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松浦武四郎宿営の地碑

住所 稚内市声問村声問

稚内観光協会

稚内の由来は、アイヌ語のヤム・ワッカ・ナイ、「冷たい水の流れる沢」という意味である。
声問の由来は、アイヌ語の「コイ・トェ・イ」(波が切る所・または波が崩す所)に由来する。アイヌは大沼(シュプントー)から上流を「シ・ペッ」(本流の川)、下流部は「トー・パロ」(沼の口)と呼んでいた。声問川は稚内市内を流れ宗谷湾に注ぐ二級水系河川である。また江戸時代はこの声問をクシャフ=クチャ・プッ(狩小屋・川口)と呼んでいたそうだ。
国道238号線に沿って宗谷方面に向かうと声問川手前カーブ山側の右手に見える。国道40号線と国道238号線の潮見4丁目交差点から宗谷方面へ約3.9km右手。国道238号線と道道1133号宗谷ふれあい公園線の声問3丁目の交差点から稚内市街方向へ約350m左手。

内陸には、白鳥の飛来地で有名な大沼をみることができ、大沼バードハウスがある。
武四郎の時代は、コイトイトー(声問沼)と呼ばれ、古来はシュプントー、シュプン・ト(うぐい・沼)と呼ばれていた。
松浦武四郎は、声問に1846(弘化3)年、1856(安政3)年、1858(安政5)年の三度訪れ、安政5年には声問川を遡り踏査し、「戊午山川取調日誌 西部 古以登以誌」に残している。
この碑は、2009(平成21)年12月6日、宗谷サロベツ松浦武四郎の会有志の方々によって碑が設立された。
ちなみに、この碑が出来るまで宗谷場所には松浦武四郎に関する碑は無かったそうだ。

北海道人・松浦武四郎
北海道の名付け親である松浦武四郎(文政元年
<1818>〜明治二十一年<1888>)は、伊勢の国
一志郡須川村(現・三重県松坂市)に生まれ、若年
より諸国を遍歴した後、蝦夷地(現・北海道)を六
回訪れ、アイヌの人たちの協力を得て、山川取り調
べ(地勢調査)を行い、後に東西蝦夷山川取調図
(北海道地図)を完成している。
 弘化三年(1846)、安政三年(1856)、及び
安政五年(1858)には、宗谷地域を訪れ東浦・
宗谷・声問・恵北・抜海に宿泊し『古以登似日誌』
『北岬日誌』等を記し、弘化三年・安政三年には、
宗谷より北蝦夷(樺太・現・サハリン)へも足を伸ば
し、弘化三年には利尻、礼文にも足跡を残している。
 東西蝦夷山川取調べを行い、原住民であるアイヌ
の人たちの生活や、蝦夷地の状況などを詳細に調査
し、克明な記録を幕府に提出また出版するなどし
て、蝦夷の実態を明らかにしながら、アイヌの人たち
の生活向上に心を砕き、幕閣へも再三改善への提言
を行った。
 明治政府の北海道判官として奉職、北海道の夜明
けに貢献し、自ら「北海道人」と号した。

戊午山川取調日誌
西部 古以登似誌
コイトイは近世の通称
にして、其名義は此地低
きが故にその上を波が打越
るによって号なるなり。
地形左にノツシャプ
ザキ、右にソウヤをうけ
て、其間一湾となりし第
一奥なり。
弘化三年(1846)
安政三年(1856)
安政五年(1858)
武四郎声問を訪れる。

松浦武四郎踏査による東西蝦夷山川取調
図完成百五十年を記念し、松浦武四郎の偉
業を称え、後世に長くその遺徳を伝えると
共に、アイヌの人たちの助力に感謝する為
有志相計ってこの宿営碑を建立する。
平成二十一年(2009)十二月六日
宗谷サロベツ松浦武四郎の会
有志一同

声問地区は、1878(明治11)年宗谷郡に6村が誕生したときに、それまでのアイヌコタンが声問村と命名されたものである。
1879(明治12)年宗谷に郡役所が置かれ宗谷郡となる。宗谷村に戸長役場設置し稚内市の開基となる。
1885(明治18)年青森県人の成田与之吉が声問岬に小屋を建て、ナマコ漁に従事したのが声問地区の漁業の始まりとされている。
1887(明治20)年頃には、ニシンの建て網を始め、石川県人らが集団移住して集落が形成されていった。その後人口も増え、市街地の形成を求め宗谷外三郡役所に陳情したのが1895(明治28)年である。間口六間半、奥行き二四間、地積156坪の471戸分が区画され、道路の開削もあり、荒れ地が一変した。この年の声問の戸数は70戸、人口は339人だった。
1887(明治20)年頃始まった、佐藤重太郎の寺子屋式教育は、1892(明治25)年稚内簡易小学校声問分校として開校した。この頃に声問神社も創建されている。
1897(明治30)年代には、大徳寺(現・稚内市声問5丁目1-15)、大成寺(現・稚内市声問5丁目1-6)が開山。声問郵便受取所、木工場、消防組、青年会なども創立された。
1900(明治33)年宗谷郡の稚内村、抜海村、声問村の区域を稚内村と称し1級町村制施行。
1909(明治42)年には、声問川上流奥地の森林開発に着目した札幌の坂本竹次郎は、坂本木工場を、次いで永岡木工場を操業する。1912(大正元)年には秋田木材が声問に木工場を新築し操業を開始した。当時木材の輸送は、全て海路で、川は流木と貯木であふれ、それに関わる従業員なども移住して戸数は370戸と膨れ上がった。
1913(大正2)年には、秋田木材が社内発電を目的として火力発電を設置し、声問全域にまで電気を送電。その後1914(大正3)年には稚内市街にも電気を供給した。
1921(大正10)年東京の村井砿業株式会社が声問石油鉱場設立する。声問岬地区に石油鉱脈があるのを察知し、採掘をする。大量の湧出があり、最盛期には17本にもなる油井があった。しかしその隆盛もガスによる火災が発生し、事業は閉鎖となった。その後戦争遂行に向け開発されたが、1974(昭和49)年に全てが閉鎖となった。
1922(大正11)年11月鬼志別〜稚内(現在の南稚内)間を延伸開業。小石駅・曲淵駅・沼川駅・樺岡駅・幕別駅・声問駅・稚内駅を新設する。宗谷線(天北線)開通。11月宗谷線を宗谷本線に改称した。
1927(昭和2)年秋田木材も材料である木材が不足し、火力発電が稚内市街に移ったこともあり工場は閉鎖した。これにより戸数も90戸減少し、ニシン漁も不漁で活気が失われていった。この頃以前はあまり着目されることのなかったコンブ採取に着目。コンブ礁を作り、利尻・稚内の種コンブを植え付け育成し、現在の基盤となった。


1296(永仁4)年、日持上人宗谷より渡樺の伝説がある。この頃和人の勢力が宗谷地方に及ぶ。
1582(天正10)年、松前藩領となる。
1603(慶長8)年、宗谷に役宅を設置し、利尻、礼文、唐太を司る。
1635(寛永12)年、佐藤嘉茂左衛門、蠣崎蔵人、村上掃部左衛門を宗谷珊内より樺太巡察に派遣し、ウッシャム(サハリンの最南端・クリリオン岬(日本統治時代の名称は西能登呂岬付近)に渡る。
1651(慶安4)年、蛎崎伝右衛門主命により樺太を巡視する。
1685(貞享2)年、松前藩が宗谷場所を開設する。樺太は松前藩家臣の知行地として開かれたソウヤ場所に含まれた。
1689(元禄2)年、藩士蛎崎七之丞が宗谷を巡視する。
1706(宝永3)年、村山伝兵衛、宗谷場所を請負う。
1750(寛延3)年、村山伝兵衛、宗谷場所を請負う。
1752(宝暦2)年、ソウヤ場所から樺太場所が分立する。
1756(宝暦6)年、浜屋や近江商人が宗谷場所を請負う。
1761(宝暦11)年、宗谷場所が松前藩の直轄となる。
1765(明和2)年、松前の商人恵比須屋半兵衛が宗谷場所を請負う。
1775(安永4)年、飛騨屋久兵衛が宗谷場所を請負う。
1781(天明元)年、宗谷に厳島神社建立。(現・内市宗谷村宗谷、宗谷歴史公園内)
1782(天明2)年、飛騨屋支配人が厳島神社に鰐口を奉納する。
1785(天明5)年、幕府の樺太探検隊長庵原弥六一行、宗谷で越年するも、翌年3月に病死する。(墓碑現存)
1787(天明7)年、フランスのラ・ペルーズの艦隊が世界周航の途中、宗谷海峡を通過、樺太が島であることを確認。
1789(寛政元)年、最上徳内らが宗谷を巡視。飛騨屋が宗谷場所をやめ、村山伝右兵衛が請負う。
1790(寛政2)年、松前藩は、宗谷に勤番所を設置する。
1796(寛政8)年、村山伝兵衛は宗谷場所を罷免され、小山屋権兵衛が請負う。
1800(寛政12)年、藤原時畝が、宗谷にて弥六の墓碑を建立する。松前藩は宗谷場所を直営。柴屋長太夫が宗谷場所の仕入れを任ぜられる。
1801(亨和元)年、奉行松平忠明、宗谷を巡視し、台場を築く。奉行一行の磯谷則吉が宗谷に滞在する。高橋壮四郎が宗谷場所を管理する。
1806(文化3)年、遠山金四郎、村垣左太夫樺太を巡視して宗谷に滞在。
1807(文化4)年、幕吏近藤重蔵ら宗谷を巡視。宗谷場所幕府直轄領となる。津軽藩宗谷警備に付くが、多くの藩兵が水腫病で亡くなる。
1808(文化5)年、最上徳内、松田伝十郎が宗谷に来る。松田伝十郎は樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の国境標を建てる。間宮林蔵ら、樺太探検のため宗谷を出帆。会津藩が津軽藩と宗谷警備を交代する。宗谷警備中の会津藩士が次々と病死する。
1809(文化6)年、間宮林蔵は樺太が島であることを確認し、呼称を北蝦夷地と正式に定め、宗谷に戻る。松田伝十郎が樺太アイヌ住民の問題解決に貢献し、北蝦夷地詰を命ぜられる。山丹人との貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。
1810(文化7)年、藤原義行鋳造の釣り鐘を宗谷護国寺に奉納する。宗谷の越冬警備を止め、増毛まで退避越冬をする。
1821(文政4)年、全蝦夷地を松前藩に返還し、宗谷場所も松前藩領になる。
1823(文政6)年、厳島神社に藤野家船頭の松本金蔵らが石鳥居、宗谷番人達が石灯篭を奉納する。
1824(文政7)年、宗谷支配人嘉吉らが厳島神社に手洗鉢を奉納する。
1832(天保3)年、藤野喜平衛が厳島神社を改築する。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が声問に立ち寄り、宗谷から樺太に渡る。
1855(安政2)年、宗谷場所、再び天領となる。秋田藩が宗谷警備を行う。
1856(安政3)年、箱館奉行所支配組頭向上源太郎が宗谷場所を引き継ぐ。松浦武四郎ら、樺太調査のため宗谷を出帆。この年クワヘヒル(ストーブ)が役宅につけられる。
1858(安政5)年、松浦武四郎が声問川を遡り踏査。
1859(安政6)年、宗谷、秋田藩の領下となるが、抜海とノシャップは幕府直轄。
1867(慶応3)年、宗谷地方は箱館奉行所の直轄地に編入される。
1869(明治2)年、宗谷、開拓使に属す。金沢藩支配に宗谷・枝幸・礼文を含む。
1870(明治3)年、1月宗谷、金沢藩に属す。6月宗谷は開拓使の直轄とする。8月藤野喜平衛が宗谷場所を返上する。
1871(明治4)年、7月松本十郎が宗谷を調査する。栖原角兵衛が宗谷外四郡の漁場を受け持つ。
1872(明治5)年、宗谷支庁設置、開拓判官大山重が主任となる。
1873(明治6)年、宗谷支庁を廃し、留萌支庁の管轄となる。
1874(明治7)年、開拓使雇技師ライマンが稚内地方を巡視する。
1875(明治8)年、3月宗谷に開拓使出張所を置く。樺太千島交換条約締結。樺太原住民841名を稚内に移住させる。
1876(明治9)年、1月宗谷郵便局を設置。
1879(明治12)年、7月宗谷に郡役所が置かれ宗谷郡となる。宗谷村に戸長役場設置し稚内市の開基となる。
1880(明治13)年、3月宗谷郡役所開庁する。
1885(明治18)年、宗谷村尻臼に灯台設置、日本郵船会社小樽・稚内間に定期航路を開く。
1887(明治20)年、宗谷駅逓所を開設し、官馬五頭配備する。藤山要吉が小樽と稚内を結ぶ天塩漕運会社を設立する。稚内でニシン漁を手掛ける。トベンナイ(現・稚内市宝来4-8)に金比羅神社を建立する。
1888(明治21)年、宗谷郵便局を稚内郵便局に改称。郡役所、戸長役場、警察署、郵便局などその他諸官公庁が稚内に移転する。それに伴い商店なども移転していく。藤山要吉が稚内字シルコマナイ(現・稚内市恵比須)に漁場を開く。中村齢助が私立学校を開設する。
1889(明治22)年、公立稚内簡易小学校(現・稚内中央小学校)を開設。宗谷測候所が業務を宗谷灯台に委託する。三吉神社(現・北門神社の末社・稚内市中央1丁目1番21号)を建立する。
1891(明治24)年、宗谷測候所閉鎖となる。9月枝幸村開村となる。
1892(明治25)年、声問神社創建する。稚内市街地に簡易水道敷設する。新潟・石川県人が声問に団体移住する。11月船泊(現・礼文島)戸長役場設置する。鴛泊(現・利尻島)戸長役場設置する。鬼脇(現・利尻郡利尻富士町鬼脇)戸長役場設置する。
1893(明治26)年、峰岡(現・稚内市峰岡)に和人移住し漁業をする。増幌原野殖民地区画設定し、開拓者入植する。5月稚内市街地にて大火。10月杖苫内駅逓所設置し、官馬四頭置く。
1895(明治28)年、稚内・声問地区の区画設定実施。更喜苫内に入植者が入る。見晴ヶ丘に北門神社(現・稚内市中央1丁目1番21号)建築する。畜産加工場開設する。
1897(明治30)年、藤山要吉の持ち船が沈没に見舞われ天塩北見運輸解散する。稚内西海岸にて石油試掘する。11月郡役所を改め、宗谷支庁を開設。利尻にて大火。
1898(明治31)年、利尻島で大火が起こり10日間燃える。
1899(明治32)年、勇知に入植者が入る。抜海に駅逓所設置し、官馬13頭置く。ノシャップヨード工場設立。天塩・利尻・礼文間に海底電信線敷設する。利尻島大火。沓形村が鴛泊村より分村する。
1900(明治33)年、7月宗谷郡稚内村、抜海村、声問村の区域を稚内村と称し1級町村制施行。宗谷、泊内、猿払三村戸長役場を宗谷コタンバに設置する。12月稚内灯台設置される。
1901(明治34)年、稚内村を稚内町に改める。11月夕来駅逓所を設置し、官馬四頭置く。
1902(明治35)年、4月利尻郡鬼脇と石崎村が合併し鬼脇村となり村制施行する。散在していた宗谷旧藩士の墓を一か所に祭祀する。宗谷岬に海軍望楼所設置する。7月勇知神社創建される。増幌に市島、福沢農場開設。幕別に大竹農場開設する。稚内〜礼文・利尻間に海底電線敷設する。12月山下通2に稚内町役場新築落成する。利尻島で大火。
1903(明治36)年、福沢桃介が福沢農場に牧場を開設する。これにより増幌地区に移住者が増加。
1905(明治38)年、樺太への渡海が一般人に許可され、南樺太に移住者、渡海者増える。11月宗谷〜樺太間の海底電線敷設する。
1906(明治39)年、小樽、稚内、樺太定期航路を開設。藤山要吉は樺太の建網業にも手を広げる。沓形村で大火。
1907(明治40)年、利尻島で大雪崩が発生し死者が多数出る。宗谷護国寺がウエントマリ川西岸に移築される。12月稚内地方で暴風雨被害甚大。
1908(明治41)年、5月劇場「北見座」開館する。藤山要吉は樺太ではニシン17統、マス3統の漁場を持つ。
1909(明治42)年、3月稚内地方で暴風雨となり5戸倒壊、漁船沈没し22名死亡。4月宗谷村は二級町村制を施行する。幕別神社創建される。
1911(明治44)年、5月山火が延焼し、稚内町724戸・宗谷村71戸・その他諸官庁、学校、病院等消失する。劇場「大正座」開館する。
1912(大正元)年、秋田木材会社が声問で自家発電を始める。宗谷支庁庁舎新築落成する。樺岡(声問村字樺岡)に宮城県開拓者集団入植する。
1913(大正2)年、秋田木材会社が声問発電所を設置し、稚内にはじめて電灯がともる。勇知に埼玉県団体が入植する。上声問・沼川に開拓者が多数入植する。7月北門神社の本殿を新築し遷宮する。11月更喜苫内駅逓所設置され、官馬五頭置く。
1915(大正4)年、上声問地方に入植者入る。鉄道院技師が宗谷線測量を行う。
1916(大正5)年、5月下豊別(現・稚内市声問村下豊別)に4戸入植する。ノシャップ岬神社の社殿を再築する。7月声問に劇場「開声座」開館する。
1917(大正6)年、5月岐阜団体が曲淵・沼川に入植する。6月福島団体が曲淵に入植する。相馬団体が曲淵・沼川に入植する。
1919(大正8)年、川西(声問村川西)に開拓民入植する。8月上声問駅逓所設置され、官馬4頭置く。
1920(大正9)年、川南(声問村川南)に開拓民入植する。曲淵にて水稲試作する。稚内築港工事着手する。沼川市街地区画設定。
1921(大正10)年、村井北部鉱業所が声問石油鉱場設立。上勇知に開拓民入植する。
1922(大正11)年、曲淵に伊藤農場を開設する。村井石油会社が増幌で採油事業を開始する。稚内運送会社設置する。曲淵・沼川の地名が誕生する。11月鬼志別〜稚内(現在の南稚内)間を延伸開業し、小石駅、曲淵駅、沼川駅、樺岡駅、幕別駅、声問駅、稚内駅を新設、稚内まで全通した。宗谷線(天北線)開通。11月宗谷線を宗谷本線に改称。曲淵神社創建する。
1923(大正12)年、5月稚泊連絡船運行開始。三吉神社を北門神社境内に祭祀する。宮沢賢治が7月から8月にかけて、北海道を経由してサハリン(樺太)まで至る一人旅をする。沼川〜川西間道路開削。
1924(大正13)年、声問海水浴場開設する。北見線開通(現・宗谷本線)、天塩北線の稚内(初代)〜兜沼間が開業し、抜海駅、勇知駅、兜沼駅を新設する。稚斗連絡船運航開始。猿払村が宗谷村から分村し村制施行する。沓形村(利尻郡)が一級町村制施行する。
1925(大正14)年、トベンナイ(現・稚内市宝来)に簡易水道敷設する。稚内造船所建設する。稚内にタクシーが走る。坂の下に中丸牧場を開設する。7月秋田木材会社が稚内に発電所を設置する。10月秋田木材会社の声問発電所を閉鎖する。
1926(大正15・昭和元)年、7月稚内発電所を建設し、秋田木材は稚内から離れる。稚泊連絡船対馬丸ノシャップ沖で座礁。9月天塩線(音威子府〜幌延〜稚内間)全通し、当該区間を天塩線に改称する。
1928(昭和3)年、5月声問岬に浮標灯を設置する。6月宗谷旧藩士の墓を山上に移転する。北門神社境内の三吉神社社殿を新築する。10月稚内市街地にて大火が起き、681戸焼失する。12月稚内〜稚内港間を延伸開業。稚内港駅開駅(現・稚内駅)。
1930(昭和5)年、4月天塩線を宗谷本線に編入し、旭川〜幌延〜稚内港間が宗谷本線となる。音威子府〜浜頓別〜稚内間を分離し、北見線(後の天北線)に改称。11月稚内市街地にて大火が起き、216戸焼失する。
1931(昭和6)年、稚内町役場新築落成する。
1932(昭和7)年、国費にて声問川河口の築設工事に着手する。7月沼川〜幌延間の拓殖軌道敷設工事を着手し、翌年完成する。8月歌人斎藤茂吉が稚内に来て木谷旅館に投宿する。
1935(昭和10)年、9月興浜南線が開通する。11月声問貝塚・クサンル竪穴郡が北海道史蹟に指定される。12月文部省が宗谷護国寺を史蹟に指定する。
1936(昭和11)年、宗谷港築港工事に着手する。宗谷炭礦汽船会社が天北炭田発掘に着手する。7月興浜北線が開通する。
1937(昭和12)年、1月稚内測候所を設置。
1938(昭和13)年、日本石油会社が声問採油を操業。鉄道船入澗完成する。稚内測候所で天気予報を開始する。
1939(昭和14)年、2月稚内駅を南稚内駅に改称(同時に稚内港駅を稚内駅に改称)。樺岡〜沼川間の道路開削する。
1940(昭和15)年、勇知・声問での山火事は4日間燃える。宗谷炭礦開坑する。三井沢(稚内市大字声問村曲渕近郊)の地名誕生する。
1941(昭和16)年、9月宗谷村各部落名を改称する。稚内地区に陸軍が駐屯する。
1942(昭和17)年、10月北海道配電会社、声問火力発電所設置。
1943(昭和18)年、声問大沼に海軍航空隊水上機基地設置する。曲淵地域に火力発電により電気灯る。
1945(昭和20)年、8月樺太居留民引揚船稚内に入港。米軍稚内に進駐。稚泊連絡航路(ちはくれんらくこうろ)が運航停止となり、稚内桟橋駅も廃止となる。
1949(昭和24)年、4月稚内市制施行、稚内市となる。11月沓形村が町制施行する。
1950(昭和25)年、天興地区は稚内地区に編入となる。富磯に船入澗完成する。
1952(昭和27)年、10月宗谷バス会社設立する。声問港が第一種漁港に指定される。11月南稚内駅・稚内駅を移転する。
1955(昭和30)年、2月宗谷村を編入する。5月豊別赤松炭礦開坑する。10月宗谷支庁新庁舎を大黒町に新築する。
1956(昭和31)年、9月稚内空港建設工事着手。利尻郡鴛泊村と鬼脇村が合併し東利尻村となる。11月宗谷旧藩士の墓を山上より旧護国寺跡地に移転する。電報電話局新庁舎落成する。陸上自衛隊が稚内に駐屯する。
1957(昭和32)年、5月ソ連に抑留されていた漁夫51名が稚内港に帰る。8月稚内港が重要港湾に指定される。9月稚内測候所気象台に昇格。NHK稚内放送局が潮見町に移転する。
1958(昭和33)年、3月稚内市内の町名番地改正する。7月間宮林蔵渡樺出航の記念碑を建立する。8月間宮林蔵胸像を建立する。10月稚内市発祥の地碑を建立する。12月稚内病院竣工する。
1959(昭和34)年、2月曲淵稚内炭鉱閉山を宣言。5月稚内空港開港する。8月稚内港中央埠頭起工する。10月東京大学が宗谷村清浜のオンコロマナイ遺跡発掘調査行う。上声問部落に電気通る。
1960(昭和35)年、7月南極観測樺太犬記念碑建立。10月声問沖灯標設置する。
1961(昭和36)年、4月北見線を天北線に改称。7月宗谷岬に日本最北の地碑を建立する。10月樺太犬慰霊塔建立する。北大が泊内・富磯遺跡の発掘調査を行う。
1962(昭和37)年、1月増幌地区に通電する。曙地区に通電する。9月ノシャップ岬神社社殿新築し遷宮する。
1963(昭和38)年、7月幕別の字名を恵北に改称する。8月抜海先住民族遺跡を調査する。氷雪の門、九人の乙女の像建立。9月ソ連に抑留されていた漁夫104名が帰着する。
1964(昭和39)年、2月三井沢宗谷炭鉱閉山。5月利尻町で大火が起き、226戸焼失する。6月自衛隊稚内駐屯地総合庁舎新築落成する。12月稚内第三副港完成する。
1965(昭和40)年、9月稚内新駅舎完成。
1968(昭和43)年、7月宗谷岬の日本最北の地碑を建て直す。ノシャップ寒流水族館開館。
1971(昭和46)年、ノシャップ米軍基地閉鎖発表。
1973(昭和48)年、稚内空港定期便就航。
1974(昭和49)年、利尻礼文サロベツ国定自然公園が利尻礼文サロベツ国立公園となる。青少年科学館完成。
1975(昭和50)年、郷土資料館設置。
1978(昭和53)年、にしん資料館完成。稚内沖海底石油ボーリング開始。
1979(昭和54)年、船員保険保養所「宗谷パレス」完成。
1980(昭和55)年、日ソ友好会館完成。探検家間宮林蔵の立像建立。東洋一を誇る稚内港北防波堤ドーム全面改築工事完成。
1982(昭和57)年、宗谷岬展望台完成。
1983(昭和58)年、大韓航空機撃墜事件発生。宗谷黒牛の生産を開始する。
1984(昭和59)年、2月天北線全線の貨物営業を廃止。
1985(昭和60)年、大韓航空機事故の祈念碑「祈りの塔」完成。
1987(昭和62)年、稚内空港がジェット化。
1988(昭和63)年、世界平和の鐘、子育て平和の鐘が宗谷岬平和公園に設置。「動物ふれあいランド」が空港公園に完成。
1989(平成元)年、5月天北線廃止に伴い、代替輸送バス運行開始。そうや竜ふるさと歴史館完成。
1991(平成3)年、宗谷丘陵展望休憩施設「ゲストハウスアルメリア」完成。
1992(平成4)年、映画「南極物語」で主役の樺太犬を演じた、犬のタロが死亡。声問川大曲遺跡の発掘調査開始。
1994(平成6)年、大沼野鳥観察館完成。
1995(平成7)年、サハリン定期航路就航(稚内港〜コルサコフ(旧大泊)間)。
1998(平成10)年、風力発電施設稼動。「タロ・ジロ里帰り展」開催。
1999(平成11)年、サハリン定期航路再開。
2000(平成12)年、サハリン州考古学者ら15名、丸木舟で宗谷海峡横断。富士見地区の石油天然ガス基礎試錐「チカップ」本格的な掘削開始。
2004(平成16)年、宗谷丘陵の周氷河地形が北海道遺産に認定される。
2005(平成17)年、国内最大規模の風力発電「宗谷岬ウィンドファーム」(57基)が稼動開始。
2007(平成19)年、稚内メガソーラー実証実験施設の起工式挙行。稚内副港市場開業。ラ・ペールズ顕彰記念碑が建立される。
2008(平成20)年、国際・国内フェリーターミナル完成。
稚内市史、稚内市史第二巻参考

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