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層雲峡温泉

住所 上川郡上川町層雲峡

層雲峡観光協会

上川町

上川町の由来は、アイヌ語の「ペニ・ウングル・コタン」(川上の人々の集落)を意訳したもので、1921(大正10)年に愛別村から分村する際、石狩川の上流であることから名付けた。
層雲峡の由来は、アイヌ語で「ソウウンベツ」(滝の多い川)と呼ばれていた。これにちなんで大町桂月が1921(大正10)年に層雲峡と命名。
上川町にある峡谷で、石狩川を挟み約24kmの断崖絶壁が続く。
大雪山国立公園に位置し、大雪山黒岳山麓にある層雲峡温泉は、北海道有数の温泉街で、国道39号線沿いにある。

この断崖は、約3万年前の大雪山の噴火により堆積した溶結凝灰岩が石狩川によって浸食されたことにより形成されたもので、高さ200m前後の柱状節理の断崖を間近に見ることができる。
17軒のホテル・旅館・民宿・ペンション・ユースホステル、1軒の共同浴場があり、日帰り入浴も出来る。
ちなみに、毎年冬には層雲峡氷瀑まつりが開催され、多くの観光客で賑わっている。とても寒いので、それなりの覚悟とそれなりの服装でないと耐えられません。
泉質は、単純泉、硫黄泉、ナトリウム−炭酸水素塩泉などホテルによって源泉が違う。


中央プロムナード
以前の市街地は、1957(昭和32)年の集団施設地区指定時に、周辺に散在していた施設を集約して形成されたもの。
ほんどの施設が老朽化し、廃業した廃屋的施設が旅館の倉庫に使われ、駐車場不足・急峻な市街地内道路、全国で最も古い老朽化したビジターセンターなど、公共施設の問題もあり、層雲峡温泉街は、1998(平成10)年、リニューアルして中央プロムナードを整備している。


1998(平成10)年、日帰り入浴施設公共温泉 黒岳の湯オープン。
営業時間 10時〜21時30分(受付21時まで)
定休日11月から4月まで毎週水曜日(12月30日〜1月5日、氷瀑まつり期間中は休まず営業)
入湯料 大人600円(満12歳以上)  子供300円(満6歳以上)  幼児無料(満6歳未満)
泉質 単純温泉(低張性弱アルカリ性高温泉)
効能 神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・うちみ・ねんざ・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進等


1854(安政4)年、松田市太郎「イシカリ水源見分書」にて水源調査多数の温泉確認「大川端に温泉数ヶ所有之」と書く。同年、箱館奉行所雇松浦武四郎も水源調査に行き「石狩日記」地図に温泉地残しており、途中武四郎は市太郎に直接会って探検のいきさつなどを聞き、途中で引き返したようだ。
1872(明治5)年、開拓使々掌高畑利宜が石狩川上流探査し、温泉地を見出し「将来ハ温泉場トシテ何人カ之ガ設置スベキナラン」と書き、景観命名第一号「天婦瀧函川」、このとき地図も作成している。
1874(明治7)年、7月米地質学者ライマンが開拓使の命によってアイヌらと石狩川水源に至る、ライマン同行者の秋山美丸が数箇所の温泉を発見し、秋山温泉と名付けた。
1876(明治9)年、開拓使大判官松本十郎は石狩川水源と十勝国を踏破する。6月に秋山温泉付近で数ヶ所の温泉を見出す。
1900(明治33)年、3月塩谷水次郎が温泉を発見して塩谷温泉と名づけられ、当時の湧きだし口は「桂の湯」と呼んでいた。
1913(大正2)年、地獄谷に板橋がかかる。7月国沢喜右衛門がムカ川から石狩国境を越え温泉を発見し、国沢温泉と名づけられ数軒の温泉宿が営業した。
1915(大正4)年、塩谷親子湯小屋を建てる(三間×四間十二坪)、しかし未開の地であり経営は困難だった。
1920(大正9)年、上川町日東から双雲別までの殖民道路開削
1921(大正10)年、8月大町桂月が渓谷一帯に「層雲峡」の字をあて名付け親となる。当時は双雲渓だった。塩谷温泉〜黒岳〜白雲岳〜旭岳〜松山温泉(天人峡)と縦走し、このとき無名山だった山にも桂月岳と付けられた。
1922(大正11)年、大雨により塩谷温泉が壊滅的被害を受ける。荒井組創立者荒井初一がその経営権利を譲り受ける。
1923(大正12)年、層雲閣に層雲峡駅逓所認可。蓬莱閣から層雲閣へ改称する。
1924(大正13)年、層雲峡温泉までの道開削。
1927(昭和2)年、層雲閣までの自動車道が完成した。
1931(昭和6)年、流星、銀河の滝までの自動車道造成。
1934(昭和9)年、大雪山国立公園に指定される。
1945(昭和20)年、大函トンネル完工する。
1957(昭和32)年、大雪国道開通(国道39号上川〜留辺蘂間)
1962(昭和37)年、第1回層雲峡峡谷まつり開催。
1967(昭和42)年、層雲峡ロープウェイ開通する。
1970(昭和45)年、黒岳リフト工事竣工(5合目〜7合目)。
1976(昭和51)年、第1回氷瀑まつり開催。
1987(昭和62)年、6月9日早朝、天城岩の一部が崩落を起こし、石狩川を埋め尽くし国道39号線を走っていたトラック2台、サイクリングの集団を直撃し、岩盤の直撃を受けた3名が死亡、重軽傷者が6名という大惨事になった。
1995(平成7)年、銀河トンネル完成する。
1998(平成10)年、黒岳の湯オープン。
2000(平成12)年、層雲峡ビジターセンターオープン。
2003(平成15)年、黒岳石室バイオトイレ完成する。

大雪山国立公園とは、北海道中央部にある日本最大の国立公園で、1934(昭和9)年12月4日指定された。
旭岳、北鎮岳、白雲岳、黒岳などの大雪山系や、十勝岳、トムラウシ山、石狩岳など2000m級の山々が連なる山岳公園。
総面積は22万haにおよび、南北63km、東西59kmと日本一の面積を誇る国立公園である。
1977(昭和52)年、3月15日特別天然記念物の指定を受けた。

松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日没
江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。
1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。
この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。
1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。

松田市太郎は、函館奉行所石狩在勤の足軽とされている。
松田岳(標高2136m )という山もあり、お鉢平カルデラの外輪山にあり、由来は、江戸時代に未開の地であった大雪山を踏破し、石狩川の水源を発見し「イシカリ水源見分書」を残した松田市太郎の功績により松田岳と命名された。
1857(安政4)年に、美瑛川上流から十勝岳に登頂し、硫黄を持ち帰ったことが『イシカリ川水源見分書』に記録されているそうだ。

大町桂月(おおまちけいげつ)とは、1869(明治2)年3月6日(1月24日)- 1925(大正14)年6月10日、詩人、歌人、随筆家、評論家である。
1869(明治2)年、高知市北門筋(現・高知県高知市永国寺町4-10)に元土佐藩士の息子として生まれる。
1896(明治29)年、東京帝国大学国文科卒業。
1899(明治32)年、島根県で中学教師となる。
1900(明治33)年、博文館に入社し、1906(明治39)年まで在籍する。
終生酒と旅を愛し酒仙と称され、晩年は遠く朝鮮、旧満州(現・中国東北部)まで足を延ばしている。
北海道の層雲峡や羽衣の滝の名付け親でもあり、道内各地を旅行し紀行文で紹介した。ちなみに大雪山系黒岳の近くには、彼の名にちなんだ桂月岳という山がある。
1925(大正14)年、4月に蔦温泉に移り住むが、胃潰瘍のため死去、57歳。

ベンジャミン・スミス・ライマンとは、1835(天保6)年12月11日 - 1920(大正9)年8月30日。アメリカ合衆国の鉱山学者で、日本にお雇い外国人として招かれた一人で、日本名は来曼。
マサチューセッツ州ノーサンプトン (Northampton) で生まれる。
ハーバード大学を修了後、ドイツのフライベルク鉱山学校(現・フライベルク工科大学で鉱山学を学んだ。
世界各地の石油調査を終えたのち、1872(明治5)年、北海道開拓使の招待で来日する。
1876(明治9)年まで3回の調査を行い、北海道の地質調査に従事し各地に足跡を残している。
1876(明治9)年〜1879(明治12)年の間、本州・四国・九州をめぐる油田調査、地質調査にあたった。
1891(明治24)年に帰国するまで、日本人助手に教育するなど日本の地質学に大きく貢献した。

国沢喜右衛門とは、1847(弘化4)年2月18日 - 没年不明、温根湯温泉開拓功労者。
山口県佐波郡富海村字脇村(現・山口県防府市富海脇)の人庄左衛門の長男として生まれる。
1890(明治23)年、7月に一家で釧路国厚岸太田村(現・厚岸郡厚岸町太田)に屯田兵として入植。6年間同地で開拓に従事する。
その後野付牛(現・北見市)に屯田兵が入植することを知り、商業を営む目的で1896(明治29)年に北見に入った。
1898(明治31)年、国沢喜右衛門・大江興四蔵らが温泉開発のため、武華市街(現・温根湯)に入地する。
1899(明治32)年、北見製軸合資会社を設立。
1901(明治34)年、北見製軸合資会社解散する。滝の湯地区の温泉を、国沢喜右衛門が出願。三男森重要吉の名義で武華原野に牧場40万坪の払下げを申請する。
1905(明治38)年、払下げを受け同時に森重を入植させる。
1913(大正2)年、ソウウンベツ(現・層雲峡)地獄谷に板橋がかかる。7月国沢喜右衛門が武華川から石狩国境を越え温泉を発見し、国沢温泉と名づけられ数軒の温泉宿が営業した。

柱状節理とは、岩体に発達した規則性のある割れ目で、マグマ等が冷却固結する際や地殻変動の際に生じ垂直に発達する、断層とは違う。
柱状になった節理は、六角柱状のものが多く、中には四角柱・五角柱・七角形・八角形のものもある。

国道39号とは、旭川市から網走市へ至る一般国道で、総距離は215.2km。

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