九条武子・歌碑住所 旭川市神居町神居古潭一般社団法人 旭川観光コンベンション協会 旭川の地名の由来は、アイヌ語で忠別川「チュプ・ペッ」(日・川)の意味で、「日」を「旭」に置き換えて「旭川」と意訳した。 神居古潭とは、アイヌ語で「カムイ(神)コタン(集落)」または、カムイコタン(神の住む場所)の音訳であり、古くよりアイヌの人々の聖地とされてきた。 石狩川が上川盆地から石狩平野に流れ出る急流を望む景勝地で、旭川八景の一つに選定されている。 国道12号線神居古譚トンネル手前から分岐があり約240mほど。 1922(大正11)年9月に、来道の際神居古潭の奇怪石幽境など景勝をたたえて詠んだ碑で、1956(昭和31)年5月建立。 旭川には、1922(大正11)年と1927(昭和2)年に訪れていて、この句は、「たきつ波ましろう白う岩にちる神居古潭のくもれる真畫」と書いてある。 そばには、神居古潭駅がある。 九条武子(くじょうたけこ)とは、1887(明治20)年10月20日 - 1928(昭和3)年2月7日、教育者・歌人、後年には社会運動活動家としても活躍した。 大正期を代表する女流歌人のひとりで、貧しい人々の順回治療などに尽くした人として知られ、和歌にも長け歌人としても、「金鈴」「薫染」などの歌集がある。5回も北海道を訪れている。 1887(明治20)年、10月京都・西本願寺第21代宗主・明如上人大谷光尊の次女(第6子)として西本願寺に生まれる。生母である藤子は光尊の側室で士族紀州藩松原有積の長女。 1909(明治42)年、横浜正金銀行(現・三菱東京UFJ銀行の前身)勤務の男爵九条良致に嫁ぎ、麹町区(現・千代田区)三番町の九條邸へ移る。新婚まもない二人は渡英するが、翌年ひとりで帰国した。 1916(大正5)年、佐佐木信綱に師事、歌誌「心の花」に歌を発表する。 1920(大正9)年、に著した歌集「金鈴(きんれい)」によって世に知られた。仏教主義に基づく京都女子専門学校(現・京都女子学園、京都女子大学)を設立、仏教婦人会を創設し、仏教婦人会連合本部長として社会事業や女性運動においても活躍する。 1922(大正11)年、9月来道の際神居古潭の奇怪石幽境など景勝をたたえて詠んだ碑が神居古潭駅そばにある。 1923(大正12)年、9月関東大震災で自身も被災するが一命を取りとめる。全壊した築地本願寺の再建や、震災負傷者・孤児の救援活動などさまざまな事業を推進した。 1928年(昭和3年)2月震災復興事業での奔走の無理がたたり敗血症発症。 国道12号線とは、札幌市から旭川市へ至る一般国道で、総距離は156.8km。 大きな地図で見る |