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富良野市博物館

住所 富良野市山部東21線12 富良野市教育委員会生涯学習センター
TEL 0167-42-2407
開館時間 9時〜17時 
休館日 毎週月曜日、年末年始(12月31日〜翌1月5日)
料金は無料、駐車場も無料。

富良野市生涯学習センター

ふらの観光協会

富良野の由来は諸説があり、アイヌ語の「フラヌ」(赤色の溶岩や焼石が沢山あるところ)「フーラヌイ」(硫黄臭き火炎の土地)「フラヌイ」(臭き火焔)から転訛したものといわれ、いずれも市内を流れている富良野川の上流に硫黄山(十勝岳)があり、噴気と臭気に由来している。
富良野市は、北海道のほぼ中央に拡がる富良野盆地に位置し、夕張山地、大雪山連峰に囲まれた場所で、石狩川水系最長の支流、空知川が流れている。
南東部には、東京大学北海道演習林の広大な樹海が拡がっており、多種多様な動植物が生息していて、貴重な自然を今に残している。
富良野の気候は、四季の区別がはっきりしており、盆地のため寒暖の差が大きく、冬は-30度以下になる日もあれば、夏は30度以上になる事もある。
国道38号線沿いにあり、富良野市街地から約14km、山部市街地から約1.3kmほど。
この富良野にある生涯学習センターは、元々は富良野農業高校で、2001(平成13)年に閉校。
このため、校舎や体育館が生涯学習センターに生まれ変わったのである。


「富良野の自然・人・歴史」をテーマに、沢山の資料と地元に特化した内容で、興味を引く展示内容となっている。
元々市内にあった、郷土資料館も移転し、1階は富良野の自然や動植物、富良野の開拓のについて学べる。
2階は富良野の歴史と近年までの展示と分かれている。
展示品・収蔵品は、先史・開拓文化・考古資料・民俗資料が約15000点、鳥獣類はく製標本・鉱石博物類標本、約800点の一部を常設展示している。
展示スペースはかなり広く、2階には当時の写真や生活用品などが多数公開されていて、見ごたえがあります。
入ってすぐにある剥製がお出迎え、キツツキの生態や昆虫、花、そして富良野の地学に関しての資料などが並びます。


富良野市内の先史時代の遺跡の紹介、展示などがあり石器、矢じり、土器などが展示されている。
富良野市内では、現在までに127か所の遺跡・遺構が確認されており、最古の遺跡は約12,000年前の東麓郷1・2遺跡だそうだ。
無頭川遺跡や鳥沼遺跡は規模の大きな遺跡で、発掘調査の結果、竪穴住居址や墳墓などの遺構、土器・石器などが出土している。
無頭川遺跡では500基以上の墳墓が確認されているそうだ。
縄文以降の遺跡がかなり少ないそうで、アイヌ文化期の遺跡はほとんど見つかっていないそうだ。
無頭川遺跡、鳥沼遺跡は、現在公園として整備されている。


富良野盆地を初めて訪れた和人は、函館奉行所石狩在勤の足軽松田市太郎とされている。
1857(安政4)年、美瑛川上流から十勝岳に登頂し、硫黄を持ち帰ったことが『イシカリ川水源見分書』に記録されている。
1858(安政5)年、松浦武四郎が上富良野から山麓沿いに十勝越えをしたことが、『十勝日誌』に記されていて、富良野岳にも碑が残っている。
1897(明治30)年、福岡県出身の中村千幹が土地の貸下げを受けて筑後組合農場の管理人として扇山に入地。これが富良野の開拓のはじまりだそうだ。
1900(明治33)年、十勝線(現在の富良野線)の下富良野〜鹿越間が開通、木材などの運び出す開拓の原動力として活躍。
1903(明治36)年、現在の上富良野町から占冠村まで行政区域が及んでいた富良野村は、上富良野と下富良野の2村に分割され、同年9月1日、下富良野村戸長役場が市街地に設置された。


1945(昭和20)年7月15日には戦争の為、敵機来襲!3回に渡り襲撃され、1970年代まであった旧校舎には、機関銃の弾の跡が残っていた記憶がありますね。
1980(昭和55)年には校舎、体育館新築。
昭和30年代の復元家屋やレコード、ポスター電化製品などの展示。懐かしさも感じます。
自分の家でも使っていた物と同じ物が展示されていて、ビックリしました。
とっても広い館内に所狭しと並ぶ資料、時間を忘れてしまいます。
解説もとても詳しくありますので、富良野の良さを再発見した感じになれます。


建物内部から見た、芦別岳です。


1857(安政4)年、美瑛川上流から十勝岳に登頂し、硫黄を持ち帰ったことが「イシカリ川水源見分書」に記録されている。
1858(安政5)年、松浦武四郎が上富良野から山麓沿いに十勝越えをしたことが、「十勝日誌」に記されていて、富良野岳にも碑が残っている。
1877(明治10)年、北海道農学校教授、佐藤昌介一行6人が空知川を遡り、清水山に達し富良野原野を展望。
1883(明治16)年、北海道庁設置。内田瀞が富良野地方に四植民地を選定。(上フラヌ・中フラヌ・下フラヌ・ケナチヤウシ)
1896(明治29)年、6月中村千幹他3名、空知川を遡り扇山に達し、一度そこで引き返す。
1897(明治30)年、5月福岡県出身の中村千幹が土地の貸下げを受けて筑後組合農場の管理人として扇山に入地。これが富良野の開拓のはじまり。
1898(明治31)年、札幌農学校第八農場が下富良野に看守所を置き、小作人の募集をする。12月旭川から下富良野の仮説道路が開通。
1899(明治32)年、東京帝国大学農科大学北海道演習林、道庁より土地の公布を受ける。5月富良野村を空知支庁管内から上川支庁管内に編入し、戸長役場を上富良野に置く。6月藻上貞次が水稲作付けする。9月兜谷徳平が下富良野に官設駅逓を設置する。北海道官設鉄道十勝線(現・根室本線)として旭川〜美瑛間が開業、辺別駅・美瑛駅を新設。11月美瑛〜上富良野間が延伸開業、上富良野駅を新設。
1900(明治33)年、8月上富良野〜下富良野間が延伸開業、下富良野駅を新設。12月下富良野〜鹿越間が延伸開業、山部信号停車場・金山駅・鹿越駅を新設。
1902(明治35)年、下富良野神社創祀。
1903(明治36)年、現在の上富良野町から占冠村まで行政区域が及んでいた富良野村は、上富良野と下富良野の2村に分割、富良野村を上富良野村に改称。同年9月下富良野村戸長役場が市街地に設置された。
1906(明治39)年、占冠村を合わせ下富良野村外1ヶ村組合戸長役場設置。
1907(明治40)年、島ノ下温泉発見される。
1908(明治41)年、渡部俊雄が下富良野市街に医院開業。
1909(明治42)年、富良野成墾記念碑建立する。
1910(明治43)年、官設西達布渡船場が設営。西達布川本流の開拓に着手、22戸が入植する。
1911(明治44)年、下富良野官設駅逓廃止。
1913(大正2)年、山部に東大演習林庁舎落成する。10月下金山駅を新設。11月滝川〜下富良野間が開業する。幌倉・上赤平・平岸・下芦別・野花南・奔茂尻・島ノ下の各駅を新設し、滝川〜釧路間を釧路本線と改称し、下富良野〜旭川間を分離し富良野線とする。
1915(大正4)年、山部村を分村し、二級町村制を施行。
1917(大正6)年、4月上富良野村より中富良野村が分村。
1919(大正8)年、下富良野村に町制を施行し、富良野町となる。
1920(大正9)年、東大演習林内、下金山〜すみれ地区まで森林軌道の建設着手。
1921(大正10)年、4月下富良野町に一級町村制施行。
1924(大正13)年、8月西達布開墾記念碑(現・東山神社境内)を建立。
1926(昭和元)年、十勝岳爆発する。
1931(昭和6)年、2月北の峰スキー場開設。
1934(昭和9)年、朝日が丘公園を設置。
1936(昭和11)年、鳥沼公園を設置。
1938(昭和13)年、山部に石綿工場3社創立、翌年より生産開始する。
1940(昭和15)年、4月山部村を割き、「東山村」を置く。
1942(昭和17)年、4月下富良野駅を富良野駅に改称する。
1945(昭和20)年、富良野市街地、3回に渡り米軍機の空襲を受ける。
1950(昭和25)年、東大演習林老節布地区543町歩開放される。
1951(昭和26)年、東大演習林763町歩開放される。
1955(昭和30)年、富良野芦別道立自然公園設立。
1956(昭和31)年、東山村、富良野町と合併する。
1962(昭和37)年、12月北の峰スキー場に第一リフト完成。
1964(昭和39)年、10月東山遺跡発掘調査行われる。
1966(昭和41)年、4月山部村と富良野町合併し、富良野市となる。
1967(昭和42)年、金山ダム竣工式挙行。富良野市農業高校開校。
1969(昭和44)年、鳥沼遺跡の発掘調査開始。
1972(昭和47)年、12月朝日が丘ジャンプ台(70m級)完成。東郷ダム建設着手(2013年現在、完成せず)。
1974(昭和49)年、12月富良野プリンスホテル本館開業。
1975(昭和50)年、3月第三十回冬季国体と全日本スキー選手権を行う。
1976(昭和51)年、10月スキー場名が「北の峰スキー場」から「富良野スキー場」に変更された。
1977(昭和52)年、2月FISワールドカップアルペンスキー富良野大会を行う。富良野ワイン工場落成。11月富良野玉葱発祥之地碑建立する。
1979(昭和54)年、3月FISワールドカップアルペンスキー富良野大会を行う。7月中心標公園完成する。
1980(昭和55)年、TVドラマ「北の国から」撮影開始。
1981(昭和56)年、3月FISワールドカップアルペンスキー富良野大会を行う。10月TVドラマ「北の国から」放映される。
1982(昭和57)年、8月ふらのワインが世界コンクールで金賞受賞。
1983(昭和58)年、3月FISワールドカップアルペンスキー富良野大会を行う。「樹海」(東大演習林)が、日本の自然百選に選定される。12月富良野チーズ工場操業。
1984(昭和59)年、麓郷の森完成する。
1985(昭和60)年、2月FISワールドカップアルペンスキー富良野大会を行う。
1986(昭和61)年、3月FISワールドカップアルペンスキー富良野大会を行う。
1987(昭和62)年、3月FISワールドカップアルペンスキー富良野大会を行う。4月国鉄分割民営化に伴い北海道旅客鉄道(JR北海道)が承継。
1988(昭和63)年、12月新富良野プリンスホテルの開業。
1989(平成元)年、3月FISワールドカップアルペンスキー富良野大会を行う。
1991(平成3)年、2月FISワールドカップアルペンスキー富良野大会を行う。5月無頭川遺跡発掘調査で縄文時代中期の竪穴住居跡を発見する。
富良野市史第三巻、東山開拓80周年記念誌参考

松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日没
江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。
1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。
この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。
1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。

松田市太郎は、函館奉行所石狩在勤の足軽とされている。
松田岳(標高2136m )という山もあり、お鉢平カルデラの外輪山にあり、由来は、江戸時代に未開の地であった大雪山を踏破し、石狩川の水源を発見し「イシカリ水源見分書」を残した松田市太郎の功績により松田岳と命名された。
1857(安政4)年に、美瑛川上流から十勝岳に登頂し、硫黄を持ち帰ったことが『イシカリ川水源見分書』に記録されているそうだ。

中村千幹(なかむらちから)とは、1867(慶応2)年 - 1916(大正5年)年、北海道開拓者、富良野開拓の父と呼ばれている。
福岡県三井郡漆山(現・不明)の農家の三男として生まれ、慶應義塾で劇的な出会いをする。
福沢諭吉との出会い、それが彼の人生を一変させて、北海道開拓の志を立て始める。
1300余町歩(194万9916坪)の土地を貸下げられ、1896(明治29)年空知郡長沼町に一旦落ち着く。
1896(明治29)年秋、富良野に辿り着き仮小屋を建て一旦引き返す。
1897(明治30)年、5月8日前年に建てた仮小屋に辿り着き、開拓が始まった。
1899(明治32)年、滝川 - 釧路間を結ぶ十勝線の鉄道工事が始まると移民が加速して、市街も作られるようになった。扇山を中心に幹線道路建設計画を練り、国道38号線の基盤を作る。
1916(大正5)年、4月直腸がんが悪化し、札幌北辰病院に入院、享年48。

内田瀞(うちだきよし)とは、1859(安政6)年 - 1933(昭和8)年、道庁五等技師、殖民地選定主任。北海道開拓の基礎資料を作り開拓に大きく貢献した。
高知県生まれ、札幌農学校第一期生として入学する。
卒業後、開拓使に奉職し、札幌・根室間の所謂中央道路の開鑿の計画に際し、日高、十勝、北見、釧路、根室を踏破し、人跡未踏の地に殖民の適地を調査した。
その後北海道庁の殖民事業を担当し、殖民地の選定、区画整理を定め全道に亘る選定報文を発表した。
1932(大正7)年、北海道拓殖博覧会、東京市で開催された拓殖博覧会で表彰された。

根室本線とは、滝川市滝川駅から帯広市・釧路市を経て根室市根室駅を結ぶ北海道旅客鉄道(JR北海道)の鉄道路線である。
釧路駅から根室駅までの区間には「花咲線」の愛称が付けられている。
1899(明治32)年、9月北海道官設鉄道十勝線として旭川〜美瑛間が開業、辺別駅・美瑛駅を新設。11月美瑛〜上富良野間が延伸開業、上富良野駅を新設。
1900(明治33)年、8月上富良野〜下富良野間が延伸開業、下富良野駅を新設。12月下富良野〜鹿越間が延伸開業、山部信号停車場・金山駅・鹿越駅を新設。
1901(明治34)年、9月鹿越〜落合間が延伸開業、落合駅を新設。4月山部信号停車場を駅に変更する。
1902(明治35)年、12月幾寅駅を新設。
1905(明治38)年、4月官設鉄道に移管する。
1901(明治34)年、7月北海道官設鉄道釧路線釧路(後の浜釧路)〜白糠間が開業、白糠・庶路・大楽毛・釧路駅を新設。
1903(明治36)年、3月白糠〜音別間が延伸開業、音別駅を新設。12月音別〜浦幌間が延伸開業、浦幌駅・厚内駅を新設。
1904(明治37)年、8月浦幌〜豊頃間が延伸開業、豊頃駅を新設。12月豊頃〜利別間が延伸開業、利別・池田駅を新設。
1905(明治38)年、12月利別〜帯広間が延伸開業、帯広駅・止若駅を新設。
1907(明治40)年、9月落合〜帯広間が延伸開業により旭川 - 釧路間が全通する。狩勝給水給炭所・新内・新得・清水・佐念頃・芽室・伏古の各駅を新設。
1909(明治42)年、10月旭川〜釧路間が釧路線となる。
1913(大正2)年、10月下金山駅を新設。11月滝川〜下富良野間が開業する。幌倉・上赤平・平岸・下芦別・野花南・奔茂尻・島ノ下の各駅を新設し、滝川〜釧路間を釧路本線と改称し、下富良野〜旭川間を分離し富良野線とする。
1917(大正6)年、12月釧路〜厚岸を延伸開業。上別保・上尾幌・尾幌・門静・厚岸・浜厚岸の各駅を新設。釧路駅が現在の位置に移転。
1919(大正8)年、11月厚岸〜厚床間を延伸開業、糸魚沢・茶内・浜中・姉別・厚床駅を新設。
1920(大正9)年、11月厚床〜西和田間を延伸開業、初田牛・別当賀・落石・西和田の各駅を新設。
1921(大正10)年、8月西和田〜根室間延伸開業により全通する。花咲駅・根室駅を新設、滝川〜根室を根室本線と改称する。
1927(昭和2)年、12月26日布部駅を新設。
1942(昭和17)年、4月下富良野駅を富良野駅に改称する。
1943(昭和18)年、6月上赤平駅を赤平駅に改称する。
1946(昭和21)年、5月下芦別駅を芦別駅に、奔茂尻駅を滝里駅に改称する。
1952(昭和27)年、11月上別保駅を別保駅に改称する。
1954(昭和29)年、11月幌倉駅を東滝川駅に、伏古駅を西帯広駅に改称する。
1963(昭和38)年、11月止若駅を幕別駅に改称する。
1966(昭和41)年、3月釧路機関区にDD51形を配置。9月鹿越駅を信号場に(金山ダム建設にともなう線路付替)変更。9月落合〜新得間の新線を開業。10月落合〜新得間の旧線を廃止、新内駅・狩勝信号場廃止。
1969(昭和44)年、4月富良野〜釧路間ディーゼル機関車が走る。
1987(昭和62)年、4月国鉄分割民営化に伴い北海道旅客鉄道(JR北海道)が承継。
1991(平成3)年、7月花咲線全線ワンマン運転開始。10月野花南〜島ノ下間、滝里ダム建設にともなう線路付替を行う。滝里駅廃止となる。
1993(平成5)年、3月滝川〜釧路間で全普通列車ワンマン運転開始。

北の国からとは、1981(昭和56)年にフジテレビで放送が開始され、2002(平成14)年まで放送されたテレビドラマ。
東京から故郷の北海道に帰郷し、大自然の中で暮らす一家の姿を描いたもので、脚本は倉本聰。主題歌の作曲・スキャットは、さだまさし。
このおかげで、富良野は北海道の一大観光名所となり、今では北の国から資料館が富良野駅の近くにある。

国道38号線とは、滝川市から釧路市へ至る一般国道で、総距離は298.4km。

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