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安政火口

かみふらの十勝岳観光協会

上ホロカメットク山西側山腹にある大爆裂火口で、頂上直下は垂直に切り落ちる岩や壁の断崖となっている。
凌雲閣のそばにある登山口から徒歩約30分で火口に到着する。紅葉時期は絶景である。
登山口入り口には十勝岳産業開発道路記念歌碑がある。
安政火口分岐から途中までは印があるが、途中から道すら無くなるので注意して欲しい。
大雨でかなり流されており、崩れやすいところもある。噴煙が上がっている場所までは行けるがゴールがなく何処まで行って良いのか分からない。


2012年(平成24)年10月に安政火口まで上がってきました。


安政噴火
十勝岳の噴火が歴史に登場するのは1857(安政4)年のことである。
この年、松田市太郎なる人物が石狩川水源踏査の帰途に十勝岳に登頂したとの記録があり、この中で硫気活動についても触れている。
松浦武四郎は、1857(安政4)年6月2日「山半腹にして火脈燃立て黒烟刺上るを見る」と記している。
このときの火口が安政火口である、今は沈静化して噴煙もほとんど見られなく、温泉も出ていないそうだ。

1857(安政4)年、火脈燃立て黒烟刺上るを見る(松浦武四郎〜十勝日誌)
1887(明治20)年、常に黒烟を噴出、近傍に降灰する。
1947(昭和22)年、安政火口に硫気穴増加、噴気活発化する。
1961(昭和36)年、安政火口で弱い水蒸気爆発起こる。
1964(昭和39)年、白金温泉に気象庁火山観測所設置。その後安政火口は沈静化する。

松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日没
江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。
1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。
この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。
1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。


松田市太郎は、函館奉行所石狩在勤の足軽とされている。
松田岳(標高2136m )という山もあり、お鉢平カルデラの外輪山にあり、由来は、江戸時代に未開の地であった大雪山を踏破し、石狩川の水源を発見し「イシカリ水源見分書」を残した松田市太郎の功績により松田岳と命名された。
1857(安政4)年に、美瑛川上流から十勝岳に登頂し、硫黄を持ち帰ったことが『イシカリ川水源見分書』に記録されているそうだ。

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