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富良野平原開拓発祥之地

住所 上富良野町西2線北

かみふらの十勝岳観光協会

上富良野町の由来は、富良野川の上流にあたる事から。
富良野の由来は諸説があり、アイヌ語の「フラヌ」(赤色の溶岩や焼石が沢山あるところ)「フーラヌイ」(硫黄臭き火炎の土地)「フラヌイ」(臭き火焔)から転訛したものといわれ、いずれも市内を流れている富良野川の上流に硫黄山(十勝岳)があり、噴気と臭気に由来している。
国道237号線草分の交差点を上富良野方面に道道291号吹上上富良野線を約40mほどで側道を左に約200m進む、踏切を渡り右に農道を60mほど。
畑の中に「富良野平原開拓発祥之地」と書かれた塔状の看板が目に入る。
周囲は一面の田んぼ、以前は発祥碑の隣に説明板と「憩の楡」と刻まれた小型の石碑が建っているだけだったが、現在は囲いができ、看板も一新されている。
1897(明治30)年、三重県人、田中常次郎の率いる8名が、開拓のため富良野の原野に入ったのが始まり。
樹木が少ないススキの原野で, 一本のニレの木があり 一行はここで野宿し、後に富良野原野の開拓の手掛かりを作った。
これを記念し、ニレの木は「憩の楡」と呼ばれるようになったが、1955(昭和30)年ごろに台風で倒れて今は碑があるだけ。
近くには上富良野町開拓記念館があり、上富良野村長を勤めた吉田貞次郎、上富良野町開拓の祖といわれる田中常次郎、十勝岳大噴火に関する資料などを中心に展示している。
建物は、1926(大正15)年の十勝岳噴火災害からの復興を成功させた当時の村長、吉田貞次郎氏の住宅を移築復元したものがある。


現在の碑


1853(嘉永6)年、藤田良、蝦夷闔境輿地全図にトカチ山(十勝岳)を記入。
1857(安政4)年、4月箱舘奉行所足軽松田市太郎が、「イシカリ川水源見分書」で、チュクベツ川筋より石狩水源を見分したる折、焼山なる処より硫黄を少々持ち帰る。5月松浦武四郎空知川をさかのぼって野花南付近に達するが空知大滝で断念し一度戻る。
1858(安政5)年、3月10日松浦武四郎が十勝越えの経験のあるアイヌシリコツネを案内人とし、アイヌ人夫を含む総勢十五人でフウラヌイ(上富良野)に来て、ビエベツ(上川郡美瑛町春日台間宮岳付近)の高地で、「硫黄の燃る烟実に目覚しく天にさし上がりたり。」と十勝岳の噴煙を眺める。その夜レリケウシナイで(旭日川)の川端に着くと「これより先は飲用できる水がない」というので、野宿する。
3月11日松浦武四郎が、(現・自衛隊演習場内)ベベルイ川を渡り更に支流のサッテキベベルイ(カラ川)を上り、カラ川の水源の辺りで野宿する。
3月12日富良野岳と前富良野岳の鞍部であるルウチシ(路を越える)を越し、ヌモツベイトコ(現富良野市原始ケ原二の沢川・布部川水源)を経て、シーソラプチ川(空知川源流)上流、二股に宿泊する。
1887(明治20)年、道庁技師柳本通義、フラヌ原野の殖民地選定事業を行う。
1895(明治28)年、測量の役人に請ひ萱原を貰い受けて、現在の中富良野西1線北19号あたりに、伊藤喜太郎が単独入殖する。
1896(明治29)年、5月殖民地区画を設定する。9月三重県からフラヌ原野(現・上富良野)に、田中常次郎、川邊三蔵、島義空ほか数名が下見にくる。
1897(明治30)年、4月三重団体田中常次郎、田村栄次郎、久野伝兵衛、高田治郎吉、川田七五郎、吉澤源七、川辺三蔵、服部代次郎の一行8名が単身で上富良野の西3線北29号175番地に入地する。
1897(明治30)年、7月歌志内村、富良野村を創立。歌志内村外1箇村戸長役場を歌志内に置く。12月歌志内〜(下)富良野間の仮設道路が開通する。
1898(明治31)年、1月高田派専修寺説教場(現・専誠寺)創立。9月真宗大谷派説教場設立認可(現・中富良野町法栄寺)。旭川〜下富良野間に仮設道路開通。
1899(明治32)年3月島津農場創業する。東中富良野簡易教育所を開く(現・東中小学校)。6月上川支庁管内所轄富良野村戸長役場を上富良野に開庁。(東1線北25号−現本町1丁目1番付近)
1899(明治32)年、9月1日北海道官設鉄道、旭川 - 美瑛間開通し辺別、美瑛駅新設。11月15日美瑛 - 上富良野間延伸開業し、上富良野駅新設。
1900(明治33)年、6月真宗大谷派上富良野仮説教場(現・明憲寺)創設。8月1日上富良野 - 下富良野間延伸開業し、中富良野、下富良野駅新設。
1900(明治33)年、9月東中富良野簡易教育所(現・東中小学校)を東9線北17号に校舎建築し、授業を開始。
1902(明治35)年、3月富良野神社(現・上富良野神社)創祀。5月真宗本願寺派西本願寺仮説教所(現・聞信寺)創設。7月上富良野尋常小学校開校。吹上温泉発見される。
1903(明治36)年、7月石狩国空知郡富良野村の南方を下富良野村とし、富良野村を上富良野村と改称する。人口、上富良野村3160人(520戸)・下富良野村1357人(300戸)
1905(明治38)年、7月3日 上富良野尋常小学校を上富良野尋常高等小学校に改編。
1906(明治39)年、4月戸長役場を廃止し、2級町村制を施行。上富良野村農会設立。中川三郎が、中川吹上温泉を経営する。
1907(明治40)年、6月真宗大谷派上富良野説教所が「真宗大谷派光暁山 明憲寺」となる。
1909(明治42)年、10月12日釧路線(旭川 - 釧路)とする。
1911(明治44)年、11月上富良野郵便局で、電信電話の取扱いを始める。
1916(大正5)年、8月三重団体組織代表「田中常次郎頌功碑」を建立。(専誠寺境内)
1917(大正6)年、4月上富良野村を分割、中富良野村をおき、二級町村制を施行。
1918(大正7)年、平山硫黄砿業所事業に着手。
1919(大正8)年、4月下富良野村を富良野町となる。上富良野村一級町村施行、人口10691人(戸数1924戸)。村役場庁舎を建設(現・本町1丁目1番)。飛沢清治が、私財を投じて吹上温泉までの道路を建設に着手。
1920(大正9)年、3月上富良野郵便局で電話交換業務を開始する。東洋製繊株式会社、日本麻糸株式会社亜麻工場を設立。
1922(大正11)年、11月中川三郎・吹上温泉施設を飛沢清治に譲渡。
1923(大正12)年、戸長役場を全廃し、町村制を施行。大日本麦酒株式会社(現・サッポロビール株式会社)直営ホップ園(上富良野村富原地区)でホップの試作栽培始まる。
1924(大正13)年、7月長谷川零餘子の句碑(現・吹上温泉保養センター白銀荘敷地内)建立。11月10日下富良野 - 旭川間を富良野線と改称する。
1926(大正15)年、5月24日十勝岳大爆発により大規模な泥流が発生し、上富良野・美瑛・中富良野各村に甚大な被害を与え、死者・行方不明144人、被災戸数482戸、田畑全滅1187町歩。9月10日美馬牛駅新設。
1927(昭和元)年、2月飛沢清治の経営する吹上温泉宿が硫黄山駅逓開設(吹上温泉)となる。5月十勝岳爆発遭難記念碑建立。7月俳人 石田雨圃子の句碑、十勝岳山麓中茶屋付近に建立する。
1928(昭和3)年、4月上富良野〜東中間に幌形客用車を運転開始。
1929(昭和4)年、7月九条武子の歌碑、十勝岳中腹泥流跡に建立。東中市街地区に電灯がつく。
1932(昭和7)年、吹上温泉株式会社創立。代表者山本一郎(終戦まで建物は軍用施設に転用される)
1933(昭和8)年、1月十勝岳山麓に「白銀荘」新築。
1934(昭和9)年、1月十勝岳山麓に「勝岳荘」新築。沼崎農場開放記念式挙行。
1935(昭和10)年、大印自動車会社が富良野沿線バス開業。上富良野駅前〜東中〜鳥沼〜富良野駅前、上富良野〜中富良野〜富良野間を運行。
1942(昭和17)年、8月十勝岳山頂に「光顔巍々」石碑建立。
1945(昭和20)年、7月15日富良野上空に米軍機が飛来し、空襲を受ける。
1955(昭和30)年、2月ラベンダー耕作組合創立。9月陸上自衛隊、上富良野町に移駐(第二特科連隊・第二特車大隊他)する。
1957(昭和32)年、12月国鉄富良野線にディーゼル気動車の運行始まる。
1958(昭和33)年、9月上富良野町立国民健康保険直営病院開院。
1961(昭和36)年、4月デージー食品工業株式会社上富良野工場が創業開始。7月十勝岳温泉旅館建設に着手。8月合同缶詰株式会社上富良野工場設立操業。
1962(昭和37)年、1月上富良野駐屯地に第二対戦車隊が新編となる。6月29日十勝岳が噴火し、噴煙が高さ1万m以上に達し、62火口ができる(死者4人、行方不明1人、負傷者12人)。8月十勝岳温泉株式会社設立。會田久左エ門が代表となる。
1964(昭和39)年、3月江幌中学校が閉校し、上富良野中学校に統合。5月深山峠に展望台が完成し、開園式を挙行。
1965(昭和40)年、5月「かみふらの十勝岳観光協会」発足。10月町営国民宿舎「カミホロ荘」営業を始める。
1966(昭和41)年、3月日新中学校閉校し、上富良野中学校に統合。7月26日日新ダム工事着工、起工式を行う。
1967(昭和42)年、3月上富良野町十勝岳山岳救助警備隊設立。3月31日江花小学校・創成小学校閉校。4月上富良野西小学校開校。6月役場庁舎新築落成。
1968(昭和43)年、4月上富良野農業協同組合と東中農業協同組合が合併「上富良野町農業協同組合」となる。
1972(昭和47)年、10月市街地区上水道工事が完工。
1973(昭和48)年、1月1日から給水開始。
1974(昭和49)年、島津公園着工。
1976(昭和51)年、1月三浦綾子著小説「泥流地帯」北海道新聞日曜版に連載始まる。
1977(昭和52)年、7月日の出公園設置。開基80周年記念事業「上富良野町郷土館」新築落成。
1978(昭和53)年、9月第1回北海ホップまつり開催(後にラベンダーまつりとなる)。8月白銀荘(勝岳荘と合築)改築完成。
19798昭和54)年、3月日新小学校閉校し、上富良野西小学校に統合。12月上富良野町立病院改築落成、旧病院より移転。
1980(昭和55)年、9月十勝岳連峰カミホロカメットク山付近に避難小屋完成。10月島津公園が完成。12月上富良野町郷土をさぐる会設立。
1984(昭和59)年、3月町営国民宿舎「カミホロ荘」民間に委託する。第三セクター株式会社十勝岳観光開発公社が設立。5月十勝岳爆発災害復興60周年記念 三浦綾子著小説「泥流地帯」文学碑建立。
1985(昭和60)年、8月社団法人かみふらの十勝岳観光協会を新設。
1987(昭和62)年、4月国鉄が民営化され、JR北海道となる。駅名が「JR北海道上富良野駅」に改称。
1988(昭和63)年、3月食肉センター施設を民間に売却。空知ミート鰍フ経営となる。9月国道237号線上富良野バイパス開通。12月16日十勝岳が噴火。12月24日十勝岳再噴火で避難命令が発令される。
1990(平成2)年、12月日本画家、後藤純男画伯 上富良野町東4線北24号にアトリエを新築落成。
1991(平成3)年、8月吹上温泉地区に、吹上憩いの広場・吹上露天の湯を整備。スガノ農機株式会社「土の館」が完成。
1992(平成4)年、7月「富良野ホップス・トーアスホテル」がオープン。
1993(平成5)年、10月千望峠「花と憩いの広場」完成。
1994(平成6)年、6月深山峠地区に「トリック・アート、ラ・ギルランダ美術館」完成オープン。12月十勝岳温泉凌雲閣が新装オープンする。
1997(平成9)年、1月吹上温泉保養センター開業。7月深山峠にハンガリー仕込みの「上ふらのびいる館」がオープン。上富良野町開基100年記念式典を挙行。

蝦夷闔境輿地全圖とは、藤田惇斎によって1854(安政元)年に刊行された。
縦120cmの木版多色刷りの大図で、現在の北海道・千島列島・サハリン地方を中心に幕末期の蝦夷一帯が描かれている。
地名が書かれ、北海道では陸路・海路も記入されているが、あまり正確なものではないそうだ。

松田市太郎とは、函館奉行所石狩在勤の足軽。
1857(安政4)年に、美瑛川上流から十勝岳に登頂し、硫黄を持ち帰ったことが『イシカリ川水源見分書』に記録されている。

松田岳(標高2136m )という山もあり、お鉢平カルデラの外輪山にあり、由来は、江戸時代に未開の地であった大雪山を踏破し、石狩川の水源を発見し「イシカリ水源見分書」を残した松田市太郎の功績により松田岳と命名された。

松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日没
江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。
1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。
この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。
1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。

田中常次郎とは、1858(安政5)年 - 1915(大正4)年4月20日、上富良野開拓功労者、村会議員。
1858(安政5)年、三重県安濃郡安東村字納所(現・三重県津市安濃町)で生まれた。
1894(明治27)年、北海道移住を思い立つ、36歳の時であった。
1897(明治30)年、三重県人で田中常次郎の率いる8名が、開拓のため富良野の原野に入る。
樹木が少ないススキの原野で、 一本のニレの木があり一行はここで野宿し、後に富良野原野の開拓の手掛かりを作った。
よく三重団体をまとめた常次郎はその後村会議員・在郷軍人分会理事・上富良野信用購買販売組合理事・富良野川潅漑溝組合副理事長など公職をこなした。
1909(明治42)年、一切の公職を退いて「身を閑散に委し優遊自適」し、「観世流の謡曲を唯一の楽と為」という。
1915(大正4)年、4月20日に死去した。(享年58歳)

吉田貞次郎とは、1885(明治18)年 - 1948(昭和23)年、上富良野開拓功労者、村会議員、村長、衆議院議員。
1885(明治18)年、に河芸郡一身田村大字一身田字西之町(現・一身田町)に生まれる。
1900(明治33)年、両親とともに上富良野村三重団体に入り移住する。開拓と農業に従事するなか、勉学も励んだといわれている。
1910(明治43)年、上富良野村村会議員になる。
1919(大正8)年、村長に選任され4期16年間村政の執行に尽力。
1926(大正15)年、5月24日に十勝岳が大音響とともに大爆発、村は泥流に埋められ、144人の尊い命と850ヘクタール以上の田畑が壊滅的な被害を受ける。
1942(昭和17)年、衆議院議員となる。
1948(昭和23)年、63才で亡くなるまで、地域に尽くした。

国道237号線とは、旭川市から浦河郡浦河町に至る一般国道で、総距離は259.6km。

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