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稚内 にしん街道標柱

住所 稚内市港1丁目6 副港市場敷地内

にしんルネサンス

稚内観光協会

稚内の由来は、アイヌ語のヤム・ワッカ・ナイ、「冷たい水の流れる沢」という意味である。
港地区は、港五、南四、南五、南六などの町内会に分けられる。宗谷本線の線路を境に、常磐通りや弁天仲見世などの元遊興街を含む山側地区と、浜側の国道40号線周辺地区に分けら、浜側には戦前の南浜9丁目と埋め立て分譲された辻埋立地がある。
道の駅わっかないから海側の道路を南へ約1.0km。

にしん街道は、北海道の松前町から稚内市までの日本海沿岸約700kmの道のりの事、そこには「 にしん番屋 」に象徴される数多くの遺跡や文化財が点在しているのである。
当時、北海道日本海沿岸市町村では、江戸時代から「ニシン」による繁栄という共通の文化を有し、日本海の市町村を繋ぐ道として標柱の設置が進められているのだ。
1897(明治30)年、にしん漁最盛期には、97万3000トンの史上最高を記録しているほどで、ニシン漁は北海道の漁業総生産額の7割を占めるほど盛んだった。
多くの廻船問屋や商家、土蔵が建ち並ぶなど、ニシン漁で財を成した漁師による「ニシン御殿」が建ち並んだ。
日本海沿岸市町村には、現在もこれらを象徴する歴史的建造物や郷土芸能など、有・無形の文化財が数多く残され、一部の地域では資料館として開放している。
1906(明治39)年、このころからニシン漁不漁期に入り豊漁の年と凶漁の年があり、1955(昭和30)年以降、日本国内での水揚量は、100tにまで激減してロシアやカナダからの輸入品が大半を占めるようになった。
激減の原因として挙げられるのが、乱獲、森林破壊など諸説があるが、日本の場合は乱獲が主要の原因だと見られる。


にしんルネサンスでは、往時の繁栄時代のにしん文化を蘇らせネットワークで結び、新たな観光ルートの確立など、日本海沿岸市町村を通るルートを『にしん街道』と命名し、各市町村に標柱を設置することになった。
松前町から稚内市までの総延長約700kmを結ぶ街道は、国内最大の長さを誇り、2004(平成16)年、松前町から始まった 「 にしん街道標柱設置事業 」 が、江差・小樽・留萌などを経て、21基目の標柱として2011(平成23)年、12月26日稚内副港市場敷地内に設置された。

説明版
 稚内は 日本海とオホーツク海に面する恵まれた立地条件
により 北海道の中でも明治初期から漁場開拓の先駆け的な
役割を果たしてきた。
 その歴史を語る中で忘れることができないのが「にしん漁」
で、稚内の沿岸ではかつて、早春になると産卵のため大群で
岩場の海藻に押し寄せる「にしん」で海水が真っ白に変わる
「群来(くき)」という現象が見られた。
「にしん漁」は 北海道の西南部が主要漁場だったが、明治
から大正にかけて漁場が日本海沿いに北上し、稚内において
は昭和二十八年まで 地域経済を支えた。
ヤーレン ソーラン ソーラン
ソーラン ソーラン ソーラン (ハイハイ)
にしん来たかと 鴎に問えば
わたしゃ立つ鳥 波に聞け チョイ
ヤサ エーエンヤーサーノ
ドッコイショ
(ハー ドッコイショ ドッコイショ)
「にしん漁」の沖揚げ音頭として知られる「ソーラン節」
は、今の時代に合わせた曲調に乗せて振り付けされ、市内の
小中学校を中心に文化教育の一環として子ども達によって 踊
り継がれている。
 松前町を始点として日本のてっぺん稚内までの新たな観光ル
ートの証として、ここに標注を設置する。
設置月日 平成二十三年十二月吉日
設置者 稚内観光協会

この稚内地区は、江戸から明治の初期にかけて現在のような宗谷の中核的な役割はなく一般漁民にとっても出稼ぎ労働の場であり、定住生活の場所としての位置づけも当時は弱かったようである。
開運地区は、1971(昭和46)年からの町名で、元は稚内市の一部。稚内築港による埋立で成立した。1923(大正12)年5月稚泊連絡船運行開始し、第二次世界大戦が起こる前まで駅ターミナルがあった。
松前藩や幕府の役人にとっては場所の中心地であり、番屋、運上屋がある宗谷までの船や徒歩、騎馬による通過点でしかなかった。当時徒歩ではノシャップ岬を巡るルートか、ルエラン(坂の下)やクトネベツからクサンルへ抜ける「クサンル山道」を通っていた。1871(明治4)年に巡視した 松本十郎開拓判官や、日本にお雇い外国人として招かれ1874(明治7)年に巡視した ベンジャミン・スミス・ライマンなどはクサンル山道を通ったようである。
この頃の宗谷港は、英国軍艦・樺太からのマス積船などが座礁、破船するなど危険と隣り合わせの港湾であった。このため砂底で破船の危険性が少ないコエトイ沖(現・声問地区)やヤムワッカナイ(現・港地区)の沖合を停泊地とする船が多かった。
陸路として通過点だった稚内地区は、海上面の比較的安全な地域として重視されることになる。

1879(明治12)年宗谷村に戸長役場設置し稚内市の開基となる。1885(明治18)年、宗谷村尻臼に灯台設置、日本郵船会社小樽・稚内間に定期航路を開く。1887(明治20)年トベンナイ(現・稚内市宝来4-8)に金比羅神社を建立する。1888(明治21)年には、郡役所、戸長役場、警察署、郵便局などその他諸官公庁が稚内に移転する。それに前後してヤムワッカナイ地区に移住者が増えた。1889(明治22)年公立稚内簡易小学校(現・稚内中央小学校)を開設。1895(明治28)年稚内・声問地区の区画設定実施。1897(明治30)年11月郡役所を改め、宗谷支庁を開設。1900(明治33)年7月宗谷郡稚内村、抜海村、声問村の区域を稚内村と称し1級町村制施行。1901(明治34)年稚内村を稚内町に改める。
当時のクサンル地区北側(現・稚内公園に連なる一帯)は鬱蒼たる原始林であった。現在は灌木と笹やぶが広がる公園付近も当時は巨木が立ち並ぶ子供たちの遊び場だったという。1911(明治44)年に起こった大火で焼失し現在の姿となっている。
当時の形成されたばかりの稚内地区は、現在の中央5丁目の真言寺近辺から宝来4丁目(稚内中央小学校)付近までをその区域としていた。おおむね東西約150m、南北約2kmほどの街であった。
 1913(大正2)年秋田木材会社が声問発電所を設置し、稚内にはじめて電灯がともる。1920(大正9)年稚内築港工事着手する。稚内の経済が発展するにつれて、手狭になってきた稚内地区は打開策として、「大サの坂」(真言寺付近の坂)など、東西方向への埋め立てと山の切り崩しが行われることとなった。基本的には、家屋、倉庫の建築と水産干場などの生活に密着した埋立だった。
1921(大正10)年に稚内町に許可が下りた埋め立ては、「大サの坂」を切り崩し、その残土を埋め戻しに使った。1922(大正11)年、11月鬼志別〜稚内(初代)間を延伸開業し、小石駅、曲淵駅、沼川駅、樺岡駅、幕別駅、声問駅、稚内駅を新設、稚内まで全通した。(この時の路線は、後に天北線となる浜頓別経由のルートである)宗谷線が宗谷本線に改称。この時の駅が現在の南稚内駅で、港5丁目の跨線橋付近にあった。この頃には「大サの坂」の痕跡はなくなった。1923(大正12)年5月稚泊連絡船運行開始。1924(大正13)年北見線開通(現・宗谷本線)、天塩北線の稚内(初代)〜兜沼間が開業し、抜海駅、勇知駅、兜沼駅を新設する。稚斗連絡船運航開始。1925(大正14)年稚内造船所建設する。稚内にタクシーが走る。7月秋田木材会社が稚内に発電所を設置する。これと並行し、稚内町の埋め立ても進捗し現在の中央4丁目〜国道40号線と旧北浜通の辺りまでを埋め立てた。その後も埋め立ては続き、1946(昭和21)年まで続けられた。
 1926(昭和元)年7月稚内発電所を建設。9月天塩線(音威子府〜幌延〜稚内間)全通し、当該区間を天塩線に改称する。1928(昭和3)年10月稚内市街地にて大火が起き、681戸焼失する。12月稚内〜稚内港間を延伸開業。稚内港駅開駅(現・稚内駅)。1930(昭和5)年4月天塩線を宗谷本線に編入し、旭川〜幌延〜稚内港間が宗谷本線となる。音威子府〜浜頓別〜稚内間を分離し、北見線(後の天北線)に改称。11月稚内市街地にて大火が起き、216戸焼失する。1931(昭和6)年稚内町役場新築落成する。1939(昭和14)年2月稚内駅を南稚内駅に改称(同時に稚内港駅を稚内駅に改称)。1945(昭和20)年米軍稚内に進駐。稚泊連絡航路(ちはくれんらくこうろ)が運航停止となり、稚内桟橋駅も廃止となる。1949(昭和24)年4月稚内市制施行、稚内市となる。町政時の稚内・声問・抜海の大字を継承。1950(昭和25)年豊富村の一部を編入する。1952(昭和27)年11月南稚内駅・稚内駅を移転する。1955(昭和30)年2月宗谷村を編入し4大字とする。1956(昭和31)年陸上自衛隊が稚内に駐屯する。1957(昭和32)年8月稚内港が重要港湾に指定される。1958(昭和33)年3月稚内市内の町名番地改正する。45年にかけて港町1〜5丁目他42町が起立、その後も区画整理などを経ている。1959(昭和34)年8月稚内港中央埠頭起工する。1964(昭和39)年12月稚内第三副港完成する。1965(昭和40)年9月稚内新駅舎完成。
 1995(平成7)年サハリン定期航路就航(稚内港〜コルサコフ(旧大泊)間)。1999(平成11)年サハリン定期航路再開。2008(平成20)年国際・国内フェリーターミナル完成。


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