1821(文政4)年、幕府、東・西蝦夷地を松前藩に返領。
1833(天保4)年、藤野家、箱舘に支店をおき柏屋猪兵衛と称する。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が樺太探険の帰途、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。
1850(嘉永3)年、枝幸沿岸で鰊漁が盛んとなる。
1854(安政元)年、藤野喜兵衛がホロベツ(現・幌別)とトプシュベツ(現・徳志別)に渡舟を設ける。幕府、箱舘奉行をおく。
1855(安政2)年、宗谷場所が幕府の直轄地となり秋田藩が警備する。藤野家、本店を箱舘に移し、福山(現・松前)を支店とする。
1859(安政6)年、蝦夷地を分領し、ソウヤ・リシリ・レブンは秋田藩領となる。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道とし、11国86郡を定め、北見国枝幸郡となる。9月北見国を分領(宗谷・枝幸・礼文は金沢藩領) 10月場所請負人の名目を廃し、漁場持と改める。
1870(明治3)年、枝幸郡は金沢藩から開拓使直轄となる。
1871 明治4年 開拓使判官・松本十郎が枝幸を視察する。栖原半七・伊達林右衛門の両名枝幸郡の漁場持となる。
1872(明治5)年、北海道開拓使宗谷支庁設置する。枝幸出張所が開設される。
1874(明治7)年、ベンジャミン・スミス・ライマンが地質調査に来る。
1875(明治8)年、白坂藤吉が枝幸で鮭漁を営む。
1876(明治9)年、漁場持の制度を廃止し、大小区制度施行。枝幸は28大区1小区となる 。
1878(明治11)年、枝幸郡に枝幸・頓別・歌登・礼文の4村を設置する。
1882(明治15)年、開拓使を廃止し三県が置かれ、枝幸は札幌県に属する。
1886(明治19)年、1月3県を廃して北海道庁設置、函舘・根室に支庁をおく。
1887(明治20)年、谷梯東太が、寺子屋式教育はじめる。枝幸小学校私設教授の開設となる。
1889(明治22)年、天塩北見漕運会社設立。増毛〜網走間の航路。香深(礼文島にある港湾)に寄港。冬季定期航路の開設。
1890(明治23)年、簡易小学校の認可がおり、枝幸小学校の前身が開校となる。
1891(明治24)年、宗谷・枝幸両郡の戸長役場より分離・枝幸外3ヶ村戸長役場を設置する。電信線開通。
1893(明治26)年、菅原某が砂金を採取する。
1894(明治27)年、枝幸〜旭川の道路開設調査を行う。礼文村オレタンラップ(現・枝幸郡枝幸町乙忠部モオレタラップ川付近)に駅逓所建築する。
1896(明治29)年、石川要三がフーレップ川(枝幸郡枝幸町風烈布)で砂金採集を行う。
1897(明治30)年、砂金発見される。産金数は100貫・1万8000余人の採集者が集まり集まり賑わう。下幌別原野植民地区画測量する。郡役所を改め、宗谷支庁を開設。
1898(明治31)年、堀川泰宗らパンケナイ(現・枝幸郡枝幸町歌登パンケナイ)、頓別川の支流ウソタンナイ川上流で新金田発見しゴールドラッシュとなる。上幌別に桧垣農場認可され15戸入植する。
1899(明治32)年、ペイチャン(中頓別町ペーチャン川)で砂金の優秀鉱を発見する。
1901(明治34)年、ゴールドラッシュ下火となる。オチシュベツ原野(現・音標)道路開鑿する。
1903(明治36)年、姥苫内(チエトマナイ)官設駅逓所を目梨泊(現・枝幸郡枝幸町目梨泊)に移すが詳細は不明。幌別〜天塩川間道路工事開始。
1904(明治37)年、上幌別駅逓所開設。(現・枝幸町歌登中央)
1906(明治39)年、上音標に山田権太郎・山田鍋吉らが入植する。戸長役場を新築する。
1907(明治40)年、咲来に通ずる仮定県道工事はじまる。
1909(明治42)年、2級町村制施行により頓別、歌登、礼文、枝幸が枝幸村に併合。
1914(大正3)年、11月天北線(宗谷線)の音威子府〜小頓別間を延伸開業する。小頓別駅開業する。
1916大正5年、4月枝幸村(現・枝幸町)より頓別村(現・浜頓別町・中頓別町)を分村。10月小頓別〜中頓別間を延伸開業。敏音知駅・松音知駅・中頓別駅を新設。
1919(大正8)年、枝幸市街に電灯がつく。
1923(大正12)年、4月一級町村制施行する。
1926(大正15)年、枝幸乗合自動車商会が枝幸〜小頓別間営業開始。
1930(昭和5)年、北海道殖民軌道、枝幸〜小頓別間開通する。
1933(昭和8)年、船入澗築設する。(漁港として第一歩を踏み出す)
1936(昭和11)年、興浜北線開通し、北見枝幸・問牧・目梨泊駅新設する。
1938(昭和13)年、歌登市街地に電灯が点く。
1939(昭和14)年、9月歌登村を分村。
1942(昭和17)年、北見枝幸測候所開設する。
1944(昭和19)年、農地開発公団による入植はじまる。11月興浜線全レールが撤去される。
1945(昭和20)年、終戦により多数の海外引揚者が入植する。12月興浜北線復元開通する。
1947(昭和22)年、10月町制施行し、町内の3大字を再編する。 枝幸村は、本町、栄町、幸町、梅ヶ枝町、目梨泊、問牧、ウスタイベ、ウエンナイ、幌内保。礼文村は、乙忠部、風烈布、音標、上音標。歌登村は、ケモマナイ、下幌別、岡島、徳志別、山臼となる。
1952(昭和27)年、雄武と共同で幌内ダムを建設する。
1954(昭和29)年、枝幸港地方港湾に指定される。幌内ダムの幌内川発電所完成により未点灯地域解消される。
1962(昭和37)年、北見神威岬に燈台点灯する。
1963(昭和38)年、三笠山国設スキー場完成。音標漁港竣工する。
1964(昭和39)年、山臼漁港竣工する。
1966(昭和41)年、興浜線の音標〜雄武間起工する。
1968(昭和43)年、北オホーツク道立自然公園 に神威岬及びウスタイベが指定される。
1978(昭和53)年、開基100年記念式典挙行。
1981(昭和56)年、ホロナイポ遺跡出土の遺物(復元土器20点、石器56点の一部)が道の有形文化財に指定される。
1982(昭和57)年、ホロベツ砂丘遺跡の発掘調査開始する。
1985(昭和60)年、興浜北線廃止し、代替バス運行される。枝幸三笠山展望閣が完成する。
1988(昭和63)年、枝幸町郷土資料館開館する。
1990(平成2)年、目梨泊遺跡の発掘調査開始する。
1996(平成8)年、落切川左岸遺跡の発掘調査開始する。9月「道の駅」マリーンアイランド岡島オープン。
1997(平成9)年、幸林荘が「ホテルニュー幸林」として改装オープンする。
1998(平成10)年、字名改正施行。道が空港建設に係る基本調査を開始する。枝幸町開基120年、町制施行50周年記念式典挙行
2000(平成12)年、目梨泊遺跡の出土品(出土品の総数は約23万点で、指定は319点)が国の重要文化財に指定される。
2001(平成13)年、目梨泊遺跡で過去最大の土器出土する。
2006(平成18)年、3月(旧)枝幸町、歌登町と対等合併し、枝幸町が成立した。

枝幸町史上巻・下巻・第三巻・第四巻参考

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