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日本最北端の線路

住所 稚内市開運

稚内観光協会

稚内の由来は、アイヌ語のヤム・ワッカ・ナイ、「冷たい水の流れる沢」という意味である。
開運地区は、埋め立てで出来た地区で独自の町内会は無く中央地区の北1・北3町内会に属している。中央埠頭と北埠頭を基盤とした水産関連会社や、漁協などが集中する地区である。中央は、南1・南2・南3・中央・北1・北2・北3の各町内会で構成され、1879(明治12)年郡役所、戸長役場、警察署、郵便局など、その他諸官公庁が稚内に移転し、銀行、商店などが軒を連ねる文字通りの中央地区だった。
国道40号線の終点でもあり、道道106号稚内天塩線との交差点、稚内市中央2・3丁目交差点そばにある。

宗谷本線稚内駅があり、稚内駅は日本で最も北にある鉄道駅である。
碑が稚内駅前にある。日本最北端の線路として存在した車止めとレールは、稚内市がJR北海道より寄贈を受け当時の記憶を継承するモニュメントとして、旧駅舎時代に最北端であった元の位置へ2012(平成24)年3月に復元した。
稚内駅構内には、2012(平成24)年5月にオープンした道の駅わっかないも併設されている。もちろん日本最北の道の駅でもある。

案内板
 前稚内駅(昭和四十年九月〜平成二十三
年四月)の線路は、現在の位置よりも北側
に設置されていました。
 この車止めとレールは、日本最北端の線
路として象徴的であったものを北海道旅客
鉄道株式会社より寄贈を受け、その当時の
記憶を継承するモニュメントとして稚内市
が平成二十四年三月に元の位置へ復元した
ものです。
 また、かつて北防波堤ドーム横にあった
稚内桟橋駅(昭和十三年〜昭和二十年)ま
での線路をこの車止めから北側に延びてい
る線で表しています。


この稚内地区は、江戸から明治の初期にかけて現在のような宗谷の中核的な役割はなく一般漁民にとっても出稼ぎ労働の場であり、定住生活の場所としての位置づけも当時は弱かったようである。
松前藩や幕府の役人にとっては場所の中心地であり、番屋、運上屋がある宗谷までの船や徒歩、騎馬による通過点でしかなかった。当時徒歩ではノシャップ岬を巡るルートか、ルエラン(坂の下)やクトネベツからクサンルへ抜ける「クサンル山道」を通っていた。1871(明治4)年に巡視した 松本十郎開拓判官や、日本にお雇い外国人として招かれ1874(明治7)年に巡視した ベンジャミン・スミス・ライマンなどはクサンル山道を通ったようである。
この頃の宗谷港は、英国軍艦・樺太からのマス積船などが座礁、破船するなど危険と隣り合わせの港湾であった。このため砂底で破船の危険性が少ないコエトイ沖(現・声問地区)やヤムワッカナイ(現・港地区)の沖合を停泊地とする船が多かった。
陸路として通過点だった稚内地区は、海上面の比較的安全な地域として重視されることになる。

1888(明治21)年には、郡役所、戸長役場、警察署、郵便局などその他諸官公庁が稚内に移転する。それに前後してヤムワッカナイ地区に移住者が増えた。
当時のクサンル地区北側(現・稚内公園に連なる一帯)は鬱蒼たる原始林であった。現在は灌木と笹やぶが広がる公園付近も当時は巨木が立ち並ぶ子供たちの遊び場だったという。1911(明治44)年に起こった大火で焼失し現在の姿となっている。
当時の形成されたばかりの稚内地区は、現在の中央5丁目の真言寺近辺から宝来4丁目(稚内中央小学校)付近までをその区域としていた。おおむね東西約150m、南北約2kmほどの街であった。
稚内の経済が発展するにつれて、手狭になってきた稚内地区は打開策として、「大サの坂」(真言寺付近の坂)など、東西方向への埋め立てと山の切り崩しが行われることとなった。基本的には、家屋、倉庫の建築と水産干場などの生活に密着した埋立だった。
1921(大正10)年に稚内町に許可が下りた埋め立ては、「大サの坂」を切り崩し、その残土を埋め戻しに使った。1922(大正11)年、11月鬼志別〜稚内(初代)間を延伸開業し、小石駅、曲淵駅、沼川駅、樺岡駅、幕別駅、声問駅、稚内駅を新設、稚内まで全通した。(この時の路線は、後に天北線となる浜頓別経由のルートである)宗谷線が宗谷本線に改称。この時の駅が現在の南稚内駅で、港5丁目の跨線橋付近にあった。この頃には「大サの坂」の痕跡はなくなった。これと並行し、稚内町の埋め立ても進捗し現在の中央4丁目〜国道40号線と旧北浜通の辺りまでを埋め立てた。その後も埋め立ては続き、1946(昭和21)年まで続けられた。


1582(天正10)年、松前藩領となる。
1685(貞享2)年、松前藩、宗谷場所を開設。
1706(宝永3年)年、 村山伝兵衛、宗谷場所を請負う。
1781(天明元)年、宗谷に厳島神社建立。(現・内市宗谷村宗谷、宗谷歴史公園内)
1785(天明5)年、幕府の樺太探検隊長庵原弥六一行、宗谷で越年するも、翌年3月に病死する。(墓碑現存)
1787(天明7)年、フランスのラ・ペルーズの艦隊が世界周航の途中、宗谷海峡を通過、樺太が島であることを確認。
1789(寛政元)年、最上徳内らが宗谷を巡視。
1801(亨和元)年、奉行松平忠明、宗谷を巡視し、台場を築く。
1806(文化3)年、遠山金四郎、村垣左太夫樺太を巡視して宗谷に滞在。
1807(文化4)年、幕吏近藤重蔵ら宗谷を巡視。宗谷場所幕府直轄領となる。津軽藩宗谷警備に付くが、多くの藩兵が水腫病で亡くなる。
1808(文化5)年、間宮林蔵ら、樺太探検のため宗谷を出帆。
1821(文政4)年、宗谷場所、松前藩領になる。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が声問に立ち寄る。
1855(安政2)年、宗谷場所、再び天領となる。秋田藩が宗谷警備を行う。
1856(安政3)年、松浦武四郎ら、樺太調査のため宗谷を出帆。
1858(安政5)年、松浦武四郎が声問川を遡り踏査。
1859(安政6)年、宗谷、秋田藩の領下となる。
1869(明治2)年、宗谷、開拓使に属す。
1870(明治3)年、宗谷、金沢藩に属す。
1872(明治5)年、宗谷支庁設置、開拓判官大山重が主任となる。
1873(明治6)年、宗谷支庁を廃し、留萌支庁の管轄となる。
1875(明治8)年、宗谷に開拓使出張所を置く。樺太千島交換条約締結。樺太原住民841名を稚内に移住させる。
1876(明治9)年、宗谷郵便局を設置。
1879(明治12)年、宗谷に郡役所が置かれ宗谷郡となる。宗谷村に戸長役場設置し稚内市の開基となる。
1885(明治18)年、宗谷村尻臼に灯台設置、日本郵船会社小樽・稚内間に定期航路を開く。
1888(明治21)年、宗谷郵便局を稚内郵便局に改称。郡役所、戸長役場、警察署、郵便局など、その他諸官公庁が稚内に移転する。
1889(明治22)年、公立稚内簡易小学校(現・稚内中央小学校)を開設。
1897(明治30)年、郡役所を改め、宗谷支庁を開設。
1900(明治33)年、宗谷郡稚内村、抜海村、声問村の区域を稚内村と称し1級町村制施行。
1901(明治34)年、稚内村を稚内町に改める。
1906(明治39)年、小樽、稚内、樺太定期航路を開設。
1911(明治44)年、山火が延焼し、稚内町724戸・宗谷村71戸・その他諸官庁、学校、病院等消失する。
1913(大正2)年、秋田木材会社が声問発電所を設置し、稚内にはじめて電灯がともる。
1921(大正10)年、声問石油鉱場設立。
1922(大正11)年、11月鬼志別〜稚内(現在の南稚内)間を延伸開業。宗谷線(天北線)開通。11月宗谷線を宗谷本線に改称。
1923(大正12)年、稚泊連絡船運行開始。
1924(大正13)年、北見線開通(現・宗谷本線)、稚斗連絡船運航開始。
1926(大正15)年、稚泊連絡船対馬丸ノシャップ沖で座礁。9月天塩線(音威子府〜幌延〜稚内間)全通。
1928(昭和3)年、12月稚内〜稚内港間を延伸開業。稚内港駅開駅(現・稚内駅)。
1930(昭和5)年、4月天塩線を宗谷本線に編入し、音威子府〜浜頓別〜稚内間を分離し、北見線(後の天北線)に改称。
1937(昭和12)年、稚内測候所を設置。
1939(昭和14)年、2月稚内駅を南稚内駅に改称(同時に稚内港駅を稚内駅に改称)。
1942(昭和17)年、北海道配電会社、声問火力発電所設置。
1945(昭和20)年、樺太居留民引揚船稚内に入港。米軍稚内に進駐。
1949(昭和24)年、稚内市制施行、稚内市となる。
1955(昭和30)年、2月宗谷村を編入する。
1956(昭和31)年、稚内空港建設工事着手。
1957(昭和32)年、稚内測候所気象台に昇格。
1959(昭和34)年、稚内空港開港。曲淵稚内炭鉱閉山を宣言。
1960(昭和35)年、南極観測樺太犬記念碑建立。
1961(昭和36)年、4月北見線を天北線に改称。
1963(昭和38)年、氷雪の門、九人の乙女の像建立。
1964(昭和39)年、三井沢宗谷炭鉱閉山
1965(昭和40)年、稚内新駅舎完成。
1968(昭和43)年、ノシャップ寒流水族館開館。
1971(昭和46)年、ノシャップ米軍基地閉鎖発表。
1973(昭和48)年、稚内空港定期便就航。
1974(昭和49)年、利尻礼文サロベツ国定自然公園が利尻礼文サロベツ国立公園となる。青少年科学館完成。
1975(昭和50)年、郷土資料館設置。
1978(昭和53)年、にしん資料館完成。稚内沖海底石油ボーリング開始。
1979(昭和54)年、船員保険保養所「宗谷パレス」完成。
1980(昭和55)年、日ソ友好会館完成。探検家間宮林蔵の立像建立。東洋一を誇る稚内港北防波堤ドーム全面改築工事完成。
1982(昭和57)年、宗谷岬展望台完成。
1983(昭和58)年、大韓航空機撃墜事件発生。宗谷黒牛の生産を開始する。
1984(昭和59)年、2月天北線全線の貨物営業を廃止。
1985(昭和60)年、大韓航空機事故の祈念碑「祈りの塔」完成。
1987(昭和62)年、稚内空港がジェット化。
1988(昭和63)年、世界平和の鐘、子育て平和の鐘が宗谷岬平和公園に設置。「動物ふれあいランド」が空港公園に完成。
1989(平成元)年、5月天北線廃止に伴い、代替輸送バス運行開始。そうや竜ふるさと歴史館完成。
1991(平成3)年、宗谷丘陵展望休憩施設「ゲストハウスアルメリア」完成。
1992(平成4)年、映画「南極物語」で主役の樺太犬を演じた、犬のタロが死亡。声問川大曲遺跡の発掘調査開始。
1994(平成6)年、大沼野鳥観察館完成。
1995(平成7)年、サハリン定期航路就航(稚内港〜コルサコフ(旧大泊)間)。
1998(平成10)年、風力発電施設稼動。「タロ・ジロ里帰り展」開催。
1999(平成11)年、サハリン定期航路再開。
2000(平成12)年、サハリン州考古学者ら15名、丸木舟で宗谷海峡横断。富士見地区の石油天然ガス基礎試錐「チカップ」本格的な掘削開始。
2004(平成16)年、宗谷丘陵の周氷河地形が北海道遺産に認定される。
2005(平成17)年、国内最大規模の風力発電「宗谷岬ウィンドファーム」(57基)が稼動開始。
2007(平成19)年、稚内メガソーラー実証実験施設の起工式挙行。稚内副港市場開業。ラ・ペールズ顕彰記念碑が建立される。
2008(平成20)年、国際・国内フェリーターミナル完成。
稚内市史、稚内市史第二巻参考

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